D級京都観光案内 56

一条通

平安京の最北辺の通りは大内裏のすぐ北側を走る一条大路である。大内裏のすぐ南側を通るのが二条大路であり、南に三条大路、四条大路、・・・九条大路と続く。

大内裏の中央から南北に走る朱雀大路を対称軸として、西の右京、東の左京と対称的な都建設が始まったのだが、1世紀もしないうちに、湿地帯だった右京は衰微し、人はどんどん左京側に移り住むこととなった。左京では一条大路を越えてどんどん北に町は発展することになり、それに対応して、新しい大路、小路ができることになる。例えば北小路はそうしてできた小路で、現在は今出川通になっている。

大内裏は消失し里内裏として土御門東洞院に移転し、現在の御所の形になっている。応仁の乱による荒廃、秀吉による都市改造、御所のある内裏の拡大などで、一条大路もその姿を変え、何よりも道幅は狭いものになったが、一条通として引き継がれている。

平安京のその名が示すように、都の中には怨霊、悪鬼さらには疫病などが入り込まないことがこい願われた。これら悪霊は鬼門すなわち北東の方向から入ってくると信じられていたから、都の北辺の一条大路は魔界と平安の地のせめぎあいの境界線だったのだ。

北野天満宮門前から南東に走る中立売通(千本通り以東では東西の通り)から西大路通にかけての一条通に大将軍商店街はある。ここは一条妖怪ストリートと銘打ち妖怪の通り道だったことを前面に出して活性化を図るユニークな商店街である。

妖怪や鬼どもが夜な夜な百体も列をなして行進する百鬼夜行(ひゃっきやぎょう、ひゃっきやこう)伝説は今昔物語などに古くから取り上げられ、その舞台には都の最北辺の一条通がふさわしかったのである。

商店街中央あたり「お食事処いのうえ」から少し南に下がると百鬼夜行資料館がある。「百鬼夜行絵図」の模写が展示されている。おどろおどろしい妖怪たちかと思いきや結構ユーモラスな妖怪たちだ。付喪神(つくもがみ)と言われ都で100年使われたもろもろの道具は大みそかに打ち捨てられるが、それが妖怪としてよみがえったものという。

商店街の各店の前には各店お気に入りの妖怪が1ないし2体置かれている。初めてこの通りを通った時、妖怪ストリートで売り出しているとは知らなかったものだから、なんと奇妙な商店街で訳が分からないなと正直思ったものだ。

10月第3土曜日には一大イベントである、妖怪仮装行列・一条百鬼夜行がにぎやかに行われる。同時に妖怪アートフリマ・モノノケ市も行われる。妖怪藝術団体 百妖箱という嵯峨美術大学の妖怪好きの学生を中心に構成された団体が店頭の妖怪づくりも含めてイベントを仕切っているようだ。ネットにアップされている動画を見るとなかなか面白そうで、見に行く値打ちがありそうだ。

「お食事処いのうえ」の向かいに位置する「京つけもの きたの」の京漬物は、完全手づくりにこだわり、京都・洛北の自家菜園の採れたて京野菜を使っているというのが売りで、知る人ぞ知る漬物屋さんである。

その隣にある山田フライ専門店は揚げたてのビーフコロッケが自慢だが、各種フライも豊富で、妖怪コロッケ(竹墨で真っ黒な衣に抹茶を練り込んだ具で見た目と違ってヘルシー)、これまた真っ黒な妖怪バーガーも売っている。

中むら餅店は餅はもちろん赤飯も売っている。ミナト製麺所は完全無添加の手作りうどん麺を売ってくれるが、あまり商売気がなさそうである。「あん」という素朴の看板が出ている中村製餡所は私にとって気になる店である。鮮魚・活魚・天然魚を中心に取り扱う竹内鮮魚店で、ウナギのかば焼きを買い、ハモを骨切してもらって家で鱧鍋をすると夏の疲れは吹っ飛ぶだろう。

商店街ほぼ中央の北側に大将軍八神社はある。最初に触れたように平安京には怨霊・悪鬼から守る防衛システムが幾重にも張られている。都の東西南北に大将軍神社を置いたのもこの一つである。西の大将軍社がこの大将軍八神社である。なお北を守るのは西賀茂大将軍神社、東は三条の大将軍神社、南は藤森神社境内にある大将軍社である。4つの大将軍社の中でこの大将軍八神社が一番有名だったのだろう。だから大将軍をこのあたりの地名に残しているようだ。他の大将軍社は御所から相当の距離があるが、当社は大内裏の西北角、陰陽道でいう天門という重要な位置に建てられている。大将軍社の中でも別格だったのだろう。

創建当初は陰陽道の星神である大将軍神を祀っていた。宵の明星・金星を神格化したもので、方位の神の中では最強で、3年ごとに居を変えるがその方角で事を起こすことは大凶とされた。

北辰妙見信仰(北極星、北斗七星の神格化)、暦神などと習合し、八方位すべてに神が宿るとして、大将軍八神宮と呼ばれるようになった。ところが明治時代になり神仏分離令により日本古来の神にしなければならず素戔嗚尊及びその御子合わせて八神を暦神と習合させ、大将軍八神社となったのである。

なぜ素戔嗚尊が主神になったかといえば、当社はかつて八坂神社の管轄下にあり、八坂神社の主神は素戔嗚尊であり、両神の神格が似ているというところから習合させたと思われる。ややこしいけれどちょっとご都合主義のような匂いがしないでもないなあ。

当社の特筆すべき文化財は80体の神像である。平安時代に造られ、木製である。収蔵庫である方徳殿内に立体曼陀羅のように安置されている。圧巻である。安倍晴明の子孫が伝えてきた貴重な陰陽道・古天文暦道の資料も多数ある。江戸時代初期、幕府天文方・渋川春海の制作した天球儀も所蔵展示される。5月と11月に5日間ずつ特別公開されるが、この日以外でも予約すれば拝観できる。

渋川春海は幕府碁方・二世安井算哲その人であり、一世安井算哲の長子として生まれ、父の死去後幕府碁方を務める一方、数学、暦学、天文学を学び、ついには日本初の国産の暦・貞享暦、日本初の地球儀、天球儀も作っている。

10月第3日曜には大将軍祭が催され、神輿の巡行もある。前日の宵宮には無病息災の願いが込められた大蛇餅が氏子に授与される。一条通の妖怪イベントがある日でもある。

一条通を西に行き天神川越えて西大路通交差点のすぐ手前南側に椿寺の通称で知られる地蔵院がある。行基が摂津国昆陽池のほとりに開創したという古い由緒を持つ寺で行基が刻んだ地蔵菩薩を本尊としたことに寺名は由来する。のちに何度か移転し、最後に豊臣秀吉の命で当地に来ている。浄土宗に改め、本尊は五劫思惟阿弥陀如来である。

五劫思惟阿弥陀如来像は珍しく、私は金戒光明寺の墓地内にある石像しか見たことがない。五劫という長い間思惟に耽っていたため羅髪はアフロヘアのような阿弥陀様で若い女性に人気があるという。ここの阿弥陀如来像は「お多福阿弥陀」と言われるが、正月3が日だけ拝観できる。

本堂の前にある五色八重散椿は、加藤清正が文禄の役の時朝鮮から持ち帰り、豊臣秀吉に献上したもので、のちに秀吉が当寺に寄進したものの二代目と伝えられる。一木で濃淡いろいろな色に咲き分け、花びらが一片ずつ散るのが美しい。

赤穂浪士を支援したことで知られる天野屋利兵衛の墓や与謝蕪村の師の早野(夜半亭)巴人(はじん)の墓もある。

地蔵堂には元の本尊の地蔵菩薩が安置されている。観音堂には厨子の中に十一面観音立像が祀られている。

西大路通を越えてどんどん西に進むと狭い道幅になったりするが、何か立ち寄りたくなる面白そうな店もいろいろある。妙心寺の北総門の前にやってくるが、ここで北西に向かう広い道を行くと、真言宗御室派の総本山、仁和寺にたどりつく。

一条通を逆に東に行き、堀川通のすぐ東の堀川にかかる橋が一条戻橋である。平安時代中期文章博士三善清行が亡くなり、熊野で修行中の息子浄蔵貴所が知らせを聞き都に戻ってきたときにこの橋を渡る三善清行の葬送の列に追いつき、棺にすがっておいおい泣くと三善清行一時的によみがえり浄蔵貴所と言葉を交わしたという怪奇譚が伝わる。戻橋の名前はこの話に由来する。

なお三善清行は菅原道真左遷の黒幕かもといわれる。浄蔵貴所は法力の強い人で、父を蘇らせたのも、八坂の塔で知られる法観寺の五重塔が傾いたのを元に戻したのもその念力によるといわれる。

三善清行に限らず、葬儀の列は洛中からこの橋を渡り西に広がる葬送の地に運ばれたという。

嫁いだ先から戻ってこないようにと、花嫁や婚礼の荷物は戻橋を決して通ってはいけないとされた。逆に出征する兵士は戻ってこられるようにとこの橋を渡りに来たという。

豊臣秀吉にとっても地獄と結びつく場所だったようだ。切腹した千利休の生首を、島津歳久の首級をここでさらしている。キリスト教禁教令を出し、26人のキリスト教殉教者を見せしめに耳たぶを切り落とさせ、長崎の殉教地に向かわせている。

戻橋から北100mのところに晴明神社はある。陰陽師として有名な安倍晴明を祭神とする神社で、安倍晴明の邸宅跡に一条天皇の命で創祀された。陰陽道というと占術・呪術ばかりを行うように思っていたが、大将軍八神社の所蔵品にあったように晴明は天文学、暦学を基礎として陰陽道を確立していったようだ。単に霊感の強い人だけではなかったようだ。

陰陽道の呪符の一筆書きの五芒星は「桔梗印」と称され、晴明神社では神紋とされている。堀川通に面する一の鳥居の扁額には桔梗紋が入っている。本殿の北には晴明井といわれる井戸があり、晴明の霊力により湧き出たと伝えられる。飲めば悪病難病も治ると信仰される。上部は桔梗紋が描かれ、その頂点の一つに取水口がある。立春にはその年の恵方に取水口が向くよう上部が回転される。千利休は茶の湯にこの水を使っていたという。

本殿に向かって右側に厄除桃が置かれている。桃は中国ではそして古事記においても魔除厄除の果物とされるからである。左側には安倍晴明像が置かれている。まるで対の狛犬みたいだ。

「千利休居士聚楽屋敷跡」の石碑が境内に立つ。利休はここでお茶をたて、そして切腹したのもここだったのだ。一の鳥居をくぐってすぐ左手に旧一条戻橋のレプリカがある。その横には式神(陰陽師が操る生霊)の石像がある。安倍晴明は十二神将を式神として使っていたが妻が式神を怖がるもので、戻橋の下に隠しておき、必要なときに呼び出したという。この石像はその伝説を表したものだ。

一条通はこの世と魔界の境界なのである。


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