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続D級京都観光案内 1

葵祭と二つの神社

令和26月でもって医療法人田中メンタルクリニックを完全退職し、7月からはフリーランス精神科医として活動している。聞き慣れない職種だし、いったいどんなことをしているのといぶかしく思う先生方がほとんどだろう。その詳しい説明はおいおいして行こうと思うが、現在の活動は次のようなものだ。北千里駅近くの団地の一室にオフィスを構え、精神科医療、障害福祉、精神健康増進について、執筆、Web情報発信をし、そして呼ばれれば講演・研修会の講師に出かけている。週1回半日だけ市立吹田市民病院でも精神科・心療内科の診療に携わっている。月1回生活介護事業所の嘱託医として医療相談も受けている。

圧倒的に暇である。いかようでも自分の時間を作り出すことができる。いくらでも京都観光を堪能できるはずであった。ところができていない、そうコロナ禍である。昨年7月から第2波、収まりかけたら11月からは第3波、今年の3月今度こそ収まるかと一安心していたら4月から第4波がすごい勢いで襲ってきている。

気を緩めるな、気の緩みが一番怖いと行政やマスコミは言う。感染予防に対して気の緩みはいけないが、感染の危険率が極めて低い状況では十分気を緩めないと、メンタルヘルスは維持できない。緊張は大変重要な生体反応である。しかしながら緊張の連続はメンタルヘルスの敵である。過緊張もメンタルヘルスの敵である。ストレスがかかりすぎるとよくないとはこのことだ。うつらないうつさないの万全の策を取った状況では思う存分気を緩めるのがいいことなのだ。

ということで感染の危険性が極めて低い状況が作られるならば、京都に遊びと買い出しに行くのも悪くはない。楽しめれば十分気を緩め英気を養えるわけである。

5月の京都観光の一大イベントは、京都三大祭りの一つ、葵祭である。京都にとってだけでなく京都検定にとっても極めて重要な行事である。京都検定公式テキストから葵祭の項を引用してみよう。

515日に行われる賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ、上賀茂神社)及び賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ、下鴨神社)の例祭。古くは賀茂祭といい、四月の中酉日(なかのとりのひ)に行われた。祭儀に関わる人々から牛車、氏子の家の軒下に至るまで双葉葵をかけたことから、江戸時代以降葵祭と呼ばれるようになった。(中略)また、古典文学の『源氏物語』では葵上と六条御息所との車争いや『枕草子』『今昔物語集』などにも、祭の風情が描かれ、『徒然草』にも祭の面白さの例に葵祭が取り上げられている。そこでは、単に『祭』といえばこの葵祭を指すほどであったことが分かる。)

「欽明天皇の代に国内が風水害で凶作に見舞われたため、卜部伊吉若日子(うらべいきわかひこ)に占わせると賀茂神の祟りであることがわかり、四月の吉日に、葵を飾り馬に鈴をつけて走らせ、五穀豊穣を祈ったことが始まりとされる。」

「嵯峨天皇により中祀(もっとも重要な祭祀)に準ぜられるようになった。応仁の乱から中絶になり、元禄7年に再興、明治4年に再び中絶したが、岩倉具視により同17年に再興され、515日に行われるようになった。」

ここで記載されている事項は、過去の京都検定1級、2級、3級において何度も何度も繰り返し出題されている。1級受験者はここに出てきた事項とりわけ固有名詞を漢字で正しく書けるようにしておかないといけない。ただ記載されたものをただひたすら覚えるということだけに専念すると、歴史の奥深さを見失うことになる。ゆっくり読み解いていくことにしよう。

欽明天皇の代というのはいつ頃なのだろう。欽明天皇は第26代の継体天皇の子供で第29代天皇、在位期間は西暦539年から571年である。かつて日本史語呂合わせ記憶法では、「ほっとけほっとけゴミ屋さん(538年、仏教伝来)」、「任那の日本府ごろにゃおう」(562年 任那から撤退)」と条件反射で思い出される重要事件があった時期なのだ。聖徳太子が出てくる少し前で、古墳時代に属する時期だ。

そんな昔に国内の風水害、凶作が賀茂神の祟りだと占いで出るほど、当時は一地方の神でしかなかったはずなのに賀茂神は全国レベルの神だったのだろう。ということはこの地に住む豪族賀茂氏が強い勢力をもっていたことをうかがわせるのだ。

嵯峨天皇により中祀に準ぜられるようになったということは、地域の氏神レベルであったものが神社の格としても国の最上位ににまでなっていることを意味し、祭も庶民の祭りではなく官の祭りであることが分かる。天皇の名代である勅使が賀茂の二つの神社、上賀茂神社と下鴨神社にお参りをし、神禄(白杖の先に葵と桂を挟んだ神からの贈り物)を受けることが最も重要な祭事であり、したがってこの祭りの主役は勅使なのである。

しかしながらこんな祭事を淡々とやったのではない。葵を飾り馬に鈴をつけて賑々しく走らせ五穀豊穣を祈ったところに効果があったのだろう。ということで御所から二つの賀茂社に行く行列を葵で飾り、斎王までも引っ張り出してにぎやかにして、沿道の氏子の家も葵で飾るなど、当時としてはそれはそれは華やかで賑々しい祭になったのだろう。

だから平安時代の紫式部も清少納言も今昔物語の作者も鎌倉時代の吉田兼好もさらには葵の上から六条御息所迄場所取りの喧嘩をしながらでもこの行列を眺め楽しんだのだ。

そんな官の祭りだけれどやはり庶民が楽しめる祭りだから、古式にのっとり脈々と続くのだったけれど、京都の町が荒廃した応仁の乱で中絶してしまった。応仁の乱で京の都は壊滅したと言ってもよく、この祭りが復興するには、江戸時代も中期、元禄時代まで待たないといけなかったのだ。

でもすごいですね、元禄は太平の世とばかり、祭の名前も葵祭と呼んでしまうようになり、きっと相当華やかな行列だったのだろう。

明治になり、天皇は御所から東京に行ってしまった。京都の人は天皇さんはちょっとの間だけ東京に行ってはる(行っておられる)だけで必ず京都に戻ってきはるねん(戻ってこられるのだ)、と強がり言うのだけれど、東京の皇居から賀茂社迄行列を連ねるのはさすがに無理で、明治4年に再中絶したのである。

京都復活策の一つとして岩倉具視の尽力により明治17年に再興したのだが、第2次世界大戦中の昭和18年から昭和27年まで中絶や行列の中止が余儀なくされた。昭和28年から昔通りに復活し、さらに昭和31年からは鎌倉時代から久しく途絶えていた斎王の女人列を斎王代という形で復活された。

平安時代、賀茂祭のハイライトは斎王の華やかな行列であり、これを見物するため貴賤を問わず老若男女は集まってきたのである。斎王は伊勢神宮に仕える未婚の内親王や皇女であり、1年間斎宮(源氏物語では野宮神社がそれにあたる)で穢れなき生活をした後伊勢神宮で仕えるのだ。嵯峨天皇は祭りを国の祭りに格上げし、賀茂社に仕える女性も斎王とし、初代の斎王に娘の有智子内親王を当てたのである。

昭和28年の祭りの復活に際し、行列を華やかなものにするために、斎王の代わりになる若い未婚女性を斎王代として選び、葵祭の行列の主役に据えたのが、現在の葵祭の姿となっている。

ところが華やかに毎年行われていた葵祭も、昨年2020年に続き本年2021年もコロナ禍のためメインイベントの行列(路頭の儀)は行われない。第4波でこれだけ感染者数が増えれば致し方ないことだ。確かにコロナ禍は戦争並みの災害なのである。

感染予防対策を万全にして下鴨神社だけには行ってみよう。先にも書いたように正式名称は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)で祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とその娘、玉依命(たまよりひめのみこと)である。

ここで上賀茂神社と下鴨神社の祭神のかかわりについて、「京都通百科事典」から引用してみよう。

玉依は、瀬見の小川で遊んでいたところに丹塗りの矢が流れてきたを拾い、床の間に飾っていたところ、懐妊したといわれる。生まれた男の子が成人した日、賀茂建角身命が、盛大な宴会を開き、「父親と思う者に盃を飲ませよ」と言ったところ、盃を天に向けて、天上に昇っていったといわれる。 賀茂建角身命は、その子を「賀茂別雷大神」と名付けた。丹塗りの矢は、火雷神(ほのいかずちのかみ)だったといわれる。

賀茂別雷大神が上賀茂神社(賀茂別雷神社)の祭神であり、下鴨神社の祭神は、お母さんとそのお父さんすなわちおじいちゃんという関係である。賀茂別雷大神は単為生殖で生まれてきたのである。これはちょうどイエス・キリストが母マリアの単為生殖から生まれてきたのと同じである。古今東西を問わず、神たるものは単為生殖で生まれてこないといけないのである。

丹塗りの矢などという、フロイトを持ち出さなくてもわかる比喩で、実は父親がいたことを暗示しているが、さすが神の世界ですね、雷の神様にしてしまうのですから。

この神は乙訓坐大雷(おとくににますおおいかずち)といわれ、向日神社に合祀されているという。個人的には凄い驚きである。というのも、向日神社は私が通った向陽小学校の裏手にある神社で、子供の頃は明神さんと呼んで親しんだまあ小さな氏神様かと思っていたのである。ところがこんな由緒正しい、上賀茂神社の祭神のお父さんだったとは全く知らなかったのである。当時の先生がたも全然そんなこと説明してくれなかったのである。

あれっ、下鴨神社に行くはずだったのに、もう紙面は一杯である。次回以降、下鴨神社もそして上賀茂神社もゆっくり案内していくこととする。


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