D級京都観光案内 19

知恩院から吉水草庵安養寺

 

前回の青蓮寺の門前からだらだらと道を下がれば知恩院の三門前にやってくる。もし初めから知恩院を目指して車で来たのなら、東大路通知恩院前あたりの駐車場に停めておこう。

正面にそびえるといっていい三門は現存する二重門(2階建ての門)の中では最大であり国宝である。徳川2代将軍秀忠によって建立された。楼上内部は通常入れないが、年2回の特別公開時には内部に上ることができて釈迦牟尼仏、十六羅漢像や極彩色の天井画などを見ることができる。楼上の廊下から見る市内の景色は素晴らしいが撮影禁止だから目にだけ焼付けておこう。

三門をくぐり急な石段の男坂を上るか右手の緩やかな女坂を上り切った左手に大きな建物がある。寺の一番中心的な建物である御影堂である。国宝であり三代将軍家光の建立である。

徳川家が浄土宗に厚い保護を加えたことの証拠ではあるが、家康が二条城を建て東本願寺にも土地を与え、秀忠・家光が巨大建造物を次々作ることにより、京都の経済振興に大きな役割を果たしたのだ。より直接的に西陣織への保護という経済政策もとっているが。

応仁の乱、戦国時代で疲弊しきった京都の町を豊臣秀吉は都市改造政策で復興させたが、徳川幕府も復興施策を引き継いだのである。これは武家集団の自分たちの形式的後ろ盾である朝廷に一定程度の権威を回復させるための手段であったのだろう。300年の後にその権威を利用する勢力により徳川幕府体制が崩壊させられることになるとはつゆ想像していなかっただろう。

御影堂は現在大修理中であり、中に入るどころか外観すら見ることができず、わきの通路をずんずん進んで左手に阿弥陀堂を見て、さらに行くと右手に集会堂の玄関がある。ここでお参りをして更に大方丈、小方丈に案内してもらえるみたいだが、どうもこれは信徒さんたちが集団でできることのようで、私たちのような単なる観光客は方丈庭園への通り道として使わせてもらう。

もと来た広場に戻り、御影堂前を進み勢至堂、御廟にお参りする。その次は大鐘楼である。年末のゆく年くる年の除夜の鐘で有名な大鐘である。これも重要文化財である。

ここからもと来た三門のほうではなく南に下がる道があるのでそこを行こう。10mも行かないうちに道は二手に分かれる、そこを左手にとり20mもいくと「法然・親鸞両上人御旧跡 吉水草庵 慈円山 安養寺」の石碑があり、急な石段が見える。鎌倉時代旧仏教に飽き足らず「専修念仏」にたどり着いた浄土宗の祖とされる法然は、比叡山を下り当地吉水草庵を本拠として布教伝道した。

その後親鸞もこの吉水に参入念仏門に入ることになった。しかし法然75歳の時、後鳥羽上皇の若き女御松虫・鈴虫姉妹が専修念仏の教えに心酔し上皇不在中に法然の弟子住蓮・安楽のもとに駆け込み剃髪してしまった。激怒した上皇により住蓮・安楽はともに死罪となり、法然は讃岐に親鸞は越後に流されることになった(建永・承元の法難)。流罪が解かれ京都に戻った法然は、荒廃した鹿ケ谷草庵を再興し住蓮山安楽寺とした。疏水沿いにある安楽寺では725日かぼちゃ供養が営まれ、鹿ケ谷かぼちゃがふるまわれる。

一方吉水草庵は念仏停止となり、天台座主を4度務め愚管抄を著した慈円が経営することになり、慈円山安養寺と号するようになった。政治力のある人がトップになったものだからどんどん寺勢は拡大し、江戸時代には寺坊6ヶ寺と本坊を構えるに至り、この辺りは慈円山から円山と呼ばれるようになったのだ。

安養寺からさらに下がると吉水弁財天があり、境内地から霊泉が沸いている。吉水の地名の由来にもなっている。さらにどんどん下がっていくと料亭左阿彌がある。もとは織田信長の甥の織田頼長によって建てられた安養寺の末寺の一つで、幕末のころに料亭になったという。ちなみに先んじて料亭になった重阿彌では赤穂浪士によって吉良上野介の首を討ち取ることを決めた円山会議が開かれている。もちろん宴会もしただろうが。

この左阿彌は高級そうだが昼の料理なら我々の手の届く範囲で食べられないこともない。意を決して案内を乞うたが、土曜日ということもあって今日は予約で満員ですと断られてしまった。前もって電話を入れていただければお席の用意はできますよとは案内係の弁であった。

さらに行くと「未在」がある。ミシュラン三ツ星の有名店で、伝説の料理人が10席しかない店で客を迎え、予約は半年待ちという。ふーん、我々には敷居が高そう、そばを通ったことだけを自慢しておこう。

道が突き当たったところで左にすなわちほぼ東に行こう。長楽寺にやってくる。延暦24年桓武天皇の勅命で最澄を開基として最澄自ら彫った准胝観世音菩薩を本尊とする由緒正しい寺なのだ。ただそれ以上に平徳子がこの寺で剃髪し建礼門院となったことのほうで有名だ。

平家物語によると元暦23月壇ノ浦の戦いで8歳のわが子安徳天皇を母二位尼が抱いて入水したのに続き平徳子も入水したが源氏方に助け上げられ京都まで護送され、東山の麓吉田の寺で長楽寺住職により剃髪したとある。同年51日のことである。そのお礼のお布施は安徳天皇が入水直前まで身に着けていた御衣であった。徳子はわが子の形見として肌身離さず持っていたいと思っていたが、これ以外に何のお布施にするものもなく泣く泣く差し出したという。

住職はこれまた泣く泣くその御衣をいただき、それでもって幡を作ったと平家物語にはある。長楽寺の縁起によると平徳子改め建礼門院がわが子の御衣から幡を縫ったとある。

それはどちらでもいい。長楽寺にはその御衣から作った幡、建礼門院御影そして建礼門院徳子法尼尊像があるからそれを見て建礼門院に思いを馳せよう。庭も楽しもう。この庭は室町時代、相阿弥が足利八代将軍義政の命により銀閣寺の庭を作る時、試作的に作ったと伝えられ「相阿弥作の園池」と言われている。

長楽寺を辞し、もと来た道を西に行くとちょっと変わった建築物長楽館が見えてくる。外観はルネサンス風、内部はロココ、ネオクラシック、アールヌーボーが混在する洋館で、煙草王と呼ばれ後に財閥まで作った村井吉兵衛の建てた迎賓館である。命名は伊藤博文で、現在はカフェ、フレンチレストラン、イタリアンレストランそしてホテルとして営業している。10年前ここのレストランでカレーを食べたことがあるが、確かにクラシックな家具の中で食べて緊張したことだけはよく覚えていて肝心のカレーの味はちっとも思い出せないのはどうしたことだろう。

長楽館の前を通り過ぎしばらく行くと右手にサーモンピンクの壁が見えてくる。中村楼の壁である。壁が切れたところを右に回ると、八坂神社南楼門がどーんと見える。その手前右側に料亭中村楼がある。創業が室町時代で京都最古の料亭だという。そんな歴史もあり格調の高そうな料亭だが、予約もなく昼前にふらっと尋ねたのに何ら私たちを値踏みすることもなくどうぞどうぞと素晴らしい庭園の見えるカウンター席に案内してくれた。「お昼の気軽な割烹」というお約束のメニューだが、お品書きがきちんと書いてあって、しかも料理を運んでくれるたびに一つ一つ素材の説明がある。

これでいつものようにお酒も一緒に楽しめればいうことないのだが、車を運転してきたから我慢しよう。その代り鮎の塩焼きを一品つけてもらった。「今朝漁師さんが獲ってきたものです。」うーん天然の鮎は違う。頭からがぶりと食べて、尻尾も食べてしまった。「やー綺麗に食べてもうて。」そう私は何でも綺麗に食べて仲居さんや板場さんを喜ばせてしまうのだ。

料亭の隣は二軒茶屋中村楼である。かつて八坂神社楼門前に2件の茶屋があったことからこの名がついたという。田楽豆腐が名物であり、祇園祭の間だけ売られる稚児餅もまた有名である。今はまだ6月。白みそ餡の饅頭とこれまた白みそ入りのカステラを買って帰ることにする。

せっかくここまで来たから南楼門から八坂神社境内に入り、摂社の悪王子社、美御前社、刃物神社、疫神社をお参りし、お旅所の又旅社も含めて御朱印をもらった。悪王子社の右隣には忠盛灯篭がある。

白河上皇が愛妃である祇園御前に会いに行く途中、祇園の社で何やら怪しげな化け物の動きがあるためお供をしていた平忠盛にあの化け物を討って来いと命じたという。忠盛は慎重に何者かを見極めたところ、祇園の坊さんが灯篭に火を入れるところだったという。そのことを白河上皇に報告すると、お前はなかなか慎重でいいやつじゃ、無駄な殺生をしなくて済んだ、褒美に祇園御前をお前にやるぞと痛く喜んだらしい。ところで祇園御前はすでに妊娠していて、生まれたのが平清盛だという。平家物語にはそう書いてある。いいのか悪いのかそんないわれのある忠盛灯篭はしっかり見ておこう。

その日は例によって、祇園石段下のいづ重で鯖寿司、いなり寿司と小鯛の笹ずしを買い、となりのSizuyaでぶどうパンとカツサンドを買い、いづ満で練り物を買って帰った。

その後716日、どうしても中村楼の稚児餅を買いたいと思い、八坂神社を目指す。東大路通、もう少しで八坂神社という少し手前で、右側にえらく長い列ができている。菓子店柏屋光貞の前だ。実はこの店でこの日だけ宵山の日だけ行者餅が販売されるのだ。我々の狙いは稚児餅だからそれには目もくれず、中村楼を目指す。10時半についたが、販売は11時からという。仕方ない時間つぶしに南をうろうろするとDari-K祇園店に出くわした。あの三条通商店街に本店をもつDari-Kだ。よくわからないがチョコレートトリュフをゲットした。

そうこうしていると二軒茶屋中村楼で稚児餅がゲットできたが、時間があるのでお店に入って鯛茶漬けと名物豆腐田楽を食べることにした。茶漬けというがお茶ではなく出汁(かつお出汁)をかける。薄切りの鯛の刺身にワサビと味噌がかかっていてそこに熱い出汁をかけるとこれはうまい鯛茶漬けになる。それを食べ終わったころに豆腐田楽が来る。竹串の豆腐の上に白みそを乗せ焼いたものである。

家に帰って稚児餅を食べる。まず包みが立派である。笹も添えてありそれが食欲をそそる。竹串の餅の上に白みそがかかりそれを焼いたものである。うーん確かに風雅で、まあまあ有り難い。鯛茶漬けもうまかったしわざわざ買いに行っただけのことはあるだろう。

ところで柏屋光貞の行者餅は716日に予約しておかないと手に入らない。祇園祭の役行者山ゆかりの菓子であり、無病息災の菓子として喜ばれている。小麦粉を使ったクレープ状の薄い焼皮に三センチ角の城持ちを置き、その上に山椒味噌を乗せて包んだものという。

柏屋光貞では23日節分の日に限定で法螺貝餅を売っている。安政の御所炎上の時、天皇が避難先の聖護院門跡で食したという。聖護院門跡は修験道の総本山だから、法螺貝に模したお餅で魔除けとしたのだろう。白みそを法螺貝状に薄皮で巻き吹き口に見立てたゴボウを包み込んでいる。

京都の銘菓はその味を楽しむ以上にその謂れを楽しみ有り難く頂くのがいいようだ。 


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