D級京都観光案内 53 深草は京都検定の秘蔵っ子
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深草は京都市伏見区の北部の地名である。かつて深草町という行政区域であったが南西にある伏見市(「41.伏見十石舟」「42.伏見の町歩き」で案内したところ)などと京都市への合併・編入をして、伏見区深草となったのだ。伏見が京都大阪の重要な中継点になっていたが、その伏見と京都市街地の中間に位置する深草は交通、経済、文化などで主役ではないが脇役として重要な働きをしてきたのだ。深草をあちらこちらと訪ねることは京都検定突破にはずいぶん役に立つのである。
深草は京都盆地の中で早くから稲作が始まった地で、渡来系の豪族秦氏が拠点とした一つといわれる。その秦氏の祖霊として創建されたのが伏見稲荷大社である。「山城国風土記」逸文には秦伊呂具(はたのいろぐ)が餅を的にして矢を射ったら、その餅が白鳥になって飛び立ちこの山に舞い降り、そこに稲が生えたので「イナリ」という名の社を建てたとある。逸文はさらに続く、「大切な餅を的にするなど過ちを犯したことを子孫は悔い、社の木を抜いて家に祭った。植えて根付けば福が来るとされた。」この風習は今にも伝わり、2月の初午大祭で縁起ものである「しるしの杉」が授与されている。
伏見稲荷大社関連の事柄は京都検定で頻出事項となっている。境内の案内もしたいところなのだが、ご存じのように外国人観光客にとって京都で一番訪れたいところであり一番インスタ映えする人気スポットである。JR稲荷駅から続く参道はまあ原宿みたいに混雑している。私自身ははるか昔一度参拝しただけで、最近の当社の様子を把握していない。ということで詳細は出回っている観光案内書を参考にしてもらおう。
深草は伏見稲荷大社の門前町として栄えてきたことは間違いない。京と伏見を南北に結ぶ道路は、東から伏見街道、師団街道そして竹田街道(国道24号線と重複)がある。水路もあり鴨川運河(琵琶湖疏水)が伏見街道に沿うように走っている。
大社の前を通る道路が伏見街道であり、豊臣秀吉が伏見城に居を移すにあたって、京と結ぶ道として開いたと言われる。江戸時代は人馬の往来も多く賑わいを見せたが、如何せん狭い道路で、近代になり交通運輸の主役は他の2本の道路に譲ることになる。現在は北行一方通行の生活道路になっている。深草の今日訪れる寺社、旧跡はすべて伏見街道沿いにある。
JR奈良線稲荷駅構内にはランプ小屋と呼ばれるレンガ造りの小さな建物がある。明治12年に建てられた信号灯の収納施設で、日本最古の鉄道関係施設である。
南に下がり京阪深草駅前から東に通じる道を行き、JR奈良線を越えて山のほうに上っていくと、石峰寺はある。萬福寺の千呆(せんがい)が創建した黄檗宗の寺である。中国式の赤い山門が特徴的。裏山には伊藤若冲が下絵を描き彫らせたという五百羅漢をはじめとする石仏群がある。極彩色の細密画とは全く趣を異にし、素朴で慈愛あふれる石仏たちが竹林の中にある。天明の大火で焼け出された若冲はこの地に草庵を建て隠棲した。石仏制作はこの間も続いていたという。若冲の墓もここにある。
石峰寺からJR奈良線近くまで戻り、南に行くと深草山(じんそうざん)宝塔寺・四脚門の前に来る。四脚門から登り勾配の石畳の参道が朱色も鮮やかな仁王門に通じる。参道の両側には立派な塔頭が立ち並び、ツツジの植え込みが続き、花の季節にはそれは艶やかである。こんな広大な寺院がこの地にあったのかと驚かされる。宝塔寺は観光寺院でないからガイドブックには取り上げられていないのだ。
仁王門をくぐると正面に本堂がある。日蓮宗の本堂としては最古のものだ。本尊は釈迦如来と十界曼荼羅である。当寺は関白・藤原基経が建てた極楽寺に始まる。藤原基経といえば「阿衡の紛議」で宇多天皇を謝らせたという人である。この地の北に法性寺ができ、それが東福寺へと発展隆盛していったことにより、極楽寺は衰えて行ったが、鎌倉時代後期に日像を開基として日蓮宗の寺院として再興され、現在に至っている。
日像上人の御廟所があり、堂内にはかつて京の七口に日像上人が建てた題目石塔(宝塔)が墓標として祀られている。宝塔寺の名前の由来はここにある。
京都市内に現存する最古の多宝塔は、屋根が行基葺で美しい2層からなる塔である。寺院や城郭の正規の瓦の葺き方は丸瓦と平瓦を交互に並べ、丸瓦は重ね代を造ることにより一本の管のよう流れ、軒丸瓦の瓦頭には寺院にふさわしい家紋が描かれている。行基葺の丸瓦には重ね代がないため、下方の丸瓦の一方を細くし上方の瓦を重ねていく。奈良元興寺など、国内には数例しかない珍しいものなのだ。
御朱印は仁王門の北にある方丈で貰うのだが、入口は庫裏であったのだろう高く太い梁がかかり、吹抜けになっている。昔の人は立派なものを建てたものだ。
寺を辞し、JRの線路を越えて伏見街道まで戻る。200mほど南に下がると聖母女学院本館の前に来る。シンメトリックな赤レンガ造り、2階建て銅板葺の堂々たる建物だ。平成28年には国登録文化財に指定されている。建物は明治41年、陸軍第16師団司令部庁舎として建てられた。戦後当学院に払い下げられ、正門前にはマリア像も建てられている。
なお京阪深草駅から西に行くと龍谷大学深草学舎がある。深草には3つの大学を始め諸学校がある文教地域でもあるのだ。
学院前を200mも南に行くと名神高速の高架をくぐる。さらに南に行くと七瀬川に架かる橋、直違橋(すじかいばし)にやってくる。七瀬川に対して伏見街道に沿うこの橋が斜めに架けられていることからこう呼ばれている。京都検定では難読地名の一つして出題される。なお伏見街道もこのあたりは直違橋通りと呼ばれている。
この橋から南に200mほど行ったところを東に入ると藤森神社はある。京都検定1級の小論文問題に堂々取り上げられた神社だ。京都新聞出版センター発行の「問題と解説」の解答例を転載してみよう。解答は150字以上200字以内の文章という制限があるので( )内に説明の補足を入れておく。太字下線は必ず含まなければいけないとされた語句である。
藤森神社は(平安遷都以前より深草の地にあり)本殿に神功皇后を始め12神(スサノオノミコト、応神天皇、仁徳天皇、天武天皇、早良皇子ら)を祀る古社。(神功皇后が新羅より凱旋した後、この地を「神在の聖地」として、軍旗、兵具を地に納め、塚を作って神を祀ったのが起こりとされる。それにちなみ)勝運と馬の神社として信仰を集めている。毎年5月5日の藤森祭で奉納される駈馬神事は、乗り手の馬上での妙技が見どころである。(藤森祭は菖蒲の節句、端午の節句発祥の祭りといわれ、氏子地域を神輿や武者行列が練り歩き、その様子から端午の節句に武者人形や鎧甲を飾る習慣が生まれたという。菖蒲は勝負につながることから、勝負と馬の神様として、競馬関係者、競馬ファンがよく訪れる。)境内には本殿裏側に大将軍社と八幡社の二つの国の重要文化財の摂社があり、本殿脇には伏見の名水の一つである不二の水が湧く。さらに6月になると3500株のアジサイが境内を美しく彩り、「アジサイの宮」とも呼ばれている。
こうして模範解答例を載せてみると、「問題と解説」の筆者は達意の文章を書いているなあと感心する。私も頑張らないといけないなあ。
藤森神社の東には京都教育大学がある。
伏見街道をさらに南に下がると、京阪墨染(すみぞめ)駅近くで東西に走る墨染通りにやってくる。この通りを西に行き、踏切を渡り、鴨川運河を越えるとこのあたりの地名の由来の元の深草山墨染寺(ぼくせんじ)にやってくる。日蓮宗のこじんまりしたお寺である。歌人・上野岑雄(かんづけのみねお)が関白藤原基経の死を悲しんで、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨色に咲け」と詠んだところ、薄墨色の花が咲くようになったといわれ、この地が墨染と呼ばれるようになったという。1000年以上前の話だから、この寺の墨染桜は4代目が現在植わっている。墨染井という手水鉢は江戸時代2代目中村歌右衛門の寄贈によるという。
墨染寺の前を少し西に行くと、魚屋がある。私が行ったのが6月初旬だったが、そこに何と丹後トリ貝を売っていた。2個ゲットして帰ってから食べたらそのうまいのなんの、これだけでこの日の旅は大成功だった。
魚屋の前の墨染通りを少し西に行くと、師団街道との交差点に来る。このあたりでは師団街道は細い道で南行一方通行だ。少し行くと無舗装の駐車場があり、欣浄寺(ごんじょうじ)はこちらと標識がある。駐車場の奥の石段を上がると欣浄寺の本堂の前に来る。小野小町のもとに百夜通いをしたもののかなわず途中で凍死してしまった深草少将の邸宅跡といわれる。境内には小野小町、深草少将それぞれの供養塔、姿見の池、井戸(墨染井)がある。
欣浄寺は曹洞宗の開祖道元がこの地で教化に努め興聖宝林寺を建てたのが始まりといわれる。(宇治の興聖寺は江戸時代永井尚政がこの寺を復興したものだ。)本堂内には俗に「伏見の大仏」と称される丈六の毘廬舎那仏、阿弥陀如来像、道元禅師石像が安置されている。毘廬舎那仏は間近に見ることができそれは迫力があるものだ。
元の師団街道を南に下がる。150mも行くと四つ辻があり右側に行く道の両側に「橦木町廓入口」「しゅもく町廓入口」の背の高い石碑が立っている。残念ながら立派なのは石碑ばかりで、廓の面影を残すようなものは何も見当たらない。ただ「大石良雄遊興之地よろつや」という小さな石碑と「橦木町廓之碑」というこの廓の歴史をかいつまんで述べ更に大石良雄とのかかわりにも触れた大正時代に建てられた石碑があるばかりだ。そばにある小さな和菓子屋さんがあり、老舗和菓子屋で修業したという感じのいい若き店主が作るその和菓子は安いのに結構おいしいものだった。
橦木町廓入口を反対方向に行くと小高い堤防のようなものが見えてくる。そこに通じる階段を上がると、関西電力墨染発電所が現れる。蹴上発電所が、琵琶湖疏水の蹴上での高低差を利用したものとちょうど同じで、鴨川運河としてここまでやってきた琵琶湖疏水はここで墨染ダムとして水溜りができ、低い濠川に一気に流れ落ちる。水落差を利用して発電する。一方、舟で物資を運ぶとき、この高低差の問題は蹴上と同じくインクラインを設けることで解決した。もちろん現在は稼働していないけれど。
ここから東の山の手に行ったところに黄檗宗海宝寺がある。伊達家屋敷跡に建てられ、「大丸」の創業者下村家が代々援助をしてきたことから、それらにかかわる史跡がある。伊藤若冲が晩年ここの襖絵を描き、以後絵筆をとらなかったことから「若冲筆投げの間」とも称される。土曜日のみ4人以上の予約で普茶料理を楽しめることでも知られている。
いやあ今日は充実した1日だったなあ。 。
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