D級京都観光案内 27

東山七条あたり

   

かつて京都の学生の頃、東山七条は京女のあるところという印象だった。京女とは京都女子大学の略称(俗称?)であり、どの略称もそうであるように微妙にいろいろな意味を持っていた。さらに国立京都博物館があり、三十三間堂と向かいに日赤血液センターがあり、研究室の先輩のために400mlの献血をした思い出がある。(ネットで見てみると実際の献血場所はほかのところに移っているみたいだが。)

東山七条あたりはこんな風だと思うのは京都に長年住んでいると陥る過ちであると、京都を離れて30年以上経つとやっと気が付くのだ。いつでも行けると思うとそこの重要さに気づかないのである、そこの素晴らしさに感激する意味を見いだせないのである。

東山七条には後白河法皇、平清盛、豊臣秀吉、徳川家康などの権力者たちの残像が色濃く残っている。彼らとのかかわりを探しにまず北東部に位置する妙法院を訪ねてみよう。東大路通はそれこそ何十回何百回と車で通ったものだが、立派な門とかあって立派そうな寺のようだけれど観光案内には特に何も書いてないしなあといつもいつもスルーしてしまっていた。東大路通に面しては妙法院への進入路がないこともスルーしてしまう要因だった。車で行く場合、東大路通を五条のほうから南行し、妙法院境内の一番北側にかかるところで東に入る道がある。そこを左折するとすぐ妙法寺境内への入り口が見え、境内に入るともうそこに10台ばかりの駐車するところがある。

立派な唐破風の大玄関があり寺務所はその中にあるが、妙法院で見るべきところはその横に屹立するといってもいい国宝の庫裏である。煙抜きのための34階にも相当する空間がとられ、ものすごく太い梁が入り口から仰ぎ見ることができる。春秋の特別拝観の折には中に入ることができる。

かつて秀吉が方広寺に大仏殿を建て、その建立後に先祖供養のために千人規模の各宗派の僧侶をこの妙法院に集め法要を行ったという。その僧侶たちの食事を賄うためにこれだけ巨大な庫裏が必要だったのだ。

妙法院は三千院、青蓮院とともに天台三門跡(曼殊院、毘沙門堂も加えると天台五箇室門跡)であり、近世には方広寺、三十三間堂、新日吉神宮もその管轄に置いていた。だからこんな立派な庫裏があり、大玄関があり、立派な唐門があるのだ。

特別拝観日には庫裏の内部も見学することができ更に書院の狩野光信の壁画、宝物殿ではポルトガル国印度副王信書(複製品)を見ることができる。豊臣秀吉にあてた外交文書で羊皮紙に書かれている。その内容はキリスト教弾圧政策を緩めてくれというものだ。本物は京都国立博物館に寄託されていてこちらは国宝である。

廊下伝いに宸殿にも入れて幕末期の七卿都落ちの屏風絵などが拝観できる。いったん外に出て(特別拝観日でなくても移動できる)境内をめぐると宸殿前に七卿都落ちの石碑が立っている。その間を通って東側の奥に行くと普賢堂があり、普賢菩薩像をガラス戸越しに見ることができる。

東山七条から妙法院の壁沿いに東に向かってなだらかに上っていく坂は女坂と呼ばれ、左には京都女子中・高校、右手やや奥には京都女子大学がありその女学生たちが闊歩する。かつては高田美和、藤山直美が、さらには夏井いつきさんも行き来したのだろう。

京都女子大学まで行く手前に新日吉(いまひえ)神宮がある。後白河上皇の御所が法住寺を含む形で営まれていたが(法住寺殿)、その鎮守として近江日吉山王社より勧請したのが始まりとされる。本殿前の両脇に金網に入れられ御幣を担いだ猿がいる。まあ狛猿ですね。なおついでに言うと東山七条を少し下がったところに新熊野神社があるがこれは後白河上皇が法住寺殿鎮守のために紀州の熊野権現を勧請したのに始まるとされる。

法住寺殿がどうなったかは後でまた訪れるとして、豊国廟への登頂を試みよう。登頂とはちょっと大げさなようだがどうも覚悟がいるらしい。かくいう私も未登頂なのだ。

豊国廟はその名の示す通り豊臣秀吉の墓所である。本人の遺言に従い東山三十六峰の一つ阿弥陀ヶ峰に葬られ、1年後山麓に秀吉を神格化する豊国神社が造られた。その後大坂冬の陣、夏の陣で豊臣家を滅ぼした徳川家康は豊国神社を破却し豊臣秀吉の残像をも消し去ったのである。戦国時代に終止符を打ち、安定した徳川家の支配を後世まで続けるためであった。

京都女子大前を東に行き、社殿を通り520段の階段を上っていく。中間に神門があり、更に頑張って登って標高196mの頂上が秀吉の墓である。そこからの京都市内の見晴らしはいいらしい。

女坂をまたいで東山七条の南に智積院はある。ここの駐車場は広い。真言宗智山派総本山である。東大路通の広い入り口から入り、まっすぐ行くと正面に金堂が建っている。本尊大日如来が安置されている。そこから向かって右手には明王殿(不動堂)がある。不動明王が祀られている。また金堂前に戻り玄関のほうに下がっていくと右手には梅園がある。その途中に拝観受付所があり、収蔵庫・名称庭園の拝観券を購入する。

収蔵庫には長谷川等伯・久蔵親子らの障壁画のみ展示されている。国宝「桜図」は息子久蔵25歳の時の渾身の作である。ところが久蔵は翌年26歳の若さで亡くなり、茫然自失となった等伯が再び自らを鼓舞して描いたものが国宝「楓図」であり、これらが並び展示されている。この他に『松に秋草図』(国宝)、『松に黄蜀葵図』(国宝)、『松に梅図』(重要文化財)、『松雪の図』(重要文化財)が収蔵されている。久蔵の死を悼む等伯の思いは西陣・本法寺の巨大涅槃図に表現されているといい、特別拝観日にはその原図を拝観することができる(通常展示は模写図)。

収蔵庫から北に行くと本堂があり、そこの庭園が利休好みといわれる名勝庭園である。国宝の障壁画がかつて飾られていた大書院はこの庭に面して建ち、大書院から見るこの庭園の景色はよくカレンダーなどの写真に使われるほどの素晴らしいものだ。中国の盧山をかたどって土地の高低を利用して築山を造り、その前面に池を掘るとともに、山の中腹や山裾に石組みを配している。大書院に座りしばし庭園を眺め時が過ぎるのを待つがいい。

次は三十三間堂だ。歩いても車でも智積院からはすぐそばだ。正式には蓮華王院といい、通称は本堂の母屋正面の柱間の数が33あることに由来する。長さ120mあり、木造建築では世界一の長さという。

後白河法皇の勅願を受け、平清盛が私財をなげうって後白河法皇の邸宅法住寺殿の一角に建てられた蓮華王院本堂を由来とする。

堂内に入ると10501001体の千手観音立像が立ち並び、中央には(運慶の息子の)湛慶作の丈六の千手観音坐像がある。湛慶82歳渾身の作である。1001体の千手観音立像は慶派をはじめ、院派、円派のすべての仏師集団が一丸となり国家規模で取り組んだ結果だと考えられている。堂内両側のひときわ高い雲座に乗る風神・雷神像がある。鎌倉時代の名作であり、俵屋宗達はこの像をもとにあの名作風神・雷神屏風図を描いたといわれる。さらに観音像の前列と中尊像の四方には二十八部衆像があり、慶派の作である。

ここに来て幾多の仏像をその迫力に圧倒されつつ眺めるのも楽しいが、外国人も含めた観光客がじっと眺めそして位置を変えながら何度も眺め、長い長い時間立ち去りがたく仏像たちに魅入られている様子は微笑ましくて傍から見ていて楽しいものだ。

出口当たりの土産物のうちお菓子部門は亀屋清永が担当であるが本店で売っている清浄歓喜団は残念ながら売られていない。

境内南端の築地塀は秀吉が方広寺を造営した時その境内に三十三間堂をも含んでいた時の名残で太閤塀とも称せられる本瓦葺の東西に延びる塀である。瓦には豊臣家の桐紋が見られる。

115日に近い日曜に行われる楊枝(やなぎ)のお加持は浄水に柳の枝を浸してその水を信者の頭上に振りかける秘儀で頭痛封じに効くといいう。慢性頭痛で苦しんだ後白河法皇がこの秘儀により平癒したという故事に由来するという。なおこの日は通し矢として知られる三十三間堂に沿った60mの射場で弓の引き初めが行われることでも有名である。

三十三間堂を出てその東の通りを南に下がり突き当たったところに法住寺はある。車で行く場合は東山七条の2つ南の信号、塩小路通を西に入ったところにある寺の駐車場に停めればよい。ただしこの通りは西行き一方通行であることに注意する。

法住寺は平安中期藤原為光の創建に始まる。その後いったん衰えたが後白河法皇が当時一帯に法住寺殿を造営し、邸内に新日吉神宮、新熊野神社を勧請建立し、前にも記したように平清盛に命じ三十三間堂も建てたのである。

創建当初よりご本尊は不動明王像であったが、平清盛の死の2年後、木曽義仲が法住寺殿を攻めた時(法住寺合戦)、後白河法皇は危うく命を落とすところを時の天台座主明雲が矢を受けて倒れ、法皇はかろうじて逃げることができたという。法皇はお不動様が明雲となってわが身代わりになって下さったと涙を流し、以来ご本尊は身代わり不動といわれるようになったという。

時代は下がり大石良雄はこの身代わり不動に祈願し大願成就を果たしたと伝えられ、四十七士木像がこの寺にはある。意外なところでつながりがあるものだ。1214日には義士会法要が営まれ、島原の太夫道中(大石良雄の遊郭通いに因んでか?)、舞妓の手前による茶会、討ち入りソバの接待が行われる。

三十三間堂で通し矢が行われる日、115日に近い日曜日には無病息災大根焚きがあり身代わり不動に祈願をこめた大根焚きがふるまわれる。これを食べて少し体は暖まったところだが、この界隈にはまだまだ見どころが残っている。それは次号に回すとしよう。


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