D級京都観光案内 8 二つの幽霊子育飴 |
8月、お盆である。先祖の霊をお迎えし、供養しそしてお送りする行事である。となると今日のまず第一に行くところは六道珍皇寺に決まりである。本シリーズの記念すべき第1回で軽く触れたが、大事なところはスルーしてしまっていたからだ。
例によって京都南インターから目的地を目指すのだが、まず腹ごしらえをしておこう。烏丸五条東入ルにある蕎麦の実よしむらにする。午前11時開店である。駐車場はないので少し離れたコインパーキングに停めるしかない。ざるソバはいろんなものがあって面白い。汁ソバはちょっと出汁が薄いのがもの足りないが。なお本店の嵐山よしむらは渡月橋北詰を少し西に入ったところにある。
ソバで腹がくちくなったら五条通を東に行き、適当なところで左折し松原通に出て右折して空いているコインパーキングが見つかればそこで車を停める。そこから六道珍皇寺を目指そう。六道珍皇寺境内にも4,5台分の駐車スペースがあるのだが、もし満車の時には悲劇である。だからたとえたまたま空車スペースがあったとしてもここに停めればよかったのにと不平は言わないでおこう。
歩きながら百人一首第11番参議 篁「わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣り舟」を口ずさみながら行くと京都通であることを鼻にかけられる。朱色の山門があり、その前に六道の辻の石碑が立っている。境内に入ると鐘楼がある。しかし鐘は見えない。鐘楼から伸びている綱を引き迎え金を鳴らす仕組みだ。その横に閻魔堂がある。ガラス越しにのぞくと弘法大師、閻魔大王、小野篁が祀ってある。弘法大師が祀ってあることでもわかるようにこの寺はもと愛宕寺といわれ、そう今化野にある愛宕念仏寺の前身の寺であり、真言宗であった。それが戦火を浴びて衰退してしまったものを中興の祖が建仁寺塔頭として再興したのだそうだ。
正面に本堂があり、その裏庭にある井戸は毎夜小野篁が冥府通いをした入り口といわれている。ただし特別な拝観日でないとその井戸を間近に見ることはできない。同じくご本尊の薬師如来坐像も重文だが御開帳にはならない。
山門を出て松原通を東に向かっていくと、力餅食堂というごくありふれた大衆食堂がある。でも力餅という屋号を出すぐらいだから餅は自慢なのだろう。餅屋の赤飯は結構いけるのでお持ち帰りすることにする。
もと来た道を山門前を過ぎ、左手にハッピー六原とある通りの前を通過し、さらに行くと少し広い三叉路にやってくる。ここにも六道の辻の石碑がたっている。その向かい三叉路に面して「京名物幽霊子育飴」の昭和の香りのする看板のかかった「みなとや幽霊子育飴本舗」がある。ここではこの飴と店主の実家で作る宇治田原のお茶だけしか売っていない。
この飴の由来を店のホームページから見てみよう。
今は昔、慶長四年京都の江村氏妻を葬りし後、数日を経て土中に幼児の泣き声あるをもって掘り返し見れば亡くなりし妻の産みたる児にてありき、然るに其の当時夜な夜な飴を買いに来る婦人ありて幼児掘り出されたる後は、来らざるなりと。
この言い伝えはいろいろ脚色されている。落語にもなっている。一つにはこうだ。女は毎日1銭ずつ持って飴を買いに来て7日目には金がないというので着物を代金代わりにおいて帰る。飴屋がその着物を店頭に吊るしておくと、死んだ女の両親がこれを見つけ、これは葬った娘の着物のはずと墓を掘りだすと赤子が出てきたというのもある。
ここで大事なのは女が6銭だけ持っていたということであり、これは葬るときに六文銭を入れる習わしがあったからである。三途の川の渡し賃で六道の一つずつに1銭だから6銭なのである。六道の辻にある飴屋で6銭払うとは見事に整合性のとれた怪談話である。
ところでついこの間製薬会社さんのくれた雑誌に真田幸村の旗印の六文銭は三途の川を渡る覚悟で戦いに臨む意気込みを表したものであると書かれていた。なるほどそういうものだったのか。
赤い地に恐ろしげな字体で幽霊子育飴と白抜きで書かれた包み紙の中のこの飴はべっこう色で甘すぎないし食べ終わって口にべとつきが残ることもない。いわれや包装紙はおどろおどろしいが、とても上品なスイーツだ。ただこのお店も日祝は休みだから注意しておこう。
向かいの西福寺(さいふくじ)に行こう。ここの町名は轆轤(ろくろ)町である。風葬の地の名残で髑髏(どくろ)がなまってロクロになったのだ。この寺のご本尊は阿弥陀如来、子育て地蔵堂もある。葬送地跡の名残か、何か心落ち着かない境内である。嵯峨天皇の皇后、檀林皇后がこの地で空海に帰依したといわれており、六道詣りの時に公開される「六道絵」、江戸時代に檀林皇后を描いたとされる「九想図絵」は風葬された死屍の変容が生々しく描かれており、ともに重要文化財である。
六道の辻の道標から南に100mも行くと六波羅蜜寺の入り口にやってくる。山門もなく境内も狭いが、見どころが多く、行事も含めて京都検定的には重要なお寺なのだ。真言宗智山派(総本山は智積院、等伯・久蔵親子の国宝「桜楓図」が見られる)、本尊は十一面観音。ただ辰年にしか公開されないので次回見ることができるのは2024年、9年先である。
開基は空也。平安中期、京都を中心に貴賤を問わない口称念仏の布教をして市聖(いちのひじり)と称せられたあの人である。それよりも中学の教科書で見た、口から6体の仏を出している空也上人立像のその人である。宝物殿ではその空也上人立像を間近に見ることができる。中学の教科書の写真の中から飛び出してきたかのような錯覚を覚える。平清盛像、運慶と湛慶の像もある。すべて重要文化財だ。
西国三十三所の第17番札所であり、都七福神詣りの弁財天の札所でもある。
行事としては正月に皇服茶(おうぶくちゃ)が振る舞われる。結び昆布と小粒梅が若水でいれた煎茶に入っている。京都に疫病が流行した折、空也上人がこのお茶をつくり、みんなに振る舞うことにより疫病が収まったことに由来するという。最初に村上天皇に献じたのでその名がある。
8月には万灯会、12月には空也踊躍(ゆやく)念仏がある。かくれ念仏ともいい、六斎念仏、念仏踊りの始まりなのだろう。
さあ次はすぐ北にあり大伽藍を持つ建仁寺に行こう。六道の辻のある松原通をさらに北に行き八坂通りに出る。右手に八坂の塔で知られる、法観寺の五重塔が見える。我々は少し左に進み、裏口から建仁寺境内に入る。勅使門がありさらに行くと三門があるから、裏口と思っていたがこちらが正門なのだ。山門の東側に、平成の茶苑、茶碑がある。開山は日本禅宗の祖とされる栄西で、栄西は宋から喫茶の風習を持ち帰り、「喫茶養生記」を著し、茶の効用と作法を説いた。開山降誕会に行われる「四ツ頭茶礼」は禅宗寺院に伝わる古式の茶会である。
日本の茶の歴史にちょっと横道に。栄西が持ち帰った茶の実を栂尾高山寺の明恵に伝え、山内に植え育てたのが日本最古の茶園としてある。よって中世以来、栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶とよぶ。本茶と非茶を飲み分けて賭け物を争う闘茶会が流行したというが、まあ利き酒みたいなものだろう。
さあいよいよ方丈に入ろう。建物自体が重要文化財である。中に入ると国宝の俵屋宗達作の「風神雷神図」屏風がある。本物は京都国立博物館に寄託しているので、ここで見られるのは高精細複製作品である。同時代に活躍した海北友松の国宝障壁画「雲龍図」もこれまた複製だが見ものである。
当然のことながら方丈外には庭という空間がある。そのそれぞれに禅の思想が表現されている。その中でも有名なのが「○△□乃庭」である。十分庭を堪能したら廊下伝いに法堂に行く。禅寺の法堂の天井画は龍が描かれているが、ここの天井画は平成14年建仁寺創建800年を記念して、小泉淳作画伯が約2年の歳月をかけて描き上げた「双龍図」であり、畳108畳に及ぶ壮大な水墨画である。どの禅寺に行っても龍の天井画を見ると参拝したという実感がわくが、まあ宗教行為を観光と勘違いしているんだなあとちょっと恥ずかしくなる。
建仁寺には両足院、霊洞院など見るべき塔頭があるが、そうそう六道珍皇寺も塔頭の一つだったが、時間がないので今日最後の目的地に向かおう。もう一つの幽霊子育飴がゲットできる、西陣の立本寺だ。五条通を西に行き、大宮五条を右折し、四条大宮を経て千本通りを北に行く。千本丸太町で左折し、次の信号丸太町七本松を右折し、800mほど行ったところに立本寺の入り口が見える。注意しないと行き過ぎてしまいそうだが、ここでいいのかなと恐る恐る境内に入ってみると驚くほど広い。
日蓮宗京都八本山の一つで、日像上人により開山された。日像上人は妙顕寺を建てたが、当時の既成勢力天台宗の比叡山僧兵によって破却された。50年後に日実上人がその地に再建。「本寺を立てる」という意味を込めて「立本寺」と改名したという。しかし僧兵によって破却され、その後再興され、2度の移転を経て現在に至っている。
広い境内には春は桜(桜の隠れた名所)、夏には蓮の花、庭園龍華苑は紅葉の隠れた名所であり、雪の龍華院もハッとする美しさだ。
御朱印をもらおうと本堂に入ると、お目当て「当山には幽霊飴(子育て飴)を販売しております。お求めの方は当山御受付まで」の張り紙がある。後朱印と幽霊飴をいただきたい旨を申し出ると、まあ御上がんなさいと広い受付前に座らせてもらい、お茶まで出してもらえる。高い天井に見とれた後、机の上を見るとなんと熱帯魚の水槽が置いてある。境内が隅々まで掃除が行き届いているように、熱帯魚の水槽にも何の濁りもない。大したものだ。
飴をもらって言われを読むと、さっきのみなとやさんの続編が書いてある。例の赤ちゃんが、大人になった後に出家して、立本寺第二十世日審上人になったとある。確かに日審上人が亡くなったのは寛文六年三月十五日、六十八歳とまさにその日だった。
こちらの幽霊子育飴の色は少し濃い感じだ。幽霊子育飴の伝説はわが子を思う母のやさしさを伝えるものだけではないようだ。既成宗教、政権からの迫害に絶えて生き延びた宗教の芯の強さを伝える意味があったのではないだろうか。
ただこういう古い飴が好きな私は、この二つの古い飴が細々としてでもいいからこれからも続いて欲しいと願うばかりである。
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