D級京都観光案内 41 伏見十石舟
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伏見の歴史的拠点、特に幕末にその名を馳せた拠点、寺田屋を訪ねようと思う。京都市の市街地景観整備地区に指定されている伏見南浜界わい景観整備地区内に寺田屋はある。この地区は南北は、油掛通から宇治川派流まで、東西は、京町通から濠川(ごうかわ、ほりかわ)西側沿いの堤道路まで、酒蔵をはじめ歴史ある小さな町家からなるまとまりのある町並み景観を示している。
歴史あると書いたように、この町は豊臣秀吉による伏見城の城下町に始まる。京都大阪をつなぐ淀川水運の中継港として栄え、徳川家康が日本で初めて初めて貨幣鋳造処銀座をこの地に置き(現在もその町名が残っている)、伏見城廃城の後も人や物の移動が絶えることはなく、幕末から維新にかけては大きな事件の舞台になってきた。
鳥羽・伏見の戦いにより町一帯は焼け野原になったが、同じく衰退した京都の復興を図る一大事業琵琶湖疏水の開削に伴い、日本初の電車の起点になったのもこの地だし、鴨川運河として濠川そして宇治川につながり京都―伏見―大阪の水運を確保したのである。
名神で大山崎JCから京滋バイパスに入り,第2京阪で京都市内に向かう方に分岐してすぐの巨椋池ICで側道に降りる。高速下側道をまっすぐ行くと大手筋通りに至り、そこを右折して東に行くと、酒蔵らしき建物が見えてくる。濠川にかかる大手橋を渡り、竹田街道との信号を右折して南に下がるとコインパーキングはすぐ見つかる。ここに車を停めてゆっくり散策する。なお、電車でなら京阪の中書島駅に降り立ちすぐ北に行くと、そこが伏見南浜地区である。
寺田屋を訪ねる前に、まず伏見の町の全体像をつかんでおこう。そのためには、伏見観光協会のやっている、十石舟に乗ることにする。三十石舟もあるが春や秋の連休中心にしか運航されない。月桂冠大倉記念館裏の船着場から乗り込む。定員は20名のこじんまりした屋根船だ。屋形船といっても現代では誰からも文句を言われることはないが、江戸では幕府公認の大型の屋根付き舟だけがこう呼ばれていたそうだ。
どうでもいいようなこんな蘊蓄を傾けたくなるのは、十石舟には船の前後に船長さんと船頭さんが座り、川沿いの観光案内と、ちょっとオタクの三十石舟にまつわる話を聞かせてくれるのである。
落語や東海道中膝栗毛で有名な淀川の三十石舟は江戸時代京の伏見と大坂の八軒家の間を上下して旅客を運ぶ三十石積の乗合船である。八軒屋は現在の天満橋の少し西で、土佐堀通の永田屋昆布本店の前に「八軒屋船着場跡」の石碑が立っている。
江戸時代、三十石舟の定員は28人、船頭4人も乗り組む。所要時間は上りが1日または1晩で、下りは半日または半晩とある。照明装置もない夜も運航したのだろう。天保ごろの記録には上り舟の運賃は180文、下り舟は84文とある。淀川の流れは緩やかでしかも水深も大したことがないので、櫓ではなく棹をさして船を動かすことができる。下りはこれで問題ないが、上り舟となると、いかに流れが緩やかとはいえ4人の船頭だけで40㎞をさかのぼるのは無理がある。船頭の何人かは土手に上がり船を曳く、堤が切れていたり、足場のよくない堤のところは対岸を目指し棹を使って川を横断する。流れの急なところは待ち受けていた人足たちも加えて曳く。これらを繰り返してやっと伏見に到着するわけだから、船頭たちの総労働量の対価として、上りの運賃は下りの運賃の倍以上になるのだ。
私が乗った十石舟の船頭さんが上で書いたすべてを教えてくれたわけではない。それどころか、「土手から船を曳いたのではありません。川の中に入って船を曳いたのです。寒い冬もそうしたのです。」と驚くべき「真実」を教えてくれたのである。
凍てつきそうな冬の川の中で船を曳く人を想像し、まるで平昌オリンピック開会式のトンガの旗手じゃないかと感激し、今まで聞いたこともない「真実」をこともなげに説明できる船頭さんも凄いと感心してしまった。
この頃はネットで簡単にいろんな情報を仕入れることができる。この「三十石舟の真実」もきっとネットに書いてあるだろうといろいろ探してみたが、ないのである。船を曳かないと淀川は上れないと書いてあるのだが、私が思っていたように、堤や土手の人が船を引っ張ると書いてある。その引用文献として法政大学出版局須藤利一編「船」があげられていた。アマゾンでそれを注文すると、この本を購入した人はこんな本も買っていますと、法政大学出版局石井謙治「和船 Ⅱ」も勧めてくる。アマゾンの常套手段だ。そうだと分かっているのに、両方の本を購入してしまった。
本は知の源泉だ。2冊も買ってしまったが、私の知らない知の世界が一杯載っている。今も興味津々読み進んでいる。淀川三十石舟について上に述べたことは、これらの本の受け売りである。今までおぼろげに理解していたことが、この本ではっきりした。それはいいのだが、船頭さんの話してくれた「三十石舟の真実」はこれらの本にはさっぱり出てこないのだ。伏見観光協会にこの「真実」の証拠となる文献を教えてもらわないといけないが、結構面倒な作業なので、私が読んだ2冊の本の説をそのまま載せることにする。
閑話休題。十石舟を走らそう。時は6月、宇治川派流の両岸にはそれは見事に柳が緑の枝を垂らしている。進行方向右側の川岸には、上部は白壁でくっきりと瓦ぶきの屋根を目立たせ、下部は黒ずんだ板塀の建物が並び、川とその建物の境界は生垣などで装われ、もうそれは江戸時代にでもタイムスリップしたような感じになれるのだ。
船から眺める景色は素晴らしいが、船内からその景色を写真に収めようとしても何かピリッとしない。川岸や一段高い道路から柳の間をすべるように進む十石舟を写し込んでこそ見栄えする写真がとれるというものだ。ということで川岸には中高年や外国人観光客のカメラの放列ができている。それらの人達に笑顔で手を振るのも十石舟の乗客の務めのようだ。
船は蓬莱橋の下をくぐる。蓬莱橋を北に行くと竜馬通り商店街がある。さらに進んだ右手の通りの向かいに坂本龍馬ゆかりの寺田屋がある。幕末の寺田屋事件あるいは騒動は2件ある。文久2年(1862年)島津藩の事実上の指導者島津久光は藩兵千名を率いて上洛し、尊王討幕派の志士たちは時来たれりと大喜びしていた。公武合体推進派の久光は、むしろ志士たちを始末する考えであった。薩摩藩の有馬新七ら過激派志士は他藩の志士とも寺田屋で合流し久光の翻意を促すべく京都所司代暗殺を計画した。このことを噂で知った久光は薩摩藩士に彼らの説得、応じねば抹殺を指示した。その結果起こった薩摩藩士同士の寺田屋内での殺し合いが第1の寺田屋事件である。
結局双方で9名の死亡者を出したが、彼らは9烈士として、伏見区役所近くの大黒寺に葬られている。なお同寺には伏見騒動で知られる義民・文殊九助らの遺髪塔もある。
第2の寺田屋事件は、慶応2年(1866年)薩長同盟を斡旋した直後の坂本龍馬を伏見奉行の捕り方が捕縛しようとして起こった事件である。入浴中に危機を察知し、裸のままで龍馬に危険を知らせたおりょうの機転が喧伝されている。薩摩藩邸に逃げ延びて、襲撃時に追ったけがを治すことと、おりょうとの結婚の記念にと西郷隆盛の勧めで、薩摩領内の湯治に出かけ、本邦初の新婚旅行と言われている。
今の寺田屋では、柱にある刀傷を、寺田屋事件での刀傷と観光の売りにしてきたが、鳥羽伏見の戦いでここあたり一帯は火災により灰燼に帰しており、今の寺田屋は明治の後半期に建て直されたものであることが京都市によって認定されている。刀傷(と思われる箇所)をみて、ロマンに浸るのはいいが、残念ながら史実に忠実であるわけではない。
川のこのあたりの川岸が、伏見三十石舟の乗り場になっている。龍馬とおりょうが新婚旅行に旅立つ像が立っている。日本で始めての新婚旅行の記念像である。 新婚旅行の二人の像としては、鹿児島市天保山にあるものが初代であるようだ。
すぐくぐる橋が京橋である。さらに行くと、水幅は急に広くなる。右手から濠川が合流するからだ。濠川はその名から分かるように、豊臣秀吉が伏見城を作ったそのお濠に由来する。江戸時代、角倉了以により高瀬川が開削され、二条木屋町(一の舟入)からこの濠川まで水路ができ、大阪・伏見・京都の水運が確保されることになったのだ。さらに明治になり、琵琶湖疏水が開通し、濠川の水源は疏水となっている。
川幅はさらに広くなり、ゆったり流れる。左手は伏見港公園となり、またもやこちらの船にカメラを向ける人が増え、前方右に見える高い塔のような建物を目指し、船は舵を切る。終点・三栖閘門(みすのこうもん)に向かう。
三栖閘門は水位差のある濠川と宇治川間をパナマ運河と同じ方式で水位差をなくして船の航行を可能にする巨大装置である。大正の宇治川大洪水から宇治川・淀川の大改修工事が行われ、その結果濠川と宇治川に水位差ができて船が運航できなくなったため建造された。完成は昭和4年である。
昭和37年には京都大阪間の水運はなくなり、三栖閘門もその役割を終えた。宇治川側の後扉は閉じられており、十石舟がくぐってきた前扉は常に巻き上げられていて、閘門内の水は静止している。十石舟の船着場になっていて、船客はみな降ろされる。かつて操作室であったところが三栖閘門資料館となっていて、三栖閘門の成立の由来や操作法などが動く模型も交えて展示される。更に伏見の街の歴史についても勉強できる。
30分の滞在の後、次便の十石舟乗り込んで、元の船着場迄10分の船旅をもう一度楽しむことになる。豊臣秀吉、徳川家康により伏見の街の礎が築かれたこと、三十石舟に象徴される江戸時代の水運さらには商業活動に思いを馳せ、幕末には多くの政治活動の舞台になり、更には戊辰戦争の舞台となり荒廃した地に、明治においては琵琶湖疏水という大事業を、そして大正昭和には最新技術を導入して三栖閘門を作り上げたという、この生き生きした人間の営みに気づかされてしまう。
船着場で降りて月桂冠大倉記念館前に戻ってきた。いよいよ伏見の町を歩くのだが、それは次号に回すことにする。 |
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