D級京都観光案内 28

東山七条あたり 2

   

 法住寺を出て北に戻り、すぐの右手に養源院はある。文禄3年豊臣秀吉の側室淀殿は父浅井長政の菩提を弔うために秀吉に頼み養源院を建てた。養源院は一度焼失してしまうが、淀殿の妹で徳川秀忠の妻となっていたお江の願いにより伏見城の遺構を移築して本堂が再建された。以来、徳川家の位牌所となっている。

 淀殿やお江の母であるお市の方の菩提も弔われたと思うが、最後は柴田勝家の妻として権力者秀吉、徳川家康に背いた形で亡くなったため、表立って位牌を置くことはためらわれたのだろうか。その代りかお市の方供養塔が院内に建っている。

 さて養源院本堂には関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城の戦いで城を死守しようとして討ち死にした徳川家康の譜代の家臣鳥居元忠たちを弔うために、血染めの床板を天井にした血天井がある。伏見城の血天井は他にも、正伝寺、源光庵、宝泉院、天球院そして興聖寺にもある。これは京都検定頻出問題である。

 この伏見城は3度建て替えられていて、数奇な運命をたどっている。まず始めは豊臣秀吉が聚楽第を甥の秀長に譲り、隠居所として建てた指月伏見城に始まる。ところがこれが慶長の大地震により倒壊し、東に木幡伏見城を建てることになる。建立1年後秀吉は城内で没し、秀吉の遺言で秀頼は伏見城から大坂城に移り、徳川家康が伏見城で政務をとることになる。関ヶ原の戦いの前、家康は伏見城の守護を鳥居元忠に任せて当地に出陣していたのである。

 関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は落城した伏見城を再建し(3代目)、征夷大将軍の宣下をここで受けた。秀忠、家光もこの伏見城で征夷大将軍の宣下を受けたが、二条城も完成していたこともあり伏見城は一国一城の原則から廃城となるのである。

 現在ある伏見桃山城は洛中洛外図を参考にして作られたコンクリート製の縮小模造物である。遊園地のシンボル的建物という程度の意味しか持っていない。

 養源院に戻ろう。ここでの見どころは俵屋宗達の襖絵「松図」12面、表の「波」と裏の「麒麟図」の2枚4面、表の「唐獅子図」と裏の「白象図」の2枚4面の杉戸絵である。白象図の力強くそして非写実的でユーモラスな筆さばきには圧倒される。宗達の出世作であり、後に建仁寺の「風神雷神図」へとその作風は結実していくのである。

 庭園は小堀遠州の作で、遠景に豊臣秀吉の眠る阿弥陀ヶ峰をもってきている。本堂鴬張りの廊下は左甚五郎の作と伝えられる。お江は当代きっての作庭家、大工、絵師を集めこの養源院を再建することにより、両親、自分たち三姉妹さらにそれに関わる人たちが戦国時代から江戸時代へ激しく動く時代の中を生きてきたその有様を思い起こし心に留めようとしたのかもしれない。

 七条通りを挟んで養源院や三十三間堂の向かいにあるのが京都国立博物館だ。西側の大和大路通に面した正門とその正面にある赤レンガ造りの宮廷調建築様式の本館はともに片山東熊(とうくま)の設計で、新館ができてからは明治古都館と呼ばれる。札売場と袖塀も含め重要文化財に指定されている。主に特別展に使用されるが現在は耐震工事中で残念ながら中には入れない。

 前庭に円形の噴水があり本館を背にしてロダンの「考える人」の像がある。教科書に載っている像のほんま物が目の前にあると驚いたのは、ここと六波羅蜜寺の空也像を見た時だ。

 噴水の北側には平常展示館である平成知新館がある。谷口吉生の設計で平成258月に竣工した。「日本的な空間構成を取り入れた直線を基本とする展示空間では、収蔵品を中心に京文化の神髄をゆっくり楽しんでいただけます」と説明文にはある。絵画・彫刻・書跡・建築・金工・刀剣・陶磁・漆工・染織・考古・歴史資料・法隆寺献納宝物の国宝を含む所蔵品が平常展示されているのだが、今年は特別展の会場になっているため、平常展示はごく限られた期間に縮小されている。

 今年は開館120年そして国宝制定120年ということもあり103日から1126日まで特別展「国宝」が開かれる。歴史と美を兼ね備えた国宝約200件を一堂に会し、わが国の悠久の歴史と美の精華を顕彰すると予告されている。なお521日までは「海北友松(かいほうゆうしょう)」展をやっている。

 国立博物館の北隣にあるのが豊国神社である。慶長3年豊臣秀吉が死去し、前号でも述べたように阿弥陀ヶ峰に葬られた。翌年阿弥陀ヶ峰の麓に秀吉を祀る30万坪といわれる広大な神社が建てられ、後陽成天皇から豊国大明神の神号を賜った。

 毎年の豊国祭には勅使が使わされたが7回忌の催された豊国大明神臨時祭は特に盛大に行われ、その様子が「豊国臨時祭礼図屏風」に描かれており、境内にある宝物館で見ることができる。

 豊国神社は大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると徳川家康になって廃祀されてしまう。が、明治天皇によって再興され、方広寺大仏跡地の現在地に社殿が造営されたのである。

 大きな石の鳥居をくぐって境内に入る。立派な唐門がある。伏見城の遺構を移したものだ。豊国大明神の扁額がかかっている。大徳寺唐門、西本願寺唐門(日暮門)とともに国宝三唐門といわれる。宝物館には秀吉の遺品や社宝が展示される。「豊国臨時祭礼図屏風」もそうだが秀吉の使った枕とか、抜けた歯まで展示される。歯槽膿漏にかかっており血液型はO型という。

 宝物館の裏にひっそりと立つ五輪塔があり「馬塚」といわれる。秀吉は豊国大明神と神として崇め祀られたが、徳川家により廃祀されたため、秀吉の魂は仏にならざるを得なかったのだ。その供養塔が馬塚に他ならない。徳川の代、秀吉を大っぴらに供養するというのも憚られたため塚と呼んだのだろう。

 豊国神社の北隣に方広寺はある。方広寺は豊臣氏の栄光と凋落を象徴的に表す寺である。秀吉の思想は極めて単純明快であった。強いものは偉い、大きいものほど偉い、美しいというのは豪華で華やかであることだ、偉いところを見せつければ家来どもは忠誠を誓い民衆はひれ伏すのだと。

 その20年前東大寺大仏殿は兵火によって焼け落ちてしまっていた「天下人」になった秀吉は東大寺の大仏を再建するのではなく、より大きな大仏と仏殿を東山の地に建立することで豊臣氏の栄光を確固たるものにしようと考えたのだろう。正面90m、高さ50mに達する堅牢な大仏殿が建立された。大仏は早期の完成を目指し金銅仏の鋳造ではなく高さ20mに及ぶ木造仏に漆喰を塗ったものだった。

 さてここでちょっと横道に。京都には正面通というのがあるが、これは大仏殿の正面に続く道というのがその名の由来である。地図で正面通を西にどんどん行ってみると山陰本線の手前当たりに角屋もてなしの文化美術館がある。すなわちこの辺りは花街島原である。秀吉と島原は浅からぬ因縁がある。秀吉の許可により二条柳馬場に花街がオープンした。秀吉の死後慶長7年に六条三筋町に移転させられ、さらに寛永18年に現在地に移転させられた。この突然の移転騒ぎがまさに先年終わったばかりの島原の乱の騒ぎに似ていたため島原と呼ばれるようになったという。

 秀吉は方広寺の正面に花街を作ろうとしたのではなかったのだがまあ色好みの秀吉らしい先見の明があったのだろうか。秀吉は自分の墓の予定地阿弥陀ヶ峰、方広寺、西本願寺を正面通という一直線で結びたかったらしい。ところが家康は意地悪して、方広寺と西本願寺の間に東本願寺を建てさせたのだ。

 閑話休題。方広寺大仏殿と大仏が落成し妙法寺の国宝庫裏の存在でもわかるように盛大な法要が営まれたその翌年慶長の伏見大地震が襲った。秀吉の居た伏見城も、漆喰造りの大仏も倒壊してしまった。皮肉にも大仏殿はそのまま残ったが。翌々年秀吉は死去する。

 秀吉の遺志を継ぎ豊臣秀頼は大仏の再建に取り掛かる。今度は金銅仏作ろうとしたが、鋳造中の大仏が融解し、大仏殿も炎上してしまう。さらに8年後大仏と大仏殿の再建が図られる。このとき角倉了以が高瀬川の開削をし、資材運搬に大きな貢献をしている。

 慶長17年 銅製の大仏と大仏殿が完成。慶長19年梵鐘もできいよいよ大仏の開眼供養が行われるとなったその時にあの有名な銘文事件が起こる。梵鐘の銘文の中の「国家安康」「君臣豊楽」が「家康をわざと分断し、豊臣を君主とするものだ」と家康からいちゃもんをつけられ、開眼供養中止どころか、大坂冬の陣へと発展し、ついには豊臣家の滅亡につながったのだ。

 この銅製大仏はまたも地震で壊れ、新たに作られた木製大仏も落雷にあい大仏殿もろとも焼失してしまった。東大寺大仏より大きな大仏を作るという秀吉の夢はここに来て完全に潰えてしまったのだ。

 大仏殿跡地も豊国神社境内などになってしまい今ある方広寺境内は本堂と例の鐘楼を残すのみで大仏への妄想を膨らませて拝観すると肩透かしを食らってしまう。でも例の梵鐘は迫力がある。「国家安康」「君臣豊楽」の部分がはっきりわかるように白い四角で囲まれている。歴史の生き証人という趣だ。鐘楼の天井画も鮮やかに残っている。

 方広寺の東、豊国神社の裏に「大仏殿跡緑地公園」があり大仏殿の巨大な礎石を見ることができる。ちょっとだけ秀吉の夢を追体験できるかもしれない。

 もう一度西に戻り豊国神社の前から始まる正面通りをほんの少し行った左側(南側)にこんもりとした盛り土がありてっぺんには五輪塔がある耳塚(鼻塚)である。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の慶長の役で戦功の証として朝鮮兵民男女の鼻や耳を削ぎ(腐敗を防ぐために塩漬けにして)持ち帰ったものをここに葬り弔ったものである。ところで秀吉当人がすぐ東の豊国神社境内に馬塚として弔われることを予想していただろうか。

 周囲の石柵は大正4年歌舞伎役者や著名芸能人たちの寄付によって建立されたもので、中村鴈治郎、片岡仁左衛門、松本幸四郎などが名を連ねている。京都市制作の案内板の最後は、「耳塚は戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、いまに伝えている。」で結ばれている。

中央の祭壇には色鮮やかな花が活けられている。お世話する人がいるに違いない。街路にあるやや満開を過ぎた桜ははらはらと耳塚の上に花びらを散らす415日だった。金日成主席生誕105周年を迎え北朝鮮の動きが気になるその日にここを訪れているのも何かの暗合だろうかと思ってしまう私だった。

耳塚の向かいに甘春堂東店がある。七条通りには本店もある。この店の一番の売りは「茶寿器」というお菓子でできたお茶碗で抹茶を点ててそのあと食べられるというなんともすぐれものである。でも私の好きなのは門前菓子「大仏餅」である。方広寺の大仏さんを拝観しに来た人たちがありがたく食べた門前菓子に違いない。焼餅風の門前菓子、それが私の一番の好物なのだ。35年ほど前、学会で福岡に行ったとき筥崎宮で食べた焼餅2つ、あの旨さをもう一度とうまい焼餅を探す旅は続いている。今日大仏餅を食べたが、私の旅はまだ続きそうだ。


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