D級京都観光案内 43

御所東、寺町通り

御所・京都御苑の東を走る通り、それは寺町通である。今日は丸太町通りから北の寺町通界隈を訪ねてみよう。

御所の南側の丸太町通を東に進み、寺町通を左折する。左手すぐに御所東駐車場の入り口がある。車をそこに停める。すぐ向かいにあるのが京都市歴史資料館である。入場無料だ。1階では京都の歴史を理解するためのテーマ展や特別展があり、平成306月から918日までは、「明治150年 京都、写真の時代」である。2階は閲覧室で、所蔵する資料の閲覧、コピーができる。さらには京都の歴史に関する相談も受け付けている。京都検定1級合格のためのちょっと高度な相談窓口なのだ。

1階入り口の前にビデオ鑑賞できるところがあり、そこでは「久多花笠踊り」の練習から本番に向けての取り組みを115分にわたって流していた。平成27年度の京都検定1級試験で、「8月下旬に左京区の志古淵神社で行われる、室町時代から続くとされる風流燈籠踊りは何か」を問われ、「久多」までは出たがそのあとが思い出せず悔し涙を流した。このビデオを見て、ああ歴史資料館にさえ来ておけば思ったけれど、もう遅かった。

歴史資料館の南に細い道を挟んで日本式家屋がある。「新島襄先生旧邸」の石碑が立つ。同志社創設者の新島襄の私邸であるが、この土地は同志社英学校の仮校舎として借りた高松保実邸の跡であり、新島襄自身がアメリカ人講師(医師・宣教師でもある)W.テイラーの助言を受けて設計したとも伝わる。

和風に見えた北側の平屋部分から、南側に2階建てのコロニアル風の洋館部分がつながる。洋風といっても茶色の木部と白壁からなるシンプルな構造で、さらに内部の構造は和風の寄棟造で、畳敷きのところもあるという。

通常公開の時には敷地内から建物内部を見学するだけだが、特別公開の時には建物の中に入って見学できる。私がやってきた日はそのどちらでもなかった。しかしすぐ南側に前庭が広い同志社交友会・新島会館があり、広く門が空いているものだから中に入って、垣根越しに新島襄旧邸の2階建ての部分をゆっくり見ることができたのだ。垣根の下部は低い石垣になっているのだが、その上に30鉢のフジバカマがずらっと並んでいた。9月には落ち着いた花を咲かせるのだろう。新島会館は昭和60年に建てられた。ジョージアンスタイルを現代風に取り入れた、瀟洒な建物である。

すぐ南に接してとんがり屋根のてっぺんに十字架を持つ教会がある。日本基督教団 洛陽教会である。キリストをモチーフとするステンドガラスが見える。45年ほど前、友人の結婚式で1度だけ中に入ったことがあるが、それだけの縁でのこのこと入るわけにもいかず、前を通り過ぎるだけにした。ただてっぺんの十字架の向きが建物に平行ではなく、南西の方向を向いているのがなぜなのか、疑問を残したまま。

狭い通りを越えたところにUCHU WAGASHI 寺町店がある。人をわくわくさせたり幸せにする和菓子作りをコンセプトにする店だ。落雁や金平糖を基本形としているようで、饅頭とか生菓子とかは売っていない。2階は京町家なのだが、1階は町家を改造したシンプルな造りで、奥には透明なガラス越しに現代風の坪庭が見えるのも楽しい。

今来た道を戻ってずんずん北に行く。右手に改築中の京都府立鴨沂高校が見えてくる。明治54月、丸太町橋そばの旧九条殿河原町邸に日本最初の公立女学校「新英学級及女紅場」が開校し、その後の女子教育発展の基礎となった。その後府立第一高女となり、戦後、男女共学となり鴨沂高校と名前も変わった。卒業生、中退者には、沢田研二、森光子、田宮二郎、山本富士子がいる。こう書くと芸能人ばかりみたいだが、文化人もあまた輩出し、同じ府立高校でも桂高校という洛外の高校の生徒からすると、文化の香り豊かな別格の高校だったのだ。当然のことながら制服など野暮なものはなかったようだ。

当地に校舎が移る時に旧九条殿河原町邸の門もそのまま移ってきた。鴨沂高校の校門はなんとそのお屋敷の門がそのまま受け継がれているのだ。賛否両論ありながら新しい校舎ができつつある。来年(平成31年)4月から新校舎での営みが始まるのだろう。

すぐ北を東西に走る道路は荒神口通である。この通りの名前は京の七口の一つ荒神口に通じることによる。河原町通にぶつかるところが荒神口であり、さらに東に行き、荒神橋で鴨川を渡る。碁盤の目のような京都の街路の中で、京大医学部から本部を経て北白川へ斜めに横切る旧街道の名残がある。志賀越え、山中越えと比叡山の中腹を回りながら大津に抜ける街道である。

荒神口通の寺町通と河原町通りのちょうど中間あたりに護浄院はある。天台宗の寺院で、清三宝大荒神をご本尊としており、通称は清荒神、こうじんさんである。この地荒神町の名の由来はここにある。奈良時代末期、光仁天皇の開成皇子は摂津国勝尾山(勝尾寺)にこもり、三宝大荒神を感得し自らこの木像を刻んだ。歴代天皇は自ら、あるいは勅使が参詣したが、なるべく近くにということで南北朝時代に京都に勧請され、慶長年間、御所守護のため当地に遷座された。

七つの災難がたちまち消滅し、七つの福がたちまちやってきて、一切の苦悩から救われる「七難即滅」「七福即生」が説かれるきわめてありがたい神様なのだ。各家庭のかまどの上に祀られ、火を守る神様でもある。福徳恵美寿神も安置され、京都七福神巡り(恵比寿神)の札所であり、福禄寿もあることから京の七福神巡り(福禄寿)の札所にもなっている。

一旦車に戻り、寺町通を北に向かって走らせる。京都御苑の清和院御門前を越えたすぐ左手に梨木神社はある。祭神は三條実萬(さねつむ)、三條実美(さねとみ)父子である。父は安政の大獄、子は「七卿落ち」と幕府からの弾圧を受けながら、朝廷の再興、明治維新へとつないだ功績から、明治になって、旧三條家の東に建立された。萩の名所と知られ9月の第3または第4日曜に「萩まつり」が催され、参詣者たちが見事な萩を愛でるのだ。

境内には京都3名水「醒ヶ井、縣井、染井」の中で現存する唯一の染井の井戸があり、今でもこの名水を拝受することができる。境内には雨月物語の作者、上田秋成の歌碑「ふみよめば 絵をまきみれば かにかくに 昔の人のしのばるるかな」と湯川秀樹の歌碑「千年の昔の園も かくありし 木の下かげに乱れ咲く萩」がある。湯川秀樹は京極尋常小学校に通ったとある。現在京極小学校は200mほど北にある。湯川秀樹は学齢期梨木神社の傍に住んでいたに違いない、その縁で当社の「萩の会」の初代会長となり、この歌碑が立つことになったのだろう。

梨木神社の維持管理のための財源がないと境内南側の敷地をマンション業者に売ってしまった。景観破壊につながること甚だしいと、このマンション建設を由々しきことと思っていた私だが、実際建ったマンションを見ると、京都観光に便利だし住んでもいいかなと思ってしまう無定見な男でもあった。

寺町通を挟んだ向かいに廬山寺がある。廬山寺の「廬」という字は難しい。「虎かんむり」に「田」と「皿」を書いた「かまど」という意味の「盧」の上にさらに「まだれ」をかぶせるのだから。

廬山寺はその起源を比叡山延暦寺の中興の祖、元三大師・良源が船岡山南に創建した寺院に持つ。応仁の乱で焼けてしまったが、豊臣秀吉の都市改造により、現在の寺町通に移し替えられた。その後何度か火災にあったが、仙洞御所の一部を移築して現在の姿がある。ご本尊は阿弥陀如来であり両脇侍は勢至菩薩・観音菩薩である。

皇族との関係も深く、屏風や衝立、そして源氏貝合わせなどにそれをうかがい知ることができる。さらに紫式部の邸宅跡でもあり、紫式部はここで源氏物語を執筆したと考えられている。庭は源氏庭と称し、紫式部に因んで、紫の桔梗が咲き誇る、苔と石でできた庭である。

節分の鬼おどりで有名な追儺式「鬼の法楽」が行われる。踊り狂う赤鬼、青鬼、黒鬼が追儺師の法弓、そして蓬莱師、福娘によって撒かれる蓬莱豆及び福餅の威力に追われて鬼は門外へ逃げ去るという趣向だ。「鬼は外」の豆まきの原点と言われる儀式だ。

すぐ北隣にあるのが、清浄華院(しょうじょうけいん)である。知恩院、金戒光明寺、百万遍知恩寺と並んで、浄土宗京都四ヵ本山の一つであるが、伽藍はそう広くはない。清和天皇勅願により円仁が天台、真言などの4宗兼学道場として禁裏内に建立したのが始まりである。平安時代後期、法然が浄土宗を開いた。.後白河上皇はその教えに感動し、法然から受戒し、当寺を法然に下賜した。その時より浄土宗の念仏道場として歩んでいる。秀吉の寺町形成により、現在地に移ったが、皇室と密接な関係があるのは変わりない。一方、庶民の不動尊信仰、特に泣き不動尊信仰は江戸時代には隆盛を極め、浄土宗のお寺としては珍しく不動堂があり、不動講も結成されている。不動尊の御利益を表す「泣不動縁起」絵巻は重要文化財になっている。

次いですぐ北隣にあるのが法華宗陣門派の京都本山、本禅寺である。日蓮の随身仏と言われる釈迦如来立像を安置する立像堂や、豊臣秀頼が作らせ、後に徳川家康が大坂城攻めで陣鐘として使った鐘がある。大久保彦左衛門が奉納したもので、大久保彦左衛門の墓もある。岸派の創始、岸駒の墓もある。

寺町通をさらに北に行くと、湯川秀樹卒業の京極小学校が左手にある。東に入る小路を少し行くと「大久保利通旧邸址」の石碑がある。

寺町通をそのまま進むと左に日本料理の店、御所雲月がある。「21. 鷹峯と医学の源流」の中でも書いたように鷹峯・常照寺の隣にある日本料理「雲月」は我々庶民にはあまりにも敷居が高く、もし一度でもそこに行けば冥土の土産もできてしまうようなところだろうと想像している。そんな高級な店のリーゾナブルな姉妹店が御所雲月である。

ただなかなかの人気店らしく、当日の10時ころに予約を申し込んだことが2度ばかりあるが、いずれも予約は一杯ですと断られていた。それでもあきらめず、木曜日だったので何とか潜り込めるかと予約を入れると、うまい具合にあいていた。

ちょっと奮発して5000円コースを頼んだのだが、客室のしつらえ、もてなし方、そして次次出てくる料理は予想以上に素敵で、私の「雲月アレルギー」は心配しすぎの産物だと分かった。どの料理も創意工夫に満ちていて、へーえこんな方法もあるのかと楽しめた。湯葉や豆腐になりかけの豆乳鍋、鮎の風干し、五條天神社の宝船のような陶器に入った八寸、お持ち帰りのおにぎりにまでしてもらえた信楽焼の土鍋で炊いた鯛めしなど、今こう書いてもよだれが出てきそうなものばかりだった。

お持ち帰りに、もちろん小松こんぶもあるが、細巻の鯖寿司は上品で濃厚、祇園石段下いづ重の鯖寿司とも勝るとも劣らない味わいがある。これもゲットして、夕方飲めなかったアルコールを味わいながら、もう一度雲月の味を楽しもう。


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