D級京都観光案内 52

岩倉とその周辺

岩倉は京都市中心部の北東に位置する。岩倉は巨石に神が宿るとされた磐座(いわくら)信仰に由来する。岩倉にあるもっとも有名な寺院、実相院から500mほど離れた山住神社の鳥居の奥にある巨石が信仰の対象になっていた。現在、神は実相院の少し北に隣接する石座(いわくら)神社に遷座し、山住神社はその御旅所となっている。また平安京が開かれたとき、桓武天皇により王城守護のため「一切経」がこの岩の下に埋められたとも伝わっている。

平安時代以降、大雲寺、実相院、聖護院などの寺院が建立され、貴人の別荘地、病者の静養地となり、近世以降は里子の養育、精神障害者の預かりや療育が行われた地でもある。精神科医としては精神障害者が地域で共生するという先進的な試みがごく自然に行われていたことにいたく感心する。

実相院は門跡寺院であり、門前の広場は京都バスの終点でもあり、山門は四脚門とその格式を誇っている。しかしこの寺がもっと有名なのは、客殿の板の間の黒光りする床に前庭のカエデが映りこむ様であり、秋は真紅に染まる「床モミジ」であり、初夏には緑に輝く「床みどり」といわれ、観光客が殺到する。晴れた日の正午ごろが一番の見頃であるが、先客が多くいて、後方から前の人の頭越しに覗き見ることで辛抱しないといけない。かえって雨が降れば観光客も少なく、雨に濡れるカエデをゆっくりと眺めることができて、趣があるというものだ。

奥の書院と客殿西の間にある池泉回遊式庭園にはモリアオガエルが生息する。客殿東の石庭はかつて蹴鞠の庭といわれたが、現在は「こころのお庭プロジェクト」という小川治兵衛直系の庭師指導の下、参拝者や市民が庭園造りに参加する事業が行われている。この庭の正面には比叡山を遠く望むことができるのだ。

客殿には狩野派の障壁画があり、明正天皇の描いた「三十六歌仙」もある。明正天皇は父・後水尾天皇が幕府の圧力に嫌気がさして天皇位をさっさと投げ出したものだからわずか7歳で即位した女性天皇である。今度即位した天皇も、政府などから妙な圧力を受けたならさっさと娘の愛子さんに譲位してもいいのだ。現行皇室典範下ではできないことなのだが。

実相院日記も展示されている。歴代門主や坊官たちが260年間にわたって綴ったもので、特に幕末期には朝廷からも幕府側からも多くの情報がもたらされ、岩倉具視もしばらく寄留していたので生臭い話もあり、貴重な歴史資料となっている。

実相院の門前を出てすぐ北に向かうと先程触れた石座(いわくら)神社に通じる。その境内には一言神社があり、鳥居まであるのでちょっと驚く。

その東隣りには大雲寺がある。今でこそ小さなお寺だが、江戸時代の「都名所図会」にも「大雲寺古絵図」にも広大な伽藍が描かれている。源氏物語の「若紫」で光源氏が幼い若紫を見たのもこのあたりという設定になっている。日本医史学雑誌にある大阪府立大学・中村治先生の論文によれば、「後三条天皇(位10681072))の第三皇女が今でいうところの精神障害になった時、岩倉の大雲寺の観世音に祈願し、大雲寺の井戸水を飲んでいたところ、その病が治ったという伝承があり、古くから精神障害者が集まっていた。」ここでいう井戸水は現在北山病院にある「不動の滝」のことだろう。大雲寺は巨大で懐の深い寺院であったのだ。

大雲寺前から再び南に下がり、実相院門前を過ぎていくと岩倉病院があり、それを回りこむように東に行くと、岩倉具視幽棲旧宅にやってくる。

孝明天皇の懐刀的存在で、朝廷のために対幕府交渉に当たっていた岩倉具視だったが、佐幕派とみなされ尊王攘夷派から激しく糾弾されたため、蟄居し、それでも命を狙われるため、この岩倉の地に幽棲したのである。具視の住んだ往時のままの古民家「鄰雲軒」、岩倉具視遺品類や明治維新関係文書などを展示・収蔵する、昭和3(1928)に建設された武田五一設計の「対岳文庫」が特別公開日には参観できる。小川治兵衛の手になる庭も見ものである。

ここから南に行くと宝が池にやってくる。池のほとりには宝ヶ池グランドプリンスホテルがあり、京都国立国際会議場がある。50年ほど前の学生時代には時々ここでボート遊びをしたものだが、今はどうなっているのだろうか。ホテルの和食処・茶寮では仕出し専門の辻留の料理が食べられる。しかし4人以上の予約が必要で、値段も超一流だ。こういう店もあるなあにしておこう。

宝ヶ池まで来る途中で西に向かうと岩倉幡枝町にある妙満寺にやってくる。日蓮宗十六本山の一つであり、成就院雪月花三名園の中の一つ、「雪の庭」が本坊にあることで有名である。

山門をくぐると正面には大きな本堂が立ち、その左にインド・ブッダガヤ塔型の仏舎利塔がそびえるのが目を引く。その少し手前には塔頭・成就院があるが、「雪の庭」は昭和43年に寺町二条から当地に移転時に、本坊の方に移されている。

成就院雪月花の庭は、芭蕉の師で、俳諧の祖とも言われる松永貞徳が妙満寺成就院、清水寺成就院そして北野成就院(現在はない)にそれぞれ作庭したものである。本坊の「雪の庭」は比叡山を借景とした冠雪の庭が素晴らしく、こう呼ばれるのだ。

霊宝「安珍・清姫の鐘」は展示室にある。安珍・清姫の霊話で知られる紀州・道成寺の鐘は音色も悪く清姫の祟りがあると山中に埋め捨てられたが、豊臣秀吉の根来攻めの時、家来の一人がその鐘を掘り起こし京都に持ち帰った。妙満寺の管主の法要を受け音色を取り戻し霊鐘となったという。歌舞伎「娘道成寺」、能「道成寺」の題材になっている鐘である。

本堂から山門を見下ろすと、正面遠くに比叡山を見ることができる。借景としてではなく間近に比叡山の姿を崇めることができるのだ。

妙満寺から南西に下がり、京都乗馬クラブのあたりで北西に進むと圓通寺にやってくる。臨済宗妙心寺派の寺院であるが、比叡山の借景庭園がある寺としてのほうが有名である。

幕府の圧制に不満を募らせ譲位した後水尾上皇は隠棲の地を洛北に求め、岩倉の長谷殿、岩倉殿を造り、そこでも満足しきれずこの地に来て幡枝離宮を造営する。

しかしまだ納得のいく場所ではなかった。退位から四半世紀が過ぎて、ついに修学院村に適地を見出し、いまに修学院離宮として残る広大な山荘を造営することになる。幡枝離宮のほうは山荘としての役目は終え、上皇の長年の夢であった禅院へと変わる。妙心寺・景川宗隆を勧請開山とし尼寺が創建された。

この寺の見どころは客殿の前庭である。一面青苔で覆われた平庭に、40個余りの大小の石が配置される。生垣のすぐ背後にはまっすぐに伸びる杉木立があり、そのはるか向こうには比叡山の稜線が見える。後水尾上皇は比叡山の借景を得るために各地を回り、ようやくこの地にたどり着いたという。

借景庭園としてあまりにも有名になっているにもかかわらず、ここを訪れる人は案外少ない。確かに外国人観光客をあまり見かけない。ということで、日本人の美的感覚を再確認するために、誰にも邪魔されず、20分でも30分でも客殿から前庭を眺め続けることができるのだ。これを至福の時と呼ばないで何と言えばいいのだろう。

圓通寺から市街地に向かうと道は細くなり、深泥池にやってくる。「みどろがいけ」あるいは「みぞろがいけ」と呼ばれる。周囲約1,540m、面積約9.2haの小さな池であるが、3万年から1万年前の氷河期時代のミツガシワやホロムイソウなどの動植物が生きている化石として生育し、「深泥池水性植物群落」として国の天然記念物に指定されている。氷河時代から生き残っている北方寒冷地の植物ミツガシワは3月末頃からつぼみを水面上にだし、4・5月にかけて白い花を咲かせる。じゅんさいは初夏から秋にかけて、水面に葉を浮かべ、暗紅紫色の花を咲かせるが、「とらえどころない人」のたとえにも使われる。

現在、上善寺に祀られている鞍馬口地蔵は 明治時代の廃仏毀釈まで、もともと深泥池の傍におかれていた深泥池地蔵(みぞろがいけじぞう)が遷されたものである。京の六地蔵の一つである。

深泥池のから西に行くと、上賀茂神社の門前に通じるが、その途中に御料理・秋山という気になる京料理の店がある。ずいぶん高そうだが。さらに行くと、上賀茂神社の境外摂社・大田神社がある。境内の東側にある大田の沢には、国の天然記念物のカキツバタの野生群落がある。近年、鹿の食害でその棲息が心配されたが、神社及びその関係者の努力で美しい群生は蘇っている。

さらに西に行くと、上賀茂神社の南にやってくる。上賀茂神社の南東一帯は、社家の町として、神官達の住む町が形成された。明神川(みょうじんがわ)沿いの神官達の社家町(しゃけまち)一帯の町並みは国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。なお、梅辻家住宅は上賀茂神社の社家のうち、現存する賀茂七家の唯一の社家遺構である。

上賀茂神社についてはA級観光案内書に譲るとして、その近所のうまいもの屋は押さえておこう。

「すぐき」で有名な「なり田」はこのあたりにある。「やきもち」は上賀茂神社の名物菓子である。門前にある神馬堂のやきもちが圧倒的にうまい。ほとんど境内にあると言っていい葵家やきもち総本舗は葵餅と双葉餅の二種のやきもちを売っているが、個人的好みを言わせてもらえば、神馬堂の勝ちである。

神馬堂から少し北に行ったところに今井食堂がある。野球解説者の古田さんが立命野球部時代よく通ったという店で、サバ定食とおすすめ定食の二つのメニューがある。サバ定食は3日間煮込んだサバ1匹分と巨大な味噌汁にご飯である。おすすめ定食はサバ煮(小)、チキンカツ、コロッケ、玉子焼きそして大きな味噌汁にご飯である。どちらも腹いっぱいになるが、サバ煮は異次元のうまさといっていい。サバ煮だけお持ち帰りできるので、私はもっぱらこれを利用している。

深泥池からまっすぐ南に下がると、北山通りにやってくる。北山通りはおしゃれな街として知られるようになって久しいが、食べるところもいろいろある。北山通りに入る手前に、嵐山よしむらの姉妹店、よしむら北山楼がある。北山通りには、進々堂北山店があり、植物園の向かいあたりに人気のスイーツショップ・マールブランシュ京都北山本店がある。中国料理白龍もあり、こちらは文化施設だが古田織部美術館もある。

蕎麦屋じん六は本格的なそばを食わしてくれる。それでいて大将は物分かりのよさそうな腰の低い方で好感が持てる。ただ人気の店で、常連さんも多く、相席しないといけないので、観光客としてたまにいくとちょっと落ち着かない。まあこれは仕方のないことだけれど。

さらに西に向かって観光したいところだが、今日のところはこれでおしまいだ。


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