十八年後の邂逅 |
1969年10月21日、私は友人二人とともに扇町公園にいた。公園には関西の各大学の全共闘やセクトさらにはべ平連の旗の下に、多くの学生や労働者たちが集まっていた。大学闘争の高揚を背景に70年安保の改定を翌年に控え、その年の国際反戦デーは例年以上の盛り上がりを見せていた。ベトナム戦争は南北の戦いとはみなさず,南ベトナムでの人民解放戦争へのアメリカの介入ととらえるのが私たちの考えであった。大学闘争の中ではノンポリであった私たちもベトナム人民がアメリカによって苦しめられているこの事態に対しては国際反戦デーの今日こそは「アメリカはベトナムから出て行け」と叫び,ベトナム人民と連帯することが必要だと考えたのである。 私たちはノンポリだったから私たちの所属する大学の全共闘の旗の下にはつかなかった。よその大学のベ平連の後ろについてデモに参加した。全共闘のデモ隊は火炎瓶も使用したり機動隊と激しくぶつかり合ったりしながら多くの検挙者を出していた。一方私たちは「ベトナムに平和を」とシュプレヒコールしながら行進し,時にはジグザグデモをしながら御堂筋を南下し本町あたりで流れ解散した。 その日,私たちが解散した場所から程遠くないところで一人の女子学生が救急車に収容されていた。その学生の名前は細川レモン。レモンは女子大の4回生。レモンは極々普通の女の子で,裕福な家庭に育ち大学ぐらい出ておきなさいという親の勧めで今の大学に入ったのだ。ところが大学闘争の高揚は政治にまったく無関心なこの平凡な女子学生レモンを平凡なままにはしてはくれなかった。国際反戦デーに向けてこののどかな女子大でも学生自治会が各クラスから代表者を選んでデモに参加するよう指令を出したのである。どういういきさつだったかは定かではないけれどレモンはクラス代表に選ばれた。根がまじめなレモンはベトナム戦争のことを一生懸命勉強した。こんな悲惨なことが起こっているなんて,私にできることなら何でもしないといけないのだ。レモンは悲壮な決意を胸に大学の仲間とともにデモの隊列に加わった。 レモンにとって思いもかけない初めての経験だった。激しい動き,シュプレヒコール、警官隊の制止の声、デモ隊の悲鳴、激しい息づかい,噴出す汗,その匂い、レモンの五感はすべてフル回転し,頭の中では「ベトナムの少女に平和を」「でも私は逮捕されるのでは」などとあれやこれやの考えが渦巻いた。そのうち何がなんだかわからなくなったかと思うと突然頭の中は信じられないほど静寂になり,美しい声が響いてきた。「レモン,裸になりなさい。美しい心をもつなら美しい体を示しなさい。」レモンは啓示にしたがって一枚一枚着ていたものを脱ぎ,大きな声で叫びだした。デモ隊は混乱した。レモンの周りには空間ができ,警察官たちが慌ててとんできた、しかし呼びかけへの反応が尋常でないと考えた彼らは救急車を呼んだ。精神科病棟にいることにレモンが気づくのは翌日の昼遅くなってからであった。 大阪から4000km離れたベトナム・サイゴンの郊外にランとスアンの姉妹は住んでいた。姉のランは8歳で,少しばかり言葉の発達が遅く軽い知的障害があるのではないかと農業と行商で生計を立てる親は心配していた。それに引換え3歳になるスアンは利発でランよりもうまく受け答えするほどだった。大阪で私やレモンが「ベトナムに平和を!アメリカはベトナムから出て行け!」叫んでいることを姉妹が知ったとしても二人にはなぜ日本人たちがそう叫ぶのか理解できなかっただろう。二人が幼すぎるということだけではなかった。二人の家族を含め多くの南ベトナムの人たちは共産主義が嫌いだった。ベトナム戦争は北と南の戦争だと思っていた。ただまだ戦火は二人の姉妹の家にまでせまってはいなかった。しかし5年6ヵ月後にサイゴンは、私やレモンの考えからすると「解放」され、姉妹からすれば「陥落」したのである。 月日は人を変える。 大学院の修士課程1年生として意気揚揚と物理の道を進もうとしていた私だったが,父が事業半ばで膵がんを患いあっという間に死んだために、アルバイトに精を出すようになり,研究のほうはだらだらとやっているというような有様だった。その上結婚してできた息子が自閉性障害であったことも手伝って,医学部に入りなおしていた。その医学部の付属病院にレモンが入院していることなど知る由もなかった。 レモンは最初の入院から程なく退院した。しかし彼女は冠婚葬祭に弱かった。誰かを好きになるとすぐ混乱してしまった。身近な人が結婚するということを耳にすると心穏やかにはすまなかった。父の死に際してはその責任が自分にあるように思えてならず,どう責任をとればいいのかと考えているうちに訳が分からなくなっていた。そのたびにレモンは大学病院の精神科に入院した。レモンの主治医はずっと北野講師だったが1年で変わる受け持ちの研修医は何人も変わっていった。レモンは研修医の品定めができるほど大学病院の中では常連さんになっていた。 ランとスアンに押し寄せた運命という名の川は激しく逆巻く濁流だった。共産主義が嫌いな多くの南ベトナムの人のように姉妹は自由の地を求めてボートピープルとして南ベトナムを脱出した。ランにはそのような決断は難しかったようだが,自由への思いの強いスアンが強引に姉を引っ張る形でボートピープルになり,まずマレーシアの難民キャンプに無事逃げ出せた。マレーシアの難民キャンプで二人にはそれぞれ恋人ができた。ランにはタン,スアンにはグエンである。2組のカップルはさらに自由の地を求め日本にやってきた。まず姫路の定住センターに落ち着くことになる。 利発なスアンは日本語をよく覚え、しかも顔立ちも日本人に似ていることもあり早々と日本の生活に慣れていった。一方,ランはなかなか日本語を覚えられず日本の生活に適応するのに手間取っていた。その矢先,ランの恋人タンは日本には飽き足らずオーストラリアに新天地を求めようと考えていた。そのことを納得して一緒に行くはずだったランは出発の前日になって,突然「私は行かない。おまえだけ勝手に行けばいい」と喚き出し,錯乱状態に陥ってしまった。タンはそんなランをおいてオーストラリアに行ってしまった。妹のスアンは恋人のグエンと同棲していたが、二人は錯乱状態の姉を自分たちのアパートに連れて帰ったものの姉の症状は改善する兆しを見せず,途方にくれた二人は姫路の定住センターに相談した。センターの嘱託医をしていた大学病院の武内医師がランを大学病院に入院させる手はずを整えた。 姉妹を襲う不幸はこれにとどまらなかった。安定してきた姉を見舞ったスアンは,ちょっとしたことで姉と口論した。帰宅したスアンが調子を乱し不穏となり、グエンはスアンを別の精神科病院に入院させざるをえなかった。自由を求めてやってきたはずの日本で二人の姉妹はともに精神科病院の閉鎖病棟の中で暮らすことになってしまっていた。 1987年5月21日、40歳で医者になっていた私は精神科を研修場所に選んでいた。この日は研修医の引継ぎが行われ,先輩の(前年の)研修医の代表から私が受け持つ患者の名前が知らされた。「先生が受け持つ患者さんは『野田ふさえさん、75歳』『細川レモンさん39歳』『ランちゃん29歳,この人はベトナム難民の人』です。詳しい病歴等は担当研修医から聞いてください。」 国際反戦デーの日「ベトナムに平和を!」をキーワードに大阪にいた二人の男女と遠く離れたそのベトナムにいた一人の女性はいったん時空を越えてそれそれが思いもかけなかった人生という道を歩み,それでいてまるで始めからこの時に出会うように計算されていたかのように精神科の医者と患者という妙に濃い関係の中に引き込まれてきたのだ。ただ、その日,二人の詳しい病歴を知らない私は医者として始めて受け持つ患者さんとの間にこのような因縁が隠されているなどとは考えてもみなかった。 次の日,ランを診察し、私たちが求めたベトナムに平和を!の叫びはなんだったんだと沈んだ気持ちでレモンの診察に移った。診察の後、研修医室に戻った私は今しがたレモンの診察で聞き取った彼女の発症の日付を反芻していた。その日付を何度も確認して、レモンと私が国際反戦デーの日に近くにいたのだというのが事実に違いないと確信した。野田ふさえの診察に向かうために研修医室を出た私はつぶやいた。「18年後の邂逅だ。」 |
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