D級京都観光案内 54

明智光秀を探して 1

来年(2020年)のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は多くの戦国武将の中でも特に明智光秀を主人公として光を当てている。従来通り、明智光秀とくれば主君織田信長に謀反を起こした本能寺の変を山場とするのか、新解釈でこの変及び光秀を語るのか、あるいは光秀の娘、玉、後の細川ガラシャにも光が当たるのか、明智光秀ファンの私としては大いに気になる所である。

本能寺の変に関しては明智光秀単独犯行説、黒幕存在説が今も多くの人によって熱く語られている。単独犯行説はさらに、怨恨説、野望説、政策対立説、精神疾患説と分類され、黒幕存在説の黒幕として、将軍足利義昭、朝廷、羽柴秀吉、徳川家康、毛利輝元、堺商人、本願寺、さらにはイエズス会を上げる人もいる。さらに井上慶雪という人は光秀冤罪説(真犯人は羽柴秀吉)までぶち上げている。

ただこれらの諸説、特に黒幕存在説を力説する在野の研究者や小説家に対し日本中世史の学術的専門家、呉座勇一氏は角川新書「陰謀の日本中世史」の中で、本郷和人氏は祥伝社新書「乱と変の日本史」の中で、冷ややかな評価を与えている。黒幕がいたと分かっても歴史が変わるわけでもないし、歴史の解釈が変わるわけでもないとそっけない。

でも私は明智光秀はなぜあの行為に及んだのか、やむに已まれずあの行動に出たのだろうか、とても興味があるのだ。それは結局個人の歴史、運命は日本全体の歴史の中で決定されていったのだけれど、光秀個人の歴史も日本全体の歴史に少なからず影響を及ぼしているに違いないと思うからだ。個体と全体とは相互作用を及ぼし合うダイナミックなもののはずなのだ。

歴史のダイナミックスをD級京都観光案内では垣間見ることを目指している。明智光秀を鍵に観光してみよう。そのスタートとなる地点は能勢町地黄にある嶋田酒店である。箕面トンネルを抜け、止々呂美から摂丹街道(国道423号)を北上し中止々呂美で左折し箕面森町、豊能町東ときわ台を行き、吉川交番前交差点を右折して国道477号線を北上する。川西市黒川の妙見ケーブル前を通り過ぎ、峠を越えまた能勢町に入った最初の信号を右折し旧道に入る。能勢街道である。古い街道筋だが、郵便局があったり豊能警察署があったりと往時は村の中心地だったことがわかる。ここが地黄地区である。薬草の地黄が栽培されていたことに由来する地名という。

地黄陣屋跡(平成28年までは能勢東中学校があった)が右手に現れるが、そのすぐ手前の左手にアニメ「まんが日本むかし話」に出てくるような酒屋、嶋田酒店がある。古い農家造りの店で、重たいガラス戸を開けると、作り付けの重厚な机の向こうにどっしりした椅子があり、腰の低い店主が腰を上げ「何しましょう?」と挨拶してくれる。机の上や正面の棚には何種類かの酒、1升瓶であり4合瓶であり、あるいは焼酎1銘柄が置いてある。酒はすぐそばの秋鹿酒造のものと京都京北周山の羽田酒造のものだ。入口すぐ右手には冷蔵用の日本酒のケースもある。桜川サイダーに能勢ジンジャエールも置かれている。令和元年6月のG20大阪サミットで晩餐会の乾杯酒になった「秋鹿 一貫づくり」や同様にうまい「奥鹿之助 中取り 純米大吟醸 袋吊り 生原酒」もある。G20以後品薄になっているようだ。

入口の左手は客間になっていて、その上がり框というべきところにどういうわけか「摂丹の霧」「光秀奔る」「光秀の娘ガラシャ」という3冊の本が平積みされている。

そもそもこの店は変わっている。店の前には「摂丹の霧」という手作り木製の看板が立っている。入口のガラス戸には、「生酒あります」という宣伝文ならまだしも、なにやら俳句も書いてある。「ちょっと留守にしますが1215には戻ります」などの不在宣言も書いてある。そのくせ戸を開けるとちゃんと開いてしまうのだ。まあ能勢はのどかなところなのだ。

平積みの3冊の本の著者・家村耕さんは腰の低い店主の嶋田さんに他ならないのだ。著者プロフィールには「京都府に生まれ、大阪府・能勢で農業・自営業に生きる」とある。地方史研究家がそうであるように嶋田さんは物知りである。能勢のことならその歴史も含めて何でも知っている。戦国時代、能勢という小さな国とその領民を守らねばならなかった能勢頼道、頼郡(よりひろ)、頼次の3兄弟の奮闘を明智光秀とのかかわりを絡めて書かれているのが小説「摂丹の霧」である。

頼郡は光秀の部下になり、認められ、光秀公認で次女玉と一緒になる予定だった。織田信長の命令で玉は細川忠興へ輿入れせざるを得なくなる。失意の頼郡はその感情を振り払うべく播磨攻略軍の先鋒隊をつとめ討ち死にしてしまうのだ。

「光秀奔る」の中で光秀は病弱な妻熙子以外には側室を持たず、丹波攻めの最中に妻熙子が死んだとき、戦陣を抜け妻の葬儀に大津坂本の西教寺に戻り参列している。

私は純愛が好きである。家村耕の作品に出てくる主人公たちはみんな純愛である。明智光秀を好きになってしまったのはこの一点のせいかもしれない。

地黄陣屋跡のこと、左手に見える丸山城跡のことなどは是非嶋田酒店においしい酒を買いに来たついでに嶋田さんから説明を受けるのがいいだろう。なお私が足しげく嶋田酒店に来るのは、羽田酒造が嶋田酒店用に造る本醸造「摂丹の霧」である。単独で飲むならちょっと物足りないあっさりした感じだが、どんな料理ともその料理のうまさを引き立ててくれるということでは最高だと思っている。うまい酒を飲む以上に料理をうまいと食べたい私にはぴったりの酒なのである。

嶋田酒店から少し北に行ったところに農家民宿「みちくさ能勢」がある。有機野菜を使ったランチは金土日だけやっている。

さらに北に行くと右に能勢妙見の本院に当たる真如寺がある。能勢頼次を開基、日乾上人を開山とし、宗祖日蓮上人の御真骨の一部を身延山から分けられ安置していることから関西身延とも称される。裏山をどんどん行くと奥の院もある。

街道をさらに北に行くと地黄の交差点があり、広い国道に合流する。一旦南に下がり、嶋田酒店からちょうど真西あたりに清普寺がある。能勢町観光協会の観光案内を転載しよう。「慶長六年(1601)旗本能勢頼次公が父の菩提のため開創しました。日蓮宗方丈型の本堂としては府内で最も古い本堂をはじめ、能勢家墓所にならぶ巨大な墓石群など近世寺院伽藍の趣を残す貴重な遺構です。」

地黄の次の信号、倉垣橋を少し北に行くと秋鹿酒造がある。日祝以外なら店は開いていて、ここでしか手に入らない酒を購入することができる。年末は29日まで開いていたと思う。一度だけ正月用に高い酒を買ったことがある。

さらに北に行くと、「吉野関跡 ひいらぎ峠」の石碑が立つ、大阪と京都の府境、かつては摂津と丹波の国境であるひいらぎ峠にやってくる。能勢街道の終点でもある。

峠を越えると亀岡市本梅町である。峠から2㎞ほど行ったところから右手に入る細い道がある。竹岡醤油の蔵である。ここの醤油は丹波産の黒大豆、白大豆、小麦と沖縄産の塩を使った純国産の本格醸造醤油というのが売りである。でももっと驚くべきことは醸造中の諸生物、酵母にモーツァルトを聞かせることで、活性化させ(ホントかよ~)、いい醤油作っているという。蔵を見学させてもらうだけでなくいろんな醤油も購入することができる。

いよいよ光秀ゆかりの寺、谷性寺を目指す。本梅の交差点で、右折して湯の花温泉の方には行かず、そのまま北進する。宮前の信号で国道372号線にぶつかる。その信号を右折し湯の花温泉の方に進む。「ききょうの里」ののぼりに導かれて無料駐車場に止める。6月下旬から7月下旬までが開園時期で、谷性寺を拝観するにも入園料600円を払ってまず園内に行かないといけない。

谷性寺には明智光秀の首塚がある。明智光秀は天正3年始めて丹波の地に入って以来、当寺の不動明王を崇敬し、本能寺の変を決意した時にはこの不動明王に誓願したという。山崎の戦い後、小栗栖の藪で農民兵に討たれたとき、溝尾庄兵衛は光秀の首を隠しておき、後に光秀が生前に信仰していた当寺に運び懇ろに埋め葬ったといわれている。光秀の首塚は白川通り三条にもあり、当寺の言い伝えは伝説の域を出ないが。

ききょうの里開園時には本堂に上がることができ、光秀関連のいろいろな資料を見ることができる。

首塚に正対する境内東側に明智山門がある。明智の家紋、桔梗も見えるという。境内には明智の家紋に因みキキョウが植えられていたが、平成16年から門前の休耕田を利用し、キキョウ5万株ものききょうの里を作り町おこしとしたのである。キキョウはいろいろな種類のものがあり、キキョウのほかに、ルドベキア、ハンゲショウ、アジサイも咲き誇り、紫、青、黄色、白をうまく写し込むと見映えのする写真が撮れる。

ききょうの里の前の国道を亀岡市街に向かって東に車を走らせるが、稗田野のあたりで北に進路を取り、くねくねと道を曲がり、とこなげさん千手寺参道の標識のある細い道をどんどん登っていく。独鈷抛山(とこなげさん)千手寺がそこにある。

山門を見上げると古いが凛として立っており、仁王像も古いだけに迫力がある。山門から下界を眺めると、山木立の向こうに亀岡盆地がはるかに見える。摂丹の霧と呼ばれる名物の霧が出た時は亀岡盆地の建物も田畑も濃い霧の中に隠れてしまい、自分の立っているところがまるで霧の海に浮かんでいるように見えるのだ。

寺伝によると、弘法大師が唐に渡り密教の奥義を伝授されて、いよいよ帰国という時に、海岸で日本に向かって密教の仏具である独鈷(とっこ)を投げ上げたところ白雲を引いて飛び去り、帰国後神託によりその独鈷がこの地の松の木の枝に引っかかっていると知り、白鹿に導かれこの地に来て寺を開創したという。この地を鹿谷(ろくや)、山名を独鈷抛山(とこなげさん)、弘法大師が彫った千手観音を本尊としたので寺名は千手寺とされたいう。

藤原時代に消失し、復興した時臨済宗に変わったが、天正5年の兵火でも焼失し、再度妙心寺派の禅寺として再興されている。

この兵火にわが明智光秀がかかわっている。織田信長から丹波平定を命じられ、多分八木城を本拠とする内藤氏と戦ったに違いない。千手寺も戦場となり、なおかつ八木城攻略の起点として当寺の北に城壁を作り千手寺城としたらしい。光秀は城造りの名手と言われていた。面目躍如である。

なおこの寺の境内の湧水は眼病に効くと言われている。確かに飲んでみるとおいしい水で、心なしか目がすっきりしたように感じてしまった。

目がすっきりしたせいか帰りの下りは対向車が来ないだろうかと、さほどびくびくせず広い国道まで下りてこれたのである。

光秀を探す旅はまだまだ続く、でも今日のところはここまでだ。


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