D級京都観光案内 4

化野に小野篁を訪ねて


 

  平安時代京都の三大葬送地は鳥辺野、蓮台野そして化野だった。葬送といっても土葬でも火葬でもない。風葬・鳥葬であった。死んだ人はただその地に打ち捨てられ、鳥や虫に食い尽くされるままであった。鳥辺野の地名の由来はそこにある。六波羅ともよばれた。六波羅蜜寺が今そこにある。ロクハラは髑髏原(ドクロハラ)が訛り、ロクロハラ、ロクハラとなったという説もある。

鳥辺野の六道珍皇寺、蓮台野の千本ゑんま堂には地獄の冥官だった小野篁が祭られていた。ならば化野にも小野篁ゆかりのお寺があるに違いない。化野のある右京区の地図を広げてみよう。鳥居本化野町に化野念仏寺がある。そこから東1qのところに何と大覚寺門前六道町というのがある。その名の通り大覚寺(小野篁を隠岐に流したり復官させたりした嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院を娘である淳和天皇の皇后が寺に改めた)の門前の地域だ。

この地に福正寺というお寺があり、そこに小野篁が六道珍皇寺の井戸から地獄に赴きそして帰ってくるときの井戸があったと言い伝えられている。この地は生の六道といわれることになった。ただこの寺は明治3年に廃寺となり、地蔵菩薩や仏像などは300mほど西の清凉寺境内にある嵯峨薬師寺に移された。ということで今日の最初に目指すのは清凉寺である。なお昭和35年福正寺跡と思われるところから7つの井戸が発掘されたが、すぐ埋め戻されて今は誰かのお家が建っている。

清凉寺には駐車場がある。嵐山、嵯峨野では車を止めるところで苦労する。そういう意味では助かるのだが、駐車料は800円である。足元を見られている。それならこっちもここを拠点にあっちこっちを歩いて散策しよう。

清凉寺の本尊は釈迦如来である。だから嵯峨釈迦堂ともいう。源氏物語の主人公光源氏のモデルとされるのが源融である。その本邸は六条河原町にあった河原院であるが別邸を嵯峨にも宇治にももっていた。宇治にあった別邸は平等院になった。嵯峨にあった山荘棲霞観が棲霞寺になり、「然(ちょうねん)が宋から持ち帰った釈迦像(釈迦如来立像、国宝)を当寺に祀り、寺名を清凉寺と改称したという。

駐車場から一旦南に下がり立派な仁王門から入る。広大な境内の中央に本堂がある。ここに上がって釈迦如来像とかを拝み、国宝、重文を見て、御朱印ももらう。阿弥陀堂、狂言堂もある。狂言堂では京都3大念仏狂言の一つ嵯峨大念仏狂言が3月、4月、10月に行われる。315日には釈迦涅槃の荼毘を暗示する行事として、昼には大念仏狂言が奉納され、夜には大松明(おおたいまつ)に点火される。清凉寺が信仰の対象としてお釈迦さんと強い関係にあることがわかる。なお泉涌寺、東福寺そして真如堂ではこの時期その寺所蔵の涅槃図の特別公開が行われる。それぞれの涅槃図には特徴がありこれを見比べるのもなかなか楽しい。

源融の墓所、豊臣秀頼の首塚もある。首塚についてはネットからコピペします。「1980年(昭和55年)大阪城の京橋口三の丸跡から、地中に埋葬され、周囲にシジミやタニシの生貝が敷かれた頭蓋骨が発見されました。その頭蓋骨は、2025歳の若武者で、首に介錯の跡があり、左耳が不自由だったこと、出土品などから、大阪夏の陣と時期が合うことがから、秀頼のものと推定され、1983年(昭和58年)、秀頼ゆかりの清涼寺に首塚を造って納骨されました。」

その西に薬師寺がある。これが今日の目的、小野篁ゆかりの寺である。「生の六道 小野篁公遺跡」の石碑がある。日月門をくぐると境内には三地蔵尊がある。本堂の中にはご本尊の薬師如来像や阿弥陀三尊像があるが、残念ながら824日の地蔵盆の時にしか一般公開されない。

一休みしよう。境内南西に大文字屋という茶店がある。店の前には緋毛氈を引いた床几があるかるすぐわかる。ここの名物はあぶり餅である。あぶり餅は、長さ20p程の竹串に親指大にちぎった餅を指し、黄な粉をつけて炭火であぶり、といた白みそのたれをつけたものである。京都検定的にいうと、大徳寺の近くにある今宮神社の門前名物であり、神社東門前参道の北側にある一和と南側のかざりやがあり、両方とも店前で炭火であぶっている様子は壮観だ。競って呼び込むものだから始めて行ったときはうろたえたものだ。席に座ったものの落着かなかったことを覚えている。その点大文字屋はゆったりしている。あぶり餅ってこんな味だったのかとゆっくり味わえる。

清凉寺の門前から東に100mも行かない所に嵯峨豆腐の森嘉がある。当然ここでも豆腐を買おう。もちろん豆腐は買う。そしてここの名物の飛龍頭(ひろうす)も買おう。ユリ根とぎんなんが自慢だそうだ。厚揚げも当然買う。もうこれで当然今夜のお酒はうまい。夏に来たなら、きぬごしとからし豆腐も買おう。豆腐についている海苔は四万十産という。

そこから東約300mの大覚寺門前を左折してまっすぐ北上すればすぐ大覚寺に突き当たる。ここにも広い駐車場がある。バスでも終点になっているからアクセスはいい。大覚寺は皇室と関係の深い門跡寺院であり、伽藍は御所風である。さっき行ってきた清凉寺とは趣を異にする。京都禅宗の五山とは明らかに違うし、同じ真言宗の東寺と比べると宗教性より風雅を求めているのじゃないかという気までしてくる。

重要文化財である宸殿は後水尾天皇の中宮、東福門院の御殿を移築したもので、寝殿造り風の建物である。宸殿の襖絵の「紅白梅図」と「牡丹図」は狩野山楽(京狩野派の祖)作であり重要文化財だ(ただ現在見るのは複製)。前庭には白砂の中に左近の橘、右近の梅(桜ではない、御所内裏でも最初は梅だった)がある。

話はちょっと横道にそれる。東福門院は徳川秀忠とお江の間の娘である。徳川家康の指示で入内し、御水尾天皇の中宮になった訳だが、その前に天皇の寵愛する女官と子供たちは幕府によって追放されている。御水尾天皇はそれでも強気に幕府と渡り合った、ということは東福門院は幕府と朝廷の間に立って何とかそれぞれの顔が立つようにと奮闘しただろう。でも結局後水尾天皇の政治への心は折れてしまった。政治に心が折れた人はどこに向かうか、レベルの低い人は酒におぼれる。しかし教養人は文化に向かう、文化を深化させる。近くは細川護煕元首相を見ればいい。でもまた政治に出てきているのじゃない、いや反原発は政治・経済ではなく文化なのだ。後水尾天皇は修学院離宮の造営以外にも比叡山を借景とする圓通寺をこよなく愛し、今我々が名勝地として楽しむところにその名を残している。さて文化にはお金がかかる。後水尾天皇が文化にのめりこめるよう、東福門院は幕府からお金を調達させたに違いない。さらに東福門院その人も夫に影響されたのかさせたのか、きっと文化に多くの意味を見出す人に違いない。

さて話をもどそう。五大堂には不動明王をはじめとする五大明王像がある。京都の円派仏師の明円の作で重要文化財である。正寝殿は12の部屋を持つ書院造で、重要文化財であり障壁画は狩野山楽および渡辺始興の筆である。

建物の東側にある大沢の池は月の名所とも知られ、嵯峨院庭園の遺構である。唐に傾倒していた嵯峨天皇が洞庭湖を模して造らせた人工池である。池中には天神島・菊ケ島と庭湖石があり、この二島一石の配置が華道嵯峨御流の基本型に通じているらしい。中秋の名月の頃には観月の夕べが催され、池には龍頭船・鷁首船が浮かべられる。

 池の100m北にある「名古曽滝」も国の名勝に指定されている。百人一首の第55番 大納言(藤原)公任

 滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ

滝は枯れてその流れの音はもう聞こえないけれど、その名声は消えず、今も世間に聞こえ流れ続けている、そう素晴らしいものというものは記録にならなくても記憶に残るのだ。

公任がそう思ったように私たちもそう思いたい。診療所を閉じたあともあああの先生に診てもらったら本当につらかった心の憂さも軽くなったんだよ、世間の人の心に語り継がれるようなそんな医者であり続けたい。名古曽の滝にちょっと力をもらいながら次の目的地化野念仏寺に車を走らせよう。


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