D級京都観光案内 58

明智光秀を探して 3 本能寺

本能寺は寺町御池の角、京都市役所の前にある。ただし明智光秀が織田信長を討った本能寺はこの場所ではない。南西に1.2㎞ほど離れた油小路通、西洞院通、六角通、蛸薬師通で囲まれた広大な敷地内にあった。周囲は幅2から4m、深さ1mの堀や、高さ0.8mの石垣、土居などが造られ、まるで城構えと言っていいほどだった。本能寺の変のあとすぐ再建されたが、豊臣秀吉の寺町形成の施策により現在地に移っている。

元の本能寺のところには本能寺跡の石碑が今に残るだけだ。一つは蛸薬師通と小川通の角に「この附近 本能寺跡」の簡単なもの、もう一つは油小路通を蛸薬師通から少し下がった東側に本能寺の由来を記した碑文もあるものだ。碑文には本能寺が度々火災に遭遇し、「能」の文字中に「ヒヒ」と火が重なることを忌み、「去」の字に置き換えて書くのが習わしであると記されている。

なおそのすぐそばには「本能校跡」という大理石の立派な石碑がある。本能寺ではなく本能小学校跡を示すものだ。明治2年下京二番組小学校として開校し、後に本能小学校と改称されたが中心部の過疎化・職住分離が進み、かつて706名を数えた児童数も平成53月には85名にまで減り、やむなく閉校とある。ここにも京都の中心地、洛中の町の推移を垣間見ることができる。

さあ現在の本能寺を訪ねよう。御池通からでも入れるが、山門は寺町通に面している。本能寺では総門と呼ばれる。大きな寺名の石標にも総門に掲げられた寺名にも「能」の字のつくりが「ヒヒ」ではなく「去」になっていることを確認しよう。一方京都市の立てた駒札には常用漢字通り「本能寺」となっている。「織田信長公御廟所」の石碑も立ち、辻説法をしている日蓮上人像も立っている。

総門から中に入るとこぢんまりとした境内であることに驚かされる。しかも建物が鉄筋造りであるものも多いのちょっとがっかりする。右手にあるのが、その鉄筋造りの大寶殿宝物館である。中には本能寺あたりの古地図、織田信長ゆかりの品々、本能寺の変前夜に鳴いたと言い伝わる銅製香炉「三足の蛙」などが展示される。森蘭丸の刀もある。三蹟の一人、藤原行成筆・国宝「本能寺切」は京都国立博物館に寄託されていてここには複製品しかない。

本堂の左にそびえるのはホテル本能寺、修学旅行生の宿として有名だ。大寶殿から本堂に向かう右手に7軒の塔頭が並んでいる。本堂と塔頭の間を河原町通側に行くと織田信長公廟がある。織田信長の三男・織田信孝により建立された信長の供養塔で、石塔の下には信長が使用していた刀が納められている。

ところで信長はなぜ本能寺を京の定宿にしていたのだろう。表向きの理由として当寺の住職・日承上人に帰依していたのだからと考えられる。しかし信長の宗教教団とのかかわり方を見ると、信長の戦略家としての凄さが垣間見られる。よく知られているようにキリスト教に寛容で南蛮文化を取り入れる一方、比叡山焼き討ちにみる天台宗攻撃、一向宗(浄土真宗)との長期間にわたる戦闘と武力を有する仏教教団に対しては苛烈な方策に出ている。

鎌倉時代の新宗教である法華宗(日蓮宗)は室町時代には「皆法華(かいぼっけ)」と言われるまで洛中では隆盛を極めたが、1538年比叡山の僧兵により法華宗本山はすべて焼き討ちされた(天文法華の乱)。1545年再興された大伽藍こそ織田信長が襲撃された本能寺である。比叡山に焼き討ちされた本能寺に比叡山を焼き討ちした信長が泊まるのはごく当たり前のようである。でもそう単純でもないようだ

「安土宗論」という事件があった。百科事典マイペディアから引用してみよう。「1579年,織田信長が安土で行わせた浄土・法華両宗間の法論。結果は浄土側の勝利に終わったが,かねてから京都や堺の町衆に大きな勢力をもっていた法華宗弾圧を意図していた信長が,当初から計画的に仕組んだものとみられる。」織田信長の法華宗とのかかわりは硬軟取り混ぜた勝ち組戦国武将ならではのものみたいだ。

さて本能寺総門の向かいには寺町通が古書店街であった頃の名残のような京町家の古びた本屋さんがある。中二階の白壁の虫籠窓があり、店先のバッタリ床几には古書籍が平積みされ、店内にも古書籍が積まれている。店の奥には机があって、そこに主人が座っているのだろう。中を覗きたいがじろっと一瞥されると腰が引けそうでスルーする。

その隣に京都鳩居堂本店がある。銀座鳩居堂も有名だが、なんといっても始まりはここである。平家物語で有名な熊谷直実の20代末裔の熊谷直心がこの地に薬種商をひらいたのが始まりである。それから薫香線香も手掛け、書画用文具も扱いその専門店となっていったのである。いろいろな筆や硯、そしていろんな用紙を見るとつい書画をしたくなるものである。ただどれもきわめて高価だ、結局見るだけの目の保養に終わってしまう。現在改修工事中で、向かいの仮店舗で営業している。2020年には新しい社屋に生まれ変わるという。

もう少し南に下がったところに天性寺の山門がある。浄土宗の寺だが、門をくぐると案外広い境内で、堂々とした本堂もある。観光寺院ではないので、御朱印授与の案内などなくてぐるっと歩いて回るだけで済ます。騒々しい寺町通と河原町通りの間にあることも忘れさせる静かさがある。

さらに下がって三条通に矢田寺はある。小さいけれど赤い提灯が一杯ぶら下がっていてえらく目立つ寺である。大和郡山にある矢田寺の別院で、開山は満慶上人(あるいは満米上人)と言われる。満慶は冥土に行き地獄の火の中で苦しむ罪人を救う僧侶、実は地蔵菩薩、を見て感銘し彫刻したと言われる。代受苦地蔵(だいじゅくじぞう)と称され。当院の御本尊である。このあたりの由緒は当院所蔵の「矢田地蔵縁起」に記されている。

地獄で地蔵を見た小野篁の六道珍皇寺がお精霊の迎え鐘に対し当院では816日に送り鐘が撞かれる。1223日にはかぼちゃ供養が執り行われる。境内に大きなかぼちゃが飾られ、1年の無病息災を祈願する。冬至の日にかぼちゃを食べると中風除けや諸病退散になると言われ、参拝者にかぼちゃを焚いたものが接待される。もちろん待つ時間がなければお金を出せばかぼちゃを焚いたのを分けてもらえる。

ここで寺町通を北に戻り、本能寺総門前を通り越してどんどん北に上がり、今出川通も越えて阿弥陀寺前町にある阿弥陀寺に行こう。山門前には織田信長公本廟とある。開山でもある清玉上人は本能寺の変で自刃した織田信長の骨灰をその当日にひそかに持ち帰り当寺に祀ったという。息子・織田信忠は二条御所で自刃したがその遺骨も清玉上人は当寺に持ち帰ったという。さらに翌日清玉上人は明智光秀の陣を訪れ、本能寺で討ち死にした者と織田信忠の供養と100名以上の遺体の収容の許可を得て葬り位牌を作ったという。

本当に信長の遺骨を収容できたのか、この言い伝えには疑義はある。ただ後日豊臣秀吉が信長親子の一周忌法要を取り仕切るため遺骨を渡せと要求したことに対し清玉上人は断固拒否している。秀吉の魂胆が主君の追善ではなく後継者争いで有利になろうという「人の道ではない」というのがその理由である。

清玉上人がここまで織田信長に尽くそうとしたかというのは、坂本の開山した小さな阿弥陀寺が、織田信長の帰依を受け、信長入洛に際して蓮台野に八町四方の広大な敷地を与えられ、さらには塔頭11寺院を持つ大寺院にまで発展させてもらったからである。

だが秀吉の怒りを買って、都市改造政策により当地に移転されしかも寺地は1/8まで縮小されたのである。秀吉にかかれば宗教より政治なのである。

正面に本堂がある。普段は非公開だが62日の信長忌には公開される。本尊の阿弥陀如来像、織田信長・信忠親子の木造などが安置されている。本堂の左を、渡り廊下の下をくぐって進むと墓地に出る。正面に信長・信忠親子の墓がある。その奥には本能寺の変で討ち死にした家臣120名の墓が並ぶ。信長の墓の左方には森蘭丸三兄弟の墓がある。右方の一番奥辺りにひときわ大きな墓がある。開山・清玉上人の墓である。江戸時代の儒学者で自宅に弘道館をひらいた皆川淇園の墓もある。

山門前から寺と反対側に向かう道を少し行くと和菓子屋がある。大黒屋鎌餅本舗である。中に餡が入り鎌に似た形状の餅である。京の七口の一つ、鞍馬口の茶店で売られていたのがその由来。豊作を祈るための菓子でもある。

京都検定にはあまり出題されていないが阿弥陀寺の南隣の寺・十念寺は面白い寺である。門前の「十念寺」の石標の横に、「曲直瀬道三墓所」の石碑も立っている。戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍し日本医学中興の祖として「医聖」と言われる曲直瀬道三の墓がこの寺にあるのだ。

観光寺院ではないからと一般参拝は認められていない。山門横のくぐり戸にインターホンがついていて、御用の方は鳴らしてくださいとある。「曲直瀬道三のお墓にお参りさせてほしい」と来意を告げる。インターホンからは明るい声で「どうぞ扉を開けてお入りください」と言ってもらえる。さらに「お墓はどこか分かりますか。私が案内しますからお待ちください。」といそいそと迎えていただけた。なるほど墓地の中を案内していただいてそれだと分かる所に曲直瀬道三の墓はあった。

私の学んできた医学は道三先生の功績に直接的恩恵を受けるものではない。しかし医学を実証的なものとすることに大きな功績を残したこの医聖の存在は、やはりその墓前で自然と首を垂れ、手を合わせてしまうほど大きなものなのだ。

お墓自体は分かりにくかったけれど、山門を入り墓地に続く道脇に立派な鞍馬石でできた「初代曲直瀬道三顕彰碑」が建立されている。1990年、日本東洋医学会、日本医史学会、東亜医学協会によるものだ。

お墓でいうと、後陽成天皇の第8皇女 高雲院宮のお墓、室町幕府6代将軍 足利義教のお墓がある。当寺は足利義教が後亀山天皇の皇子、真阿上人(しんなしょうにん)に帰依し、誓願寺内に宝樹院を建てたことに始まり、秀吉の都市改造政策により当地に移った。

最初に面白い寺といったのは、本堂が仏教寺院の建築様式でないのである。ビザンティン様式を取入れた集中式ドームの建物で、2003年建築家でもある一心寺(大阪)の住職の設計により建立される。とにかく一度見物に行かれるのがいい。拝観できなかったが、本尊は丈六の阿弥陀如来坐像であり、紙本着色 仏鬼軍絵巻(ぶっきぐんえまき)一巻(重要文化財)は仏菩薩と地獄の冥官の合戦が描かれるというこれまた面白そうなもので、一休の作と伝わる。襖絵「雲龍図」は奇矯な画風で円山応挙に対抗した江戸時代後期の京都出身の絵師曽我蕭白の筆になる。

寺町通をもう少し南に下がると、洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ、本満寺がある。妙見堂もあり「出町の妙見さん」とも称される。墓地には悲運の名将とされる山中鹿之助の墓もある。

明智光秀からは少し離れてしまった。明智光秀を探す旅はまだまだ続きそうである。


「エッセイ」に戻る

  田中精神科医オフィスの表紙へ