D級京都観光案内 7 御霊会から祇園祭へ |
前回は鳥羽地蔵でうろうろして、今回桂地蔵に向うと予告していた。でも時は7月、祇園祭に触れねばならないだろう。で、今日の目的地は山鉾巡行に合わせたところかというとそれは普通の観光案内の方に任そう。昨年から後祭(あとのまつり)も復活し、山鉾巡行が2度行われること、宵山には各家々では代々伝わる屏風などを見せるため屏風祭の異名があることもそちらに譲ろう。「後祭(あとのまつり)」の語源が祇園祭の後祭に由来することも合わせて。
祇園祭は、古くは祇園御霊会と呼ばれる八坂神社の祭礼である。その起源を訪ねると、平安時代、都を中心に疫病が流行しこれは牛頭天王(ごずてんのう)の祟りであるとして当時の国66か国に合わせて、66本の鉾を立てて御霊会が行われていた神泉苑に出向き疫病退散の神事を行ったことにたどり着く。
すなわち祇園祭も祟りを鎮めることから始まった。今は華やかな山鉾巡行に目を奪われてしまうが、その源は祟りを恐れる都人の心にあるのだ。これに先立つこと5年、863年に神泉苑で御霊会は行われ、崇道天皇(早良親王)、伊予親王・藤原吉子・藤原仲成・橘逸勢・文屋宮田麿の6柱の御霊が祀られた。御霊とは結局のところ怨霊であり、政変に巻き込まれ不慮の死を遂げた人たちは怨霊となって祟りを及ぼすと考え、政争の勝者の為政者たちは敗者の死後の復讐としての祟り・疫病の鎮撫に苦慮したのである。
たとえば早良親王は平安京に先立つ長岡京建設の責任者、藤原種継の暗殺者の黒幕として実兄の桓武天皇から嫌疑をかけられ、乙訓寺に幽閉され、無実を訴えハンガーストライキに出て、淡路島に流される途上で憤死した。あとの人たちも謀反の嫌疑をかけられ、流刑され、憤死している。橘逸勢は空海、嵯峨天皇とともに三筆と称せられるほどの能筆家であったが、謀反の疑いで伊豆に流され、その護送中に死んでいる。どの人もどの人も化けて出たくなるのは無理もない。そいつが邪魔だからということだけで謀反の疑いをかけられて抹殺されたのだから。平安時代は実に恐ろしき時代なのだ。
それら6柱に加え、火雷神と吉備真備を祭神にしているのが上御霊神社である。今日の最初の目的地はそこである。場所は相国寺の少し北にある。寺町通り(河原町通りの一筋西)を今出川通りからさらに北に向かい上御霊前通りを左折すると南門の前にやってくる。そこから境内に入って駐車すればいい。
境内はかつて御霊の森といわれ、現在の2倍もあったようだが、狭くなったとはいえ十分広く、境内にはいろいろな建物があり、摂社もまた多数ある。本殿は賢所御殿の由緒ある遺構を移築したものだそうで、立派なものだ。中央には拝殿があり、さらに絵馬所があり、著名画師の作品が飾られている。「半日は 神を友にや 年忘れ」という芭蕉の句碑やあの広辞苑の編者の新村出先生の歌碑もある。我々がくぐった南門も立派なもので寛政年間に再建されたものという。西側に出てみる。大きな石の鳥居があり、そして立派な楼門がある。伏見城の四脚門を移築したものだそうだ。
石の鳥居のすぐ南側に、「応仁の乱 勃発地」の石碑がある。文正2年1月18日朝、この地御霊の森に陣取った畠山政長に家督争いをしていた畠山義就が攻めかかった合戦が以後11年にも及ぶ応仁の乱の始まりだったのだ。この年の3月に文正は応仁に改元されたので、応仁の乱とよばれている。この長き戦いにより、御霊神社の境内は半分になったが、それ以上に京の都は灰燼と化し、都とは名ばかりの荒廃した姿になった。都らしく復興するのは豊臣秀吉による町づくりを待たねばならなかった。
およそ都の雅とはかけ離れた金ぴか大好きの豊臣秀吉が都復興の最大の功労者だとはつい最近まで知らなかった。いろいろ京都観光をしてきていたがそういう記述にはあまり巡り合ってこなかった。荒廃した内野の地に豪壮な聚楽第を建て、後陽成天皇を2度までも行幸させたその驕りぶりに都人のプライドが秀吉の都への貢献ぶりを無意識に過小評価して後世に伝えていったためなのだろう。
上御霊神社ゆかりの菓子として唐板がある。863年に開かれた御霊会で健康を祈る厄除けの煎餅としてふるまわれたのがその起源という。1150年の歴史だ。門前の水田玉雲堂が500年以上守り伝えている。この店は日曜祝日は休み、そしておいている商品は唐板だけだ。明治維新まで皇室は皇子が誕生するたびに上御霊神社に参詣しこの唐板を土産にしたという。まあ一度食べてみる価値のあるお菓子だ。
ここまで来たら徒歩圏内にあるお寺にも行ってみよう。先ほどの寺町通りをさらに北に鞍馬口通りに行く手前に曹洞宗の天寧寺がある。寺町通りに面した門は額縁門と通称され、比叡山の眺望を一幅の絵のように見せることからこういわれる。
さらに北に行き鞍馬口通りを少し東に行った北側に浄土宗の上善寺がある。ここの地蔵堂の鞍馬口地蔵(もとは深泥池地蔵)は六地蔵の一つで、鳥羽地蔵と同じジョウゼンジであるからややこしい。
この後鴨川沿いに南下し、今出川から河原町通りを南下し、丸太町通りで右折し、次の寺町通りで左折したすぐのところに下御霊神社がある。この神社も863年の御霊会で祀られた6柱とさらに2柱をくわえて祭神としている。当初上御霊神社のすぐ南に位置していたものを、豊臣秀吉の大規模街づくりの一環で現在地に移転したという。
寺町通りをはじめ近隣の人達は氏子になっているが、かつては御所に住む宮家の人々も氏子だったらしい。そんなわけで5月の神幸祭、還幸祭は賑やかに執り行われ、とりわけ還幸祭は第3または第4日曜の行われ、前日の宵宮には多数の露店が並び、子ども神輿が行われ、当日は鳳輦(ほうれん:屋根に鳳凰の飾りのある天子の車)・神輿巡行があり、近隣を練り歩く。時代祭とまではいかないがちょっとした見ものである。
下御霊神社を南に一筋越えたところに行願寺、通称革堂(こうどう)がある。西国三十三ヶ所第19番札所だが、街中にあるので境内は広くない。行円の開基とされるが、行円は元猟師で射止めた雌鹿の腹中に生きた子鹿がいるのを見て後悔し、仏門に入り、経文を記した雌鹿の皮を衣にし修行に励んだという。それで行円は皮聖とよばれ、革堂の名前はそれに由来する。また上京の民衆の集会所、町会堂でもあった。だから堂の字がついているのだ。
革堂には幽霊絵馬という寺宝があり、8月15日頃に公開される。こんな話が伝わる。ある質屋のもとに子守として奉公に来た娘は子を背負いながら革堂に来てはその御詠歌を口ずさんでいたが、宗派が異なる質屋からは御詠歌を歌うこと、革堂に近づくことを禁じられた。娘は寂しさからその禁を破り、こっそり革堂に行き御詠歌を口ずさんでいたが、背負われた子どもが口真似てうたったものだから質屋にばれてしまった。質屋は娘を折檻し、寒空に放置したため、凍死させてしまい、慌てて地中に埋めてしまった。娘を探しに来た両親が革堂の観音様に娘の居場所を教えて下さいと願をかけておこもりしたところ、幽霊となった娘が出てきて事の次第を告げて去った。そこには母が娘に持たしていた手鏡が落ちていた。両親は娘の霊を弔うために幽霊の姿をそのまま杉板に写し取り、形見の手鏡をはめ込んで絵馬として革堂に奉納したという。まさしく呪いの絵馬である。その呪いを持った場所が町会堂になるところが京都らしい。
寺町通りにはいくらでも立ち寄りたい店がある。一保堂では千里阪急では買えないお茶を買い、併設の喫茶室「嘉木」で玉露を教えられた通りに自分でいれてみると、お茶ってなんておいしいんだろうと感動する。向かいの魚屋のうなぎは案外おいしい。村上開新堂では泉屋のホームメードクッキーが懐かしい人にピッタリのクッキー詰め合わせがある。ただし予約後1,2か月待ちは覚悟しないといけない。少し下がって二条通にある漬物屋福田の淀大根は冬季限定である。今のスグキは酸っぱくなくて物足りないという人向きだ。さらに南に行き御池通りに行く手前に富屋商店がある。ここには京都の地酒を売っているので是非立ち寄ってみたい。
買い物ばかりをしていてもきりがない。次の目的地神泉苑に行こう。御池通りまで下がり、西に向かい堀川通りを越え大宮通にあるコインパーキングに停める。御池通りに戻り少し西に行くと史蹟神泉苑の石碑があり石の鳥居をくぐると正面に法成就池が見える。平安京造営時大内裏の南東に位置し、桓武天皇はじめ歴代天皇が行幸する禁苑として作られた。現在は東寺真言宗の寺院で、鳥居をくぐって左手に本堂がある。本尊は聖観音菩薩、御朱印はその左の無人販売所で戴く。
天長2年(824年)淳和天皇の勅命により弘法大師空海が神泉苑にて雨乞いの祈りをささげインドの雨の神様善女龍王を呼び寄せることに成功し、日本国中雨が降って人民は大喜びしたと伝えられる。池の中に善女龍王が祀られている。法成橋という朱塗りの橋が架かり、さらに池の奥には龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の龍王船が見える。これは境内にある神泉苑平八で食事をするときに利用できるらしい。
日照り続きに後白河上皇が100人の僧に雨乞いの読経をさせたが駄目で、次いで白拍子に雨乞いの舞をさせたところ99人まではダメだったが最後の静御前が舞うや否や黒雲が沸き立ち3日間雨は降り続き、「日本一」の称号を賜ったという。このとき義経が静を見染めたと義経記には書かれているという。
大宮通御池の信号のある交差点を下がった2軒目に、旨いあられ屋がある。ただし外観は恐ろしくみすぼらしい。やや建てつけの悪いガラス戸が少しあいていて、カーテンの隙間からあられの入った袋がガラスケースの中に入っているのが見える。東坂米菓である。屋根を見上げると多分大正時代からかかっていそうな「都あら礼 東坂」という立派な看板が目に入る。
お城焼きという名のあられがお勧め。カリッとした歯ごたえ、程よい醤油の味とコメの味も良質。それもそのはず米は近江米、醤油もちょっと上等を選んでいるという。油で揚げたり油を使ったり、はては旨味調味料など使わない、Simple is the best. なのだ。もちろんほかの種類がある。ここのおかみさんはものすごく庶民的で、いろいろな商品見本をこれも食べてみてこれも食べてみてと勧めてくれる。どの商品も85g入り250円なのでだいたい6袋買って帰ることにしている。
そう大事なことを忘れていた。ここは不定休なのだ。平日はあいていたが、土曜日が休みのこともたまにあるし、日祝は休みのことが多かったように思う。これというのもご主人が脳梗塞の既往があり、実際麻痺が残り、無理のきかない体になっているようだ。店を閉じますという恐ろしい日が突然にやってこないか心配なのだ。
先ほど寄った酒の富屋の3軒下ったあられ屋も2年ほど前に閉店になってしまった。2つ食べたらもう口の中がしびれてそれ以上は食べられないという鬼山椒入りは、その激烈さが癖になってしまっていた。寺町通りに行くたびに鬼山椒入りをおばあさんから買っていたが、もう長くは続けられませんわという言葉の通り2年前閉店の張り紙がシャッターにしてあった。
東坂米菓さん頑張ってねと思いつつ今日の旅はこれで終わるのだった。
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