絶望の中に一筋の光を |
「初めての出会いが、そのまま長く長く続いて、ついには死ぬまでのお付き合いということがよくあるんですよ、精神科病院では。」精神科病院に勤め始めた頃、先輩医師がこう教えてくれた。出会いとはもちろん医師と患者の出会いである。 確かに精神科病院にやってくる人々は重度であるか慢性的であるかだった。それゆえに患者さんたちの中には、診療所や他の(一般)病院から「手に負えないと」見放されたと感じてやってきた人もおり、この人たちといい治療関係が結ばれた時、長く戦い続ける戦友の様な二人になるのだった。ただこの戦いはなかなか手強いものだった。統合失調症の慢性期の人たち、あるいは統合失調症や躁うつ病で再燃と寛解を繰り返す人たちとの付き合いの中で、どうすることが治療者として満足していいことなのか、治療者の自己満足に終わるものでないか、なかなか得心の行くものではなかった。 しかし精神科病院の外来にも驚くほど簡単に治療に反応してよくなる人もいた。保健所の心の健康相談にやってくる人の中にも、病院かクリニックにかかればすぐによくなる人も少なくなかった。軽い不安障害の人たちや反応性のうつ状態の人たちだ。その人たちは精神科病院は正直敷居が高かったと言い、あるいはこんな時はどこに行けばいいか分からなかったと言っていた。精神科医療の恩恵を受けられない人たちが地域にはまだ多くいそうだということがクリニックの開業に踏み切らせた要因の一つだ。ただ本当に患者さんがやってきて経営が成り立つものなのか?とんと自信はなかったけれど、まあなんとかなるだろうと楽観的な見通しを持って始めてしまった。 開業するに当たりクリニックのコンセプトを「曇りのち晴れ」「一寸先は光」とした。この先験的ともいえる楽観主義こそ最高の治癒力を提供してくれると考えたからである。 病院時代からの長いお付き合いがまだまだ続いている患者さんもいる。しかしながら私の前を一陣の風のように通り過ぎていく人たちも極めて多いのである。開院当初は、1,2回来ただけでもう来なくなった患者さんがいると物凄く不安になった。うまく治療できなかったため、どこかに行ってしまったのだろうと。ところが後になって当人に出会い、あの時は有難うございましたすぐよくなりましたなどとお礼を言われることも出てきたのだ。私の前から姿を消したのは治療がうまく行ったためと喜んでいいんだと、開業したことに対して少しずつ自信を持てるようになって来た。このごろ患者さんから「先生は次々に人の悩みを聞かされ続けてよくしんどくなりませんね?どんなストレス解消をしているんですか?」と半ば同情を交えて驚いてもらっている。「ここに来てよかったですよ。」行って通り過ぎていく人たちの存在こそが孤独な精神科開業医のメンタルヘルスになっている。 その対極の事象もある。自殺という形で私の目の前から消えていく人々がいる。私の目の前から消えた後、自殺されましたよという報告を受けることもある。 病院勤め8年間で私が主治医としてかかわった患者さんは入院・外来合わせて300名くらいと思われるがその中で自殺した患者さんは3名だったと記憶している。開業して7年半、診てきた患者さんは4,400名ほどだが、自殺した患者数は4,50名に及ぶと思われる。割合から言えば100人に1人ぐらいということであまり変わらないようであるが、実感としては増えてしまっているあるいはなぜもっと減らせないのかというところにある。 自殺に至った症例は、1.危険性を感じて防ごうと一生懸命対応したが既遂されたケース、2.危険性を感じて対応しようとしたが有効な対応がとれず通院継続してもらえなかったり、他医に転医して既遂されたケース、3.危険性をほとんど感じていなくて既遂されたケース、に分類される。 クリニックの近くには国立大学が2つある。したがって親元を離れ一人暮らしの大学生や大学院生も多く当院に来てくれている。彼らの中で希死念慮を持っていたり自殺企図歴のあるものも多い。20歳の麻子もそんな一人だった。夏というのにショールを羽織ってきた彼女は、そのショールの下には100ヶ所はあろうかという切創の痕だらけだった。クリニックに通院するようになっても不安感・憂鬱感は一進一退で、切創の数は増えていった。幻聴がおこりマンションの窓から飛び降りそうになったという事態になり、それまで一生懸命支えてくれた別の大学に通う彼氏の努力の限界を超えてきた。精神科病院の入院が唯一麻子を守る方法だと考えた私は九州の両親に来てもらい入院の必要性を納得してもらって病院を紹介した。麻子と両親は病院に行き,病棟を見学し、自殺するようなことはしないと新しい主治医に約束し、1週間後の診察で入院の要否を判断してもらうことになった。3日後、警察からの電話で麻子がビルから飛び降り自殺を図ったことを知った。病院の主治医の判断が甘いと責める気持ちはさらさらない。主治医と向かう麻子はきっとしゃきっとしていたのだろう。自殺を防ぐのが本当に難しい人だったのだ。ただ精神科病院への入院がもう少し気楽に出来る状況になればという思いは残っている。 ケース3の場合は精神科医としての能力のなさを反省し、亡くなった人に対して申し訳ない気持ちになり、明日からの診療に自信をなくしそうになる。死にたいという患者さんのサインを軽視するか見落としていたからである。絹江は50歳の主婦。数年来かかっていた診療所から、自宅の近くだからという理由で転医してきた。夫の自営の仕事がうまく行かず、夫が借金を抱え、家族が離れ離れに住んでいるという状況だった。経済的問題が一番の悩みのようだけれど、当人の表情や訴えはそれほど重症とも思えず、実際前医の薬でおおむね安定しているようだった。それから1年余り、絹江を取り巻く状況はそれほど変わるわけでもなく、訴えも少しはましですとなったりやっぱりしんどいですとなったりし、薬も時に応じて少し変えていた。さて運命のその時も少し憂鬱ですという訴えからアナフラニールを少し追加した。 1週間後絹江から電話がかかってきた。今美容室に行ってきたが美容師からえらく髪の毛が薄くなっているといわれたが今度の薬がそんなことをさせるのじゃないですかと。その可能性は少ないと思うけれど気になるなら次来られたときに薬は変えましょうと答えて十分絹江を安心させることが出来たと思っていた。しかしやってきたのは彼女本人ではなく、警察からの彼女がビルから飛び降り自殺をしたという知らせだった。髪の毛が薄くなったことが絹江の絶望感を決定的にしたと読みきれなかったのだ。 良吉は75歳、半年前に妻を亡くし息子と二人暮しだった。不眠とふらつきが主訴だったが、憂鬱感もあると訴え、しばらくしてからは味覚障害を訴えるようになった。味が全然分からないというものだがそれまでに大学病院や総合病院の耳鼻科を訪れ、どうしようもないと宣告されてきたという。スルピリドを使うなどしながら味覚障害の改善を図ったがうまく行かなかった。「味が分からんというのは生きていてもまったく意味がありまへんなあ。」笑いながら言う良吉だったが、私はその笑いの後ろに隠された文字通りの意味を軽くしか考えていなかった。こんなやり取りが1年間続き、そして別に変わりないといつもの薬を貰って帰ることを何回か繰り返した。息子さんがやってきて、「どうも父の様子が変だ。『妻の3回忌を済ませたからもう思い残すことはない。味も分からないのに生きていても仕方ない。』と妙に悟ったことのように言う。自殺でもする気じゃないかと心配です。」と訴えた。私はあわててインターネットで味覚障害について良吉の訴えに耳を傾けてくれそうな耳鼻科開業医を探し当て、翌日良吉が来たらそこに紹介する旨伝えてくれるよう息子さんに頼んだ。残念ながらやってきたのは良吉ではなく警察からの良吉が縊死したという知らせだった。 研修医時代、先輩医師からイギリスの何とかという医師の提唱した自殺危険性の式というのを教えてもらった。 自殺危険性=f (苦痛/希望)×衝動性 f は単調増加関数、民族、性などのパラメータで変わる ここでわれわれは苦痛の大きさについては当然考慮がおよぶが、希望の少なさが0に近づく時、自殺危険性が限りなく増加することについても常に考えておかなければいけないと教えられた。 自殺危険性について私が甘く見ていて既遂された後であっと驚き後悔する症例はすべてその人の苦痛がそれほどでもないということについ安心してしまい、その人の絶望感に思い至らなかったといえる。 でも絶望感をもつ人たちに希望を持ってもらう方法を私は持っているのか?私にはクリニックのコンセプト「一寸先は光」をそのつどそのつど提示することしか今は出来ていない。 |
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