五者であれ

 

 昭和44年東京大学安田講堂事件により、その年の東京大学の入試は中止となり、東大を目指していた者たちは京大、阪大あるいは一橋大学へと進路を変えた。東大合格を請け負うと自負していた東京のある大手予備校は、東大以外の大学への受験指導の必要性を痛感させられ、そのためには京都に、大阪に、名古屋に、福岡に、仙台にと分校を作るようになっていった。

 この動きを看過するわけにはいかないと東京の別の予備校と名古屋の予備校もまた全国展開し、それらは3大予備校と称せられ、地元の予備校を淘汰し、互いに受験生の獲得にしのぎを削った。

 この時期の予備校の様子を城山三郎は「今日は再び来たらず」にしている。なおこの小説は文庫本にもなっており、絶版だが、アマゾンで古本を手に入れることはできる。

 3大予備校は「学生のS予備校、講師のYゼミ、机のK塾」と言われていたが、Yゼミの高宮理事長は「よい予備校講師は五者であれ」をモットーに講師を選び、「講師のYゼミ」と言わしめたのだ。

 五者とはなんだろう。学者、芸者、役者、易者、医者を兼ね備えた人ということである。予備校講師はまずもって学者でなければならない、でもそれだけではいけない。生徒というお客さんの機嫌を取りながら、楽しませ、嫌な勉強の授業ではなく演劇のように演じつつ、それでいて偉い先生なんだと思い込ませる芸者と役者でもないといけない。入試予想問題を的中させ、君ならこの大学合格間違いなしと見立てる易者でもあり、君の勉強法はこう直すべきだよと注意し、心身の健康あっての合格だよと見守る医者でなくてはいけないというのだ。

 予備校講師は受験生に希望する大学の入試で合格点を取れる学力をつけ、しかも本番でそれを発揮できるようにするのが仕事である。この仕事は1年間と時間が限られている。そのためには授業は受験生に理解できるものであることが大前提で、授業から得たものを通して受験生が自らどんどん勉強してくれるようになって可能になるのだ。勉強を教えるのではなく勉強法を教えるのだ。そのためには学者だけではだめで、五者であれというのだ。今風にいうと受験生とのコミュニケーション能力が高くないとだめだよということになるのだろうか

 そのころ私は物理のオーバードクターで就職先がないために、予備校講師をして生活の糧を得ていたが、その予備校というのは学生さんで持っているS予備校だった。研究者仲間では予備校講師というのはとても肩身が狭いものであったが、この五者の話を聞いて、予備校講師はそれなりに難しいものだから、ここで評価されることにそれなりのアイデンティティーを持ってもいいかと思えた。今考えると評価してもらえたのは学生さんがみな優秀だったからなのだが。

 さて、今私は精神科の開業医をしている。この頃ふといい開業医は五者であれなのかしらと思う。医者であるのは当然だが、これだけでは患者さんを診ることはできない。日々研鑽して医学の進歩についていき、病態への深い理解を図り、時には基礎医学を学び直すという学者でないといけない。患者さんのつらい症状の苦しさに思いをはせ、共感し、明るい気分になれるような優しいいたわりも見せあるいは軽い冗談も言って場を和ませ、患者の描く理想の医者像、患者・医者関係像を演じることで治療効果を上げる芸者、役者であることも必要だ。医学は科学である。科学は確率的にしかものを言えない。しかし患者にとって確率的なことを言われても、じゃあどうすればいいかわからないし、ただ不安になるだけである。だから医者の方がいろいろの可能性を説明した後、この方法でまず行きましょう、もしこういうまずいことが起こったらその時には対処法がありますから、そこでまた考えましょうというように易者の役もしないといけない。

 医者は病気を診るだけではなく人を診ないといけないと言うが、それはよい対人関係が持てる能力、すなわち五者という異なる方向の能力を併せ持つことだと私には思える。

だが診療報酬にはこの五者である能力は直接には反映されない。易者的にやりすぎるとパターナリズムだ、見落としだ、ひどいと医療過誤だなど言われるおそれもある。カルテには医者として説明した事実はきちんと記載しておかなければならない。五者であり続けるのは大変な時間と労力が必要だなとしんどくなってしまう。予備校講師の場合はうまく行った受験生の評価だけでいい講師と言ってもらえるが、開業医の場合はうまく行かなかった患者さんからの悪い評価が一気にそれまで築いてきた評価を下げてしまう危険はいっぱいなのだ。この辺はテレビタレントと同じであって、役者でもある開業医の宿命なのかもしれない。やっぱりしんどいものなのだ。



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