「1億総活躍社会」なるスローガンの欺瞞性を暴き、「健康長寿社会実現」の中に潜む差別性に気づき、「支配階級よ お前たちこそ反社会集団だ」と立ち上がれ!
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私は温厚な人間である。少なくとも自分ではそう思っている。この世の中に矛盾は一杯ある。それをいちいちあげつらっているのでは社会は進まない。医者としてできることは、目の前の苦しむ人に手を差し伸べることだけだ。それでいいのだ。身の丈に合った生き方なのだ。そう思うことにしていた。
でも最近の日本はあまりにもひどすぎる。でもどういう訳かこの政権はいつまでも続いている。あろうことか安倍首相は憲政史上最長の在任期間という。心あるものは誰しもおかしいと思っているはずだ。
でも代わりになるものがいない。だれがなっても同じことと、結局は我が身の安全はまあ守られているものだから敢て見過ごしているのだろう。そんな悠長なことを言っている場合ではない。目の前の患者さんたちは政治の悪さのために苦しみに喘いでいるのに、自分が駄目だからこんな病気になってしまったと自己否定している。勤勉な小官吏は巨悪を隠蔽するために自殺に追い込まれたではないか。こんな現実を見過ごしていいのか。
疲れ果て病に陥った人たちを助けるために話を聞き、薬を与えることは大切だ。でもこれは微々たる力でしかない。それどころかこの社会の不公正を補完し永続させているのかもしれない。直接的に社会に向けて働きかけることが必要だ。まずは大精診の会誌の場で安倍政権の危険な目論見を暴いていこうと思うのだ。
平成29年5月の第1回「ニッポン一億総活躍プラン」フォローアップ会合で安倍総理は「誰もが生きがいをもって、その能力を最大限発揮できる社会をつくる。画一的な労働制度、保育や介護との両立など、現実に立ちはだかる様々な壁を一つ一つ取り除いていく。成長と分配の好循環をつくり出し、生み出された富が広く国民に行き渡り、多くの人たちがその成長を享受できる社会を実現していく。この挑戦が一億総活躍であります」と「一億総活躍社会」を定義づけている。
有識者とやらが集まるこの会合で「一億総活躍社会」なるスローガンのサルでもわかる誤りに誰も異議を唱えないとは摩訶不思議なことだ。それどころか、その後の何度かの内閣改造でも「一億総活躍担当大臣」は任命され続けているのである。野党もジャーナリズムもこの矛盾に満ちたスローガンを批判することなく受け入れてしまっているのだ。この矛盾を分析すれば安倍政権が新しい利権集団を味方につけながら「美しい日本、強い日本」を目指す本質が明らかになるというのに。
日本の人口は1億ですか?いえ、1億2500万だということは小学生でも知っている。なのに「1億総」などとくくるんですか?語呂が悪いから、切りのいい数字にしたのでしょう。商売をする人ならそれで納得していいでしょう。でも我々精神科医は、偶然に見える誤謬にも必然が隠されていることを知っている。
すなわち国民の2割の人たちは切り捨てているのだ。その2割の人たちって誰なの?障害者であり、病者であり、高齢者である。
安倍総理の挨拶を読むと、「活躍とは結局富を生み出しそれを享受し合うことである」と彼の真意がよくわかる。富を生み出すことができない国民は、すなわち障害者、病者そして高齢者は日本国民から除外されているのだ。詐欺商法で庶民から金を巻き上げたとしても、反社会集団が違法に金を集めたとしてもその富を自民党政権に献金という形で分配すれば、これは立派な活躍なのである。
「活躍」という言葉を多くの国民は「生き甲斐があること」もっと端的に「幸せ」と解釈してしまっている。そして「一億総活躍」とは「国民一人一人がみんな幸せになる」ことだと勘違いさせられているのだ。
何度も言う。見逃していけないのは安倍政権にとって「活躍」とは「富を生み出し分かち合う」という経済至上主義なのだ。そしてその目標は「美しい日本、強い日本」であり、そのお手本は大東亜共栄圏を目指した戦前・戦中の日本である。
その時のスローガンを見てみよう。「挙国一致」「総親和」「大政翼賛」「進め一億火の玉だ」「一億国民総武装」「聖戦へ民一億の体当たり」「一億がみんな興亜へ散る覚悟」「一億抜刀米英打倒」
ものの見事に「一億」「総」のオンパレードでないか。安倍総理には戦前の日本が理想の社会なのだろう。だから最新の政治スローガンに知らず知らずこれらの語句を借用してしまったのだ。彼があれほど憲法改正にこだわる姿と重ね合わせると、「活躍」はすなわち「戦前回帰」に他ならないと分かる。
「一億総活躍社会」なるスローガンが、弱者たちを切り捨て身内だけの富国強兵を狙う欺瞞に満ちたものだと分かるであろう。
一方、「健康長寿」は全くもって健全なスローガンのように見える。誰だって病気になり身体機能が衰え介護を受けないと生活できないというのは苦痛である。ピンピンコロリが一番だ。健康長寿社会を目指す取り組みは光だ。
だが光ある所には影がある。光ばかりを見ているとそれが作る影に気づかない。光が強ければ強いほど影は濃くなることを忘れてしまう。
肺炎球菌ワクチンの開発、接種は健康寿命をのばした。高齢者が肺炎になり、治癒したとしても日常生活機能を低下させてしまうことに対する挑戦的な見事な成果だ。この研究は本当に素晴らしいものである。この研究に厚労省から多額の研究費が出てもおかしくはない。
遅れて同様ワクチンの開発研究をし、その研究費を厚労省などから引き出そうと考える悪い科学者はどんな行動に出るだろう。同じワクチンの生物学的効果だが、健康寿命をより伸ばしているというデータを出すだろう。そんなことができるだろうか。なに簡単なことである、接種者の母集団を健康な人だけに絞るのだ。いやもっと巧妙にすることもできる。健康寿命の算定式は相当複雑でそこにいろいろな統計指数が入り込んでいる。かつて労働統計でなされたように、統計指数を微妙にいじること(ここでもその統計指数の母集団を変えたりすること)で健康寿命をより伸ばすことは簡単だ。
この頃は何でもその議論の正当性にエビデンスがあることが求められる。自然科学のエビデンスとは異なり政治、経済、社会そして医学のエビデンスは統計処理をされた数値で表現される。統計処理も正しく行われて初めてその数値はエビデンスとしての資格を持つ。裏を返せば、統計処理の仕方によっていくらでも意のままのエビデンスを提示することができるのだ。
健康長寿社会を作るということを民間のそして公共団体の取り組みの目標にすると、健康寿命を伸ばすことが目標になり、健康な人たちだけの少しでも健康であり続けることが目標になってしまう。もう介護状態になってしまっている人達は置いてきぼりである。この人たちの寿命を伸ばすと、健康寿命の延びは小さいものになるからだ。
高齢者の話だけをしたが、若くして身体障害、知的障害、精神障害さらには発達障害により障害者手帳2級以上を有する人は、健康な人たちとみなされていないかもしれない。ならば健康長寿社会を目指す試みからは排除されてしまっているかもしれない。
かもしれないではなく確実のそうなっているのだ。政府のお役人はこういうだろう。いえいえ障害のある人達に対してはすでに介護保険、障害福祉という形で大層なお金を出しておりますと。これも巧妙な罠である。
健康長寿社会に向けての予算を増やしていくなら介護保険、障害福祉に対する予算も同様に増やしていかないとだめなのだ。現実は真逆である。健康長寿社会に向けての取り組みはどんどん華やかに打ち上げられる。大阪万博だって山中伸弥教授を担ぎ出して夢の実現をなどと幻想を振りまいている。内実はカジノを含むIR利権にたかっているだけなのに。健康長寿を目指すは隠れ蓑に使われているのだ。
国も、大阪府も私のクリニックのある箕面市でも今後ますます健康長寿を目指すための予算が投入されるだろう。それはいいことだ。だが決められた財源の中で、健康長寿を目指すために回される予算は社会福祉予算を削ることで賄われるに違いない。
「健康長寿社会」の実現のためには介護を必要とする高齢者、障害者、重篤な病者、貧困層は足を引っ張る厄介者と差別されているのだ。これは「一億総活躍社会」で「活躍」が「健康長寿」に置き換わったものだいうことを見抜くことができれば、「活躍」が「美しい日本、強い日本」を求める現政権を是とすることだということを思い出せば、至極もっともなことである。
弱者になってしまったことを自己責任と切り捨て、自分たちで利権を守り分け合うためにもかかわらず公正な社会の仕組みを作っているなどの思い上りを持つ現政権こそ、社会を分断差別化する反社会集団だと言っていい。
数値化されればそれがエビデンスだと単純化に騙され振り回されていることに気づき、統合し全体像を見極めることの難しさを痛感しつつ、社会の不公正と戦い続けることを自らに課さねばならない。医者たるもの患者の病気を診てその病気の苦痛を和らげてよしとするものであってはならない。社会の不正、すなわち社会の病理に気づいたのならその病理を少しでも治そうと努めねばならない。
精神科医になったあなた。あなたの志を思い出せ。あなたの初心に耳を傾けろ。治療技術としては全く未熟であっても、それは当たり前だ。しかし今のあなたよりもっと純粋な精神医療に対する熱情があっただろう。医者として円熟したかもしれないあなた、青白い熱情を思い出せ。
立ち上がる時は今かもしれない。
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