D級京都観光案内 42

伏見の町歩き

前号のように大手筋通りを下がった竹田街道に面したコインパーキングに車を停めて、今日の旅は始まる。少し南に下がった交差点を渡り、魚屋通を東に行く。交差点のところに「電気鉄道事業発祥の地」の石碑がある。明治28年、京都電気鉄道は京都駅近くと伏見下油掛町間に日本初の市街電車を走らせた。その電気は琵琶湖疏水による蹴上発電所によって賄われた。この画期的事業の重要な起点が伏見であったことは、伏見の町が運輸交通面の重要さがわかるというものだ。

この石碑の前に伏見駿河屋本店がある。古そうな店である。伏見城に豊臣秀吉がいた時、今までの蒸羊羹に対して初めて練羊羹を創作し、秀吉に献上したのが駿河屋の先代だという。その駿河屋からのれん分けしてもらったのが伏見駿河屋本店である。私の大好きな「鮎」も売っていたのでそれをゲットした。

本家の駿河屋の方は、江戸時代将軍家について駿河に行き、さらに紀州徳川家について和歌山に行き、総本家駿河屋を名乗るようになったという。本店をはじめ各店舗は和歌山にあるが、伏見店だけはこの京都伏見にある。伏見駿河屋本店がある魚屋通りをどんどん東に行き、京阪本線を越え少し北に行った京町3丁目にその店はある。京阪・伏見桃山駅のすぐそばである。「古代伏見羊羹」、「太閤秀吉献上羊羹」「練羊羹」「本の字饅頭」がこの店でないと買えないものである。

元に戻って、伏見駿河屋本店をすぐ東に進むと、西岸(さいがん)寺(油懸地蔵)の駒札が立っている。「昔、山崎(乙訓郡)の油商人が門前で転び、残った油を供養のためにこの地蔵尊にかけ、行商に行ったところ商売大いに栄えたという。以後、地蔵様に油をかけて祈願すれば願いが叶うとして、人々の信仰を集めている。」とある。

山崎の離宮八幡宮は平安時代に荏胡麻油発祥の地となり、鎌倉時代には油座が形成された。西岸寺の門前で転んだ油商人が山崎出身であるのは当然だろう。三十石舟で伏見に来て、京の都に行商に行く途中か、逆に行商からの帰りの出来事だったのだろうか。油をかけることが罰当たりなことではなく供養になるという発想は私には分かりにくい。油をかけるとともにお賽銭を奉納したので許されたのだろうとしか思えない。

駒札のところから境内に入る。正面に本堂があるが普段は閉まっている。その手前左側に地蔵堂があるが、金曜日だけが油をかけられる参拝日のようだ。御朱印もその日でないと貰えない。ガラス越しに覗くと確かにお地蔵さんには油がかかっているみたいだ。

地蔵堂の右手に「我衣に ふしみの桃の しづくせよ」の芭蕉の句碑がある。当寺第3世住職任口宝誉上人は芭蕉と親交のある俳人でもあり、芭蕉が宝誉上人に再会できた喜びを伏見の名産モモに託して詠んだものだ。

伏見城廃城の跡は開墾され一帯に桃の木が植えられたため、あたりは桃山と呼ばれるようになり、信長秀吉の支配した時代を安土桃山時代というのもここに由来する。桃は伏見の名産になっていく。

芭蕉の句からとった「桃の滴」という銘柄のお酒を造るのが松本酒造である。車で大手筋を通って伏見の町にやってきたとき、濠川にかかる橋を渡る手前にある酒蔵だ。わざわざここに来なくても千里阪急でもイカリスーパーでも「桃の滴」は売っている。「桃の滴」ファンとしてはうれしいことだ。「桃の滴 愛山」がもし置いてあれば、時にこれを味わうのもいいものだ。

もう少し行くと、四つ辻で左右に商店街がある。右に行くと短い「竜馬通り商店街」で鯖寿司やそれを少し変えた竜馬寿司を食べさせる食堂や、ひなびた漬物屋などがあり、次の角には、割烹・小料理「辻政」がある。食べログを調べてみると伏見界隈の日本料理ランキング1位となっている。気になる店だが私はまだ入ったことがない。

この角を西に曲がると寺田屋の看板が見える。12階と見学することができる。敷地内には腕を組んだ坂本龍馬像も立っている。

元の四つ辻を左に行くと、納屋町商店街である。大手筋まで続くアーケードがついている、昭和の香りが残る地元住民が主に利用する商店街である。ある川魚屋ではドジョウのかば焼きも売っている。ササキパン本店では、「フランスパン」と称するほんのちょっと塩味でやはりほんのり甘いふわふわ小さな二山のパンがある。まぎれもなく昭和のど真ん中の子供時代に家の近くのパン屋春花園で買い求めていたパンにそっくりだ。

それを噛むとその頃のことがどっと思い出されて、思わず涙ぐみそうになる。ところがさらに噛むと、味はこんなじゃなかったなあと出かかった涙が引っ込んでしまう。60年前にタイムスリップする、それは難しいことなのだ。

ササキパンの店頭で観光客がよく写真を撮るのは、サンライズとメロンパンが並んでおかれているところだ。京都、神戸、阪神間では、大阪でいうメロンパンはサンライズと称する。上る太陽に見立ててのネーミングだ。京都のメロンパンはどんなのというと、紡錘形で表面には縦じまが入っていて白あんが包まれている。黄色いマクワウリに似ていて、かつてマクワウリをメロンと呼んでいたことからこの名前で売り出されたのだ。大阪の人間にとってこの2種類のメロンパンを並んで写真に写し込めるのは学術的意義もある。

四つ辻で寄り道せず、魚屋通りをまっすぐ進むと、中油掛町に入り、京町家風の家や、蔵元だったのだろう名残のある建物が並び風情がある。右手にキザクラカッパカントリーの広い駐車場がある。建物群の裏口から入ることになるが、「黄桜」と札の付いた桜の木が両側に2本植わっている。黄桜記念館では酒造りの工程、河童について学ぶことができる。黄桜商店にはここでしか買えない黄桜の酒や、地ビール、限定品などの土産物が買える。奥には酒蔵を改造してできた、黄桜酒場があり、もちろん各種のお酒を楽しめるコースもあるが、ランチタイムにはリーゾナブルな普通のランチメニューも楽しめる。

表玄関から出よう。そこは塩屋町。東に進むと上油掛町に至り、道は行き止まりになる。ここを北に行くと蔵元山本本家が経営する鶏料理の鳥せい本店と酒の直売店がある。元酒蔵を改造したものだ。ここには豊富な鶏料理があり、それでいて値段も安い。車を運転していなければ特製生酒も飲むことができるのに、悔しいことに感想文が書けないのだ。直売所で生酒を買い、帰ってから楽しもう。

この店の前をさらに北に行くと東本願寺伏見別院の立派な建物があり、その門前には「会津藩駐屯地跡(伏見御堂)」の石碑がある。説明文によると、桃山時代、教如は徳川家康の居城・向島城を改築して伏見御堂を創建し、ここを拠点に活動し、後に家康から七条の広大な土地と建物を与えられ、東本願寺を分派独立することに成功したとある。日本の仏教にとって大きな変換点になる場所なのだ。そして鳥羽伏見の戦いが起こる前日に会津藩先鋒隊200名がここ伏見御堂を宿陣にしたのだとある。このあたりの町名は大阪町である。

突き当りを鳥せいの方と反対に行くと、月桂冠の元酒蔵を改造し、豆腐にもこだわる日本料理の店、月の蔵人がある。月桂冠関連のここでしか売っていないという特製のお土産もある。この店の裏側の小路に「伏見土佐藩邸跡」の碑が立っている。

この小路を南に下がると、寺田屋の前を東西に走る道とぶつかるが、その角に、「伏見夢百衆」という土産物店・喫茶店がある。大正時代に建てられた月桂冠の旧本店社屋を活用したもので、伏見の清酒約100種が置いてある。蔵元を一つ一つ回らなくても、ここに来ればお目当ての銘柄の酒が買えるのだ。喫茶室ではきき酒もでき、酒の仕込み水で入れたコーヒーやいろいろなスイーツもあるようだ。

隣に2階は白い虫籠窓で1階は格子戸がずらりと並ぶ大きな京町家がある。表札に大倉とある。月桂冠の当主大倉家のものだったのだろうか。グーグル地図で見ると笠置屋(株)と書いてある。大倉家は笠置町出身で、笠置屋を屋号にしていた。

南に行く通りの右側には、下は焼き板の壁で上部は窓を持つ白壁の蔵造りの建物がずらりと並び、さらに行ったところに月桂冠大倉記念館がある。酒造りの工程の説明や月桂冠の歴史がわかる資料館と土産物店がある。資料館は入場料300円が必要だがお土産に200mlの純米吟醸酒がもらえる。予想外においしいお酒だから、資料館にも入ったほうがいい。

もと来た道を更に進み、弁天橋を越えるとすぐに長建寺はある。朱塗りの土塀に中国風の竜宮門がある。ご本尊は八臂弁財天で、毎年元日から15日間だけ開帳される。8本の腕を持ち、音楽・財富・智恵・延命を司る弁財天で、脇仏には珍しい裸形の弁財天もある。鐘楼の下に和歌みくじを引くところがあり、宝貝守りという、江戸時代から伝わる古銭型の珍しい(ゲテモノ風の)お守りもある。

ここから真北に800mほどのところ鷹匠町に前号で書いた、薩摩9烈士の墓のある大黒寺がある。小さなお寺で車を停めるところなどはない。

このお寺の向かいに金札宮はある。祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)、天照大御神と倉稲魂命であり、天太玉命は白菊大明神とも言われ、孝謙天皇の御代、白菊を振るいその先についた露を涸れ地に駆ければたちまち清水が湧き出て、この地の干ばつを救ったという。

この地に突然金の札が降り、札には、永く伏見に住んで国土を守らん、という誓が書いてあった。これが金札宮の名前の由来でもある。金札という響きから、この神社は商売繁盛、家運隆盛の御利益があると信じられている。

境内のクロガネモチの木は京都市の天然記念物に指定されており、樹高10,6mあり、秋には赤い実を木一杯につけ、それは壮観である。

金札宮から北東300m丹波橋通りに面して勝念寺・かましきさんがある。織田信長が深く帰依していた貞安上人が信長・信忠親子の死後、秀吉の城下町伏見に開創した。ご本尊の身代わり釜敷地蔵尊は、地獄で釜茹でにされて苦しんでいる人の身代わりとなって、自ら煮えたぎる釜の中に入り、苦しむ人の苦を取り除き安楽にそして 幸せへと導いて下さるお地蔵様ですと寺の由緒書は言う。「かましきさん」と江戸時代から庶民の信仰を受けてきたという。

最後に訪ねる寺は、大手筋を松本酒造の敷地の横を北上したところにある宝福寺である。途中、キンシ正宗本社(純米大吟醸 松屋久兵衛の蔵元)、玉乃光酒造に寄ってもいい。曹洞宗のこの寺は「道元禅師慕古の旅」として、宇治興聖寺から福井永平寺迄、暑い夏の行脚を続けている。

本堂、金毘羅堂にも参拝できるが、金毘羅堂には秀吉と淀君が奇跡的に子宝を授かるのに霊験あらたかだったという秘仏の「双身歓喜天」と「陰陽石(子授け石)」がある。「只管打坐(しかんたざ)」とひたすら座禅を組むことの大切さを教える曹洞宗の寺も、まずは庶民の心をつかむことが必要で、それには秀吉と淀君の妊活苦労話を持ち出すのが手っ取り早いのだろう。

伏見の町は奥深い。ますますその思いを強くする旅だった


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