D級京都観光案内 5

化野の二つの念仏寺


 

 大覚寺と大沢の池を堪能した後は化野念仏寺に向かう。車で行く場合ちょっと注意が必要だ。化野念仏寺の駐車スペースは少ししかなく、大覚寺から向かう広い道路そばに念仏寺駐車場という案内を見つけたらさっさと駐車した方がいい。というのも国としての町並み保存制度である「伝統的建造物群保存地区」に嵯峨鳥居本が指定されているのだ。愛宕神社一の鳥居前に形成された門前町で、化野念仏寺の前を通り清凉寺に向かう道の半分ぐらいまでが指定されている。化野念仏寺の中の小さな駐車スペースが埋まっていればもうその近くには駐車スペースはないのだ。ということで、広い自動車道路の近くに駐車場を見つけて、そこから数分歩いて念仏寺に行くことになる。

化野念仏寺は遠く空海によりこの地に葬られた人々(風葬または鳥葬)を追善するために開創され、後年法然が念仏道場としたことから念仏寺といわれるようになったという。境内には8000体に及ぶ石仏・石塔があり、これは明治時代化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものだ。石仏11体が表情が違う。見比べていくとついつい見入ってしまいあっという間に時間が過ぎる。この場所は「賽の河原」に模して「西院(さい)の河原」といわれる。

ここでちょっと横道に。阪急京都線、嵐電にそれぞれ「西院」という駅がある。直線距離で100mも離れていないが前者は「さいいん」と読み後者は「さい」と読む。平安京の時代、淳和天皇の離宮「淳和院」があったが、内裏から見て西にあったので「西院」と呼ばれ、付近一帯の地名となったが、佐比(さひ)大路の近くなので「さい」と呼ばれるようになったという。

私が子供のころ向日町(阪急の駅名でいうと西向日町)に住んでいて、阪急で京都に行く時は、東向日町、急行のとまる桂、西京極、そしてトンネルに入り急行のとまる西院、終点の京都だった。昭和38年に河原町まで延伸され、京都駅終点でなくなり駅名も大宮に変わった。そのころ西院駅のすぐそばに西院映劇という映画館があり、3本だて60円とかでやっていた。昭和40年代後半には大宮駅に大宮コマ劇場という映画館ができ、懐かしの名画をやっていて、「ひまわり」を見たことを今も思い出す。実はその日は徹夜明けで途中で寝てしまって、ソフィアローレンが広大なロシアのひまわり畑の前に立ちすくみ、テーマ音楽が流れているときにハッと目をさまし、その光景と音楽が今でも目と耳に焼き付きこびりついている。

話を元に戻し、化野念仏寺では毎年82324日に灯明を上げ、千灯供養を行う。これはテレビでおなじみだ。夏休みも終わりに近づき何かさびしいこの時期のうつろな心に千灯供養のテレビ映像はさらに追い打ちをかけられたように記憶している。でも今は昼。明るい陽光に石仏たちも暗さはない。

さあ、ここから寺の前の道筋にある町並み保存地域を散策してもいいのだが、今回はそれを端折ってもう一つの念仏寺、愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)を目指す。これがD級京都観光のD級たるところで、もしA級観光なら、町並み保存地域を散策して清凉寺に至り、豆腐は買わずに反対の方角に行き祇王寺、滝口寺を訪ね、二尊院に行き、落柿舎を回り、常寂光寺そして野宮神社から竹林の中を通って天龍寺に行くか渡月橋に行くかとなるはずだ。

D級は the 4th でもあるが deepdelicious でなければならない。

駐車場に戻り、元来た道から北を目指すと清滝トンネルが見えてくる。愛宕念仏寺前のバス停があるが、そこで旧道へ戻るヘアピンカーブをまがり、お寺に参るのは後にして、鳥居本の一の鳥居に向かう。緋毛氈がかかった縁台が目印の平野屋の前に運が良ければ車を停めることができる。この幸運に恵まれたら、車から降りたところを写真に収めてもらう。もしその車がちょっとしゃれていたらもういうことはない。不運にも車を停めるスペースを見つけられない時は元に戻ると道幅が広いところがあるのでそこに停めてしまえばいい。

平野屋は鮎料理が有名だがちょっと高そう。お手頃は「むしやしない」である。空腹を一時的に抑える程度の軽食という意味だそうだ。子供の頃「むしおさえ」といっておやつをもらった記憶はあるが、4年前に平野屋で見かけるまで「むしやしない」という使い方を知らなかった。なお京都検定的には必ず押さえておくべき京言葉だ。平野屋のむしやしないは季節によって違うらしい。

4年前の3月はたまたまお客が我々家族だけだったが、それもそのはず東日本大震災のわずか9日後の日曜日で不謹慎にも遊びにほっつき歩く人は少なかったのだ。弁解がましいことを言うと我々も初めから嵯峨野観光をしにやってきていたのではない。鳥居本は愛宕神社の門前だが、愛宕山のちょうど反対側は宕陰(とういん)地区といい越畑と樒原の2地区からなる。美しい棚田と茅葺の民家で知られ、越畑フレンドパークまつばらのソバは知る人ぞ知る人気のソバなのだ。その年の1月成人の日に亀岡から京都縦貫道に乗り、八木東インターで降りて越畑を目指したが、まつばらまであと1qというところで積雪のためノーマルタイヤの私の車は走行不能になり、スリップしながらやっとの思いでしかも涙ながらに引き返さざるを得なかった。

そこで320日、ソバを食べに行くぐらいはそう浮かれた行動と非難もされないだろうと亀岡から八木を通り、今度は無事まつばらに1130分に着いた。11時開店だからもうお客はいっぱいで、30分待って12時頃にようやく席に着けた。板敷の広間に大きな机がいくつかあって、ゆったりとして食べられる。山菜の天ぷら、ざるそばに味付けごはんが付くのが人気メニューでそれを堪能した。

腹一杯になったら今度は棚田の写真を撮ろうと、越畑から樒原に車をゆるゆる走らせた。車内からでも棚田がきれいに見えるところを探そうと棚田の方ばかりを見て車をバックさせた。ガクンと車が傾いた。慌てて前進させようとした、車はびくとも動かない、ありゃあ脱輪させてしまった。ああ私はADHDであることを再確認してしまった。近くから大きな木片を持ってきて車輪の下においたり努力はしたが無駄だった。仕方ないJAFに電話して助けを求めた。会員番号を告げるがそれは期限切れですね、実費が入りますがいいですかと。(嫌だなんていう訳ないだろう。)しばらくして車の手配ができたと連絡が入る。嵯峨野の方から行きますから1時間半後ですねという。

実際にはもっと待たされた。その間脱輪させた田んぼの持ち主が怒るどころかいろいろ心配してくれて2度も見に来てくれた。通りがかりの車から降りてきて手伝いましょうかと言ってくれる人もいた。でも助けてくれたのは遅ればせながら細い山道を喘ぎながら登ってきてくれたJAFのレッカー車だった。もううれしくなって再入会の手続きもさっとした。

車とともに元気になった私は、バックするのに妙に怖気づいたのかレッカー車の横をすり抜け細い山道、愛宕山の横っ腹を嵯峨野を目指して走り出した。途中ゆずの名所の水尾があるのでゆずの直売所とかあるに違いなかろうと、その楽しみだけを糧に狭い道を走らせた。水尾のあたりに来ると鳥料理とかゆず風呂とかの看板はあるがどれも要予約という感じで、ゆず製品の直売所なんて道路沿いにはない。

仕方がないのでそのまま走らせると車が離合困難な狭い道になり、向こうから車が来ようものならどこですれ違えるかをさっと判断して待たないといけないのだ。極め付きは大岩をくりぬいてやっと1台通れるようなトンネルを抜けたりする。それもそのはず右側の眼下には保津峡やトロッコ電車が見えるのだ。やっとの思いで麓らしきところにたどり着くとそこには大鳥居があり、左折して少し進むと平野屋と緋毛氈がそこにあったのだ。

地獄に仏とはこのことか、脱輪地獄でレッカー地蔵に救われたと思ったら、細道地獄に迷い込み、保津峡に滑り落ちて本当の地獄をさまよう直前に平野屋が現れたのだ。仏のような、いやその時は仏以上に神々しく見えたおかみさんが現れて、大きな木製の火鉢の前に誘ってくれる。おかみさんは美人だ。客は我々1組だけ。火鉢の中には炭火が温かい。まずお茶とポン菓子のようなものが出る。そして大根炊き(もちろん油揚げがついている)、しんこ団子、そして焼きもちが出る。うれしいことに焼きもちは目の前でおかみさんが手ずから焼いてくれるのだ。

心身ともに暖かくなり、元気になって愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)に向かう。愛宕念仏寺は奈良時代の末に称徳天皇(あの道鏡に天皇の座を譲り渡そうとした女帝)が東山に愛宕寺として建立したのにはじまる。その後鴨川の氾濫などもあって荒れ果てたのを平安時代初期に念仏を唱えることの重要性を訴えた千観上人が中興し愛宕念仏寺といわれるようになった。しかしその後衰退の一途をたどり、大正11年に堂宇の保存のために現在地に移された。しかし荒れるにまかされていたが、東京芸大出身の国宝修理師の西村公朝氏が青蓮院で得度し昭和30年に住職として入山、復興に努めた。東京芸大教授を兼務しながら、昭和56年には素人の参拝者が羅漢像を彫ることをはじめ、まずは500体、次いで700体の計1200体の羅漢が境内を埋め尽くしている。羅漢像の頭は苔むしてまるで緑の螺髪をつけているようで、これに秋に紅いモミジ葉がついていたり、冬に白い雪が積んでいるとそれは素晴らしい光景だ。もちろん11体の表情が違い、背中には奉納者の名前が彫りこんであるのも面白い。

境内にはいろいろな建物があり、千手観音もあるし「火之要慎(ひのようじん)」のお札として知られるあたご本地火除地蔵菩薩が祀られている。御朱印をもらうと、授与品として西村公朝前住職の仏画がもらえる。なお息子の現住職はシンセサイザー奏者でもあり寺ではコンサートも行われるらしい。この寺は化野念仏寺の陰に隠れて観光案内にはあまり取り上げられないが、なかなか奥の深い寺なのだ。何度も訪れて見たくなる寺の一つだ。

今日の行程はこれでおしまいなのだが、鳥居本とはどの神社の門前だったのか、愛宕神社である。ということで愛宕神社の京都検定的おさらいをしておこう。標高924mの愛宕山山頂近くにあり、古来鎮火の神として崇敬されてきた。武家の崇敬も集め、たとえば本能寺の変の前に明智光秀が愛宕神社で連歌会を催し、その発句に「時は今 雨が下なる(下しる)五月哉」と詠み、これが謀反を起こす決意表明だというのがもっぱらの通説である。歴史の通説は往々にして時の為政者、この場合豊臣秀吉にとって都合のいいように改変されていると考えた方がよく、歴史の真実は案外見つけ出しにくいのだ。

愛宕神社に3歳までに詣るとその子は一生火難を逃れると言い伝えられる。731日夕刻より81日の早朝にかけて詣ると千日分のご利益があると千日詣りとよばれている。火災除けのお札は愛宕念仏寺のものより愛宕神社のものの方が圧倒的なシェアを占めていて、阿多古祀符「火迺要慎」(あたごしふひのようじん)と書かれた護符が各家庭や店の台所に張られている。

「稲荷詣に愛宕詣」とは雲がお稲荷さんの方に(南東に)行くと晴れ、愛宕さんの方に(西北に)行くと雨になるという言い伝えである。ことほど左様に愛宕山は京都の人にとって大事な存在の山なのである。

ただ恥ずかしながら私はまだ一度も愛宕神社にお参りしたことがないのである。


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