田中精神科医オフィスの表紙へ

続D級京都観光案内 7

亀岡の神社を訪ねて

亀岡市は京都市に接する市だが、わが箕面市の隣、能勢町・豊能町にも隣接するなじみ深い町である。明智光秀が亀山城を作りその城下町として栄えた町であるが、そのはるか昔からいろいろ由緒ある町である。早速、由緒ある神社を訪ねてみよう。

まず亀山城跡を訪ねてみる。亀岡市街の中心部にある。しかしながら歴史の激しい動きの中で、天守閣などの城の面影はなく、ただ城壁が残るのみである。私はその敗者の営みが好きである。

亀山城は織田信長から丹波平定を命ぜられた明智光秀が、口丹波の当地に築城したことに始まる。当初は三重の天守閣があったという。皆様ご存じの通り、本能寺の変後、城主は次々と変わるものの、要衝の地であったことから常に重要視されていた。しかし明治になり、三重亀山城と混同を避けるため亀岡藩となり、亀山城は廃城となった。

1919年(大正8年)大本教の出口王仁三郎によって購入され、城壁の整備が行われたが、大本教に対する大弾圧により、城壁は破却されてしまった。1945年(昭和20年)大本教への無罪判決が出て、所有権が大本教に戻され、再び聖地天恩郷として整備される。入場料無料の大本花明山(かめやま)植物園があり、ちょっと異郷に迷い込んだような雰囲気をかもし出してくれる。

亀山城址のすぐそばにハンバーガーの人気店ダイコク・バーガーがある。私はあまりハンバーガーを食べないので、クチコミで人気のこの店のバーガーがどの程度いいものかは正直分かっていないが。

和食・懐石がんこ亀岡楽々荘はおなじみ「がんこ」が田中源太郎旧宅を買い取って和食店にしている。田中源太郎は亀岡銀行頭取、京都鉄道の初代社長で、山陰線の敷設・開業をした実業家だ。旧宅は和館と洋館からなり、庭は七代目小川治兵衛の作庭である。食事をすれば洋館庭園などの見学散策ができる。

更に近くには丹山酒造もある。創業明治15年の老舗の酒蔵であり、現在は5代目当主が若き女性で、ご本人も杜氏として酒造りに積極的に関与しているようだ。酒蔵見学は予約しておくとできる。

亀岡の市街地の外れ、枚方亀岡線を少し行ったところに鍬山神社はある。紅葉の名所として有名だが、それだけではないなかなか由緒ある神社なのだ。

奈良時代中期、和銅2年に鍬山宮は創建されている。産土神で医療の神、縁結びの神でもある大己貴命が主神である。時は下り、平安時代後期、八幡大神が近くに降臨し鍬山宮に合祀されることになった。

その後、毎夜雷鳴がとどろき戦闘の音がし、朝には鳩とウサギの死骸が多数散らばっていた。これは鳩を神使とする八幡大神とウサギを神使とする鍬山明神の不仲のせいだと、鍬山宮と八幡宮を同形式同規模に建て、その間に小池を配置したことにより争いは治まったと言い伝えられている。

なるほど二つの本殿に通じる階段は別々にあり、ともに一間社流造で千鳥破風を有し、そこには左の鍬山宮にはウサギが、右の八幡宮には鳩が彫られている。

境内には多くの摂末社、神苑、池、神輿舎がある。境内の入り口ともいっていい朱塗りの二の鳥居には一対の狛犬がある。この狛犬に遭えて嬉しくなった。左の吽像には角があるのだ。正真正銘狛犬なのだ。さらに背中には子狛犬をのせているではないか。まあなんともほほえましい狛犬親子なのだ。右の阿像の狛犬は本来獅子像である。だから角はないはず。確かにこの阿像の狛犬には角がない。ところが開けている口の中に石の球をくわえている。

阿像の狛犬が球をくわえたり足で押さえたりし、吽像の狛犬が、子狛犬を前足で抱いたり、足で押さえたり、あるいは背中に乗せたりするのがどうも一つの定式のようだ。この定式化が正しいかどうか今後も狛犬にあうたびに調べておこう。

なお本殿前にも二対の狛犬像がある。こちら左の一つの吽像には角があり、もう一つの吽像には角がない。右の二つの阿像にも特別の仕掛けはない極めて見慣れた狛犬である。

さて、1020日から1025日までの秋季大祭は亀岡まつりとも称され、両宮の神輿が亀山城跡近くの形原神社まで渡御し滞在する。11基の山鉾が各町に建てられ、京都市八坂神社の祇園祭のように山鉾の巡行がある。亀岡は華やかな街なのである。

先に触れたように、鍬山神社は隠れた紅葉の名所とも言われている。秋に一度訪れてよい場所である。

鍬山神社の西北、亀岡市街から篠山街道を西に行ったところに薭田野神社はある。約3000年前の弥生時代から祀られていたといい、平安時代中期には延喜式式内社として認定されている由緒正しき神社である。大鳥居は平安神宮につぎ京都で2番目に大きな鳥居の威容を誇っている。

大鳥居の威容でもわかるようにこの神社はいろいろ目新しいご利益やパワースポットを提供してくれている。茅の輪くぐりならぬ石の環くぐり、源義経によって奉納されたという京式八角石燈籠、円形本殿礎石、必勝願掛け石癌封治瘤の樹、幸魂奇魂の石(さきみたま くしみたまの たまいし)などがある。これらパワースポットは年々増えているというのは近隣の人の言である。和銅禊ぎの池のほとりには今は珍しい薪を背負う二宮金次郎像があり、そこをぐるっと回ると稗田阿礼社がある。稗田阿礼は言わずと知れた古事記の編輯者(暗誦者)である。稗田阿礼がこの地で生まれ育ったのかと思いきや、宮司さんが薭田野と稗田のつながりで、何か関係あるのじゃないかという希望的観測で建てたお社だそうだ。

狛犬は何対かあるが、平成八年寄進とあるものの阿像の狛犬は口の中に玉を加え、前脚の間にはこれまた球を持つ子狛犬を抱いている。吽像の狛犬には特段の細工はない。平成八年といえば30年ほど前である。最近でも狛犬の意匠はいろいろ工夫されているのだといういい見本である。私の考えた「狛犬の定式化」はもろくも崩れてしまった。

薭田野神社の隣には大石酒造の複数の建物がある。ホームページには「元禄の頃より美しく豊かな丹波の自然の中でお酒を造って三百年。大石酒造直営の酒の館、本館と本蔵の酒蔵見学が堪能できます。伝統ある手造りの技。蔵元ならではの丹波のきき酒が味わえます。酒造無料見学受付中」とある。創業は江戸時代になるから丹山酒造より古い酒蔵だ。

薭田野神社の北東500mほどのところに「無国籍蕎麦懐石 拓朗亭」はある。この主人は以前9号線沿いに「拓朗亭」という蕎麦の店をやっていて、いろいろな蕎麦職人を育て上げた蕎麦作り名人といわれていたものだから、何度か訪れたことがあった。最近また訪れてみようと思ってグーグルで探すと、なんと場所も変わり、「蕎麦屋やめます」と一発かまし、無国籍蕎麦懐石やロマネスクランチ、第2火曜はカレーの日など何が出てくるかわからないメニューが並んでいるお店になっている。前日までの予約制であり、何やら小難しいことを言われそうなお店である。クチコミではおいしいと評判は良さそうだが。

亀岡市の中心部から国道9号線を京都市内に向かうと老ノ坂峠を越えることになるが、その手前に篠村八幡宮はある。旧山陰道の丹波から平安京に入る入口に位置する。

平安京遷都時、悪霊・怨霊・疫病の侵入を防ぐため、都の4隅と、都に通じる6カ所の関門に疫社を建てたが、山陰道の入り口の当地に設けられたのが乾疫神社である。平安中期、河内源氏の2代目棟梁源頼義(源八幡太郎義家の父)が地元の誉田八幡宮から八幡宮を勧請し、篠村八幡宮となった。この地に持っていた荘園を寄進している。

鎌倉時代最末期、鎌倉幕府より後醍醐天皇追討を命じられた足利高氏ははじめ幕府軍とともに戦い京から山陰道の当地まで来ていたがが、天皇の詔勅を得て、幕府打倒へと反旗を翻す。足利氏も源氏の流れを汲み、八幡宮は源氏の氏神であることより、倒幕の誓いを立て街道沿いに立つ楊の木に家紋の入ったのぼりを立てた。これが旗立楊(はたたてやなぎ)で現在の木は67代目という。この幟を目印に多くの援軍が集まったところで、足利高氏は戦勝を祈願し玉串の代わりに(開戦を告げる)鏑矢を奉納した。弟直義をはじめ、並みいる武将がそれに倣い鏑矢を奉納したため、鏑矢の山ができたという。この矢を埋納したところが矢塚である。

足利高氏は鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇の親政への道をひらいた功績により、天皇より恩賞を貰うとともに。天皇の諱「尊治」の一字「尊」を貰い、足利尊氏となったのだ。

しかし後醍醐天皇との蜜月時代はすぐ終わった。庶民階層や武家が反発を強め足利尊氏は後醍醐天皇にノーを突き付けなければならなかった。3年後足利尊氏は、後醍醐天皇方の北畠顕家軍に京都で敗れる。篠村八幡宮で敗残の味方の兵を集めるとともに、社領を寄進して再起祈願を行う。2度目の参拝だ。足利尊氏は、敗残兵をまとめて九州へ逃れ、態勢を立て直して京まで登り、室町幕府を開くことになる。足利尊氏は3度目の篠村八幡宮に参拝し勝利のお礼の奏上している。

時代は下り、1582年天正10年6月、明智光秀は、愛宕参詣をし連歌会を開き、「時は今雨がしたなる五月哉」の発句を残して下山している。亀山城に戻り軍議を開き本能寺に宿泊している織田信長の討伐を告げた。本隊は老ノ坂峠を越え本能寺に向かうが、その途中篠村八幡宮により戦勝祈願をしている。

このように篠村八幡宮は、2つの大謀反の生き証人の場所なのだ。境内全域が「足利尊氏旗挙げの地」として、亀岡市の史跡に指定されている。石碑「足利高氏旗あげの地」、「尊氏公旗立楊の碑」、前述のように旧山陰道沿いに「旗立楊(はたたてやなぎ)」、本殿の横に「矢塚」があり、矢塚にはツブラジイの大木(亀岡の銘木100選)がある。

摂社の乾疫神社(いぬいやくじんじゃ)は明治時代までは、119日の例大祭日には、露天商が軒を接して拝殿から大鳥居に至るまで参道沿いに立錐していたとの記録が残っているという。昔から例大祭には厄除けや病気平癒、健康、家内安全を願う多数の方々の来訪がある。毎年、この目的だけで東京から来社する方もいるという。1反の紅白反物を9枚に切り分け、奉献者氏名・生年月日を記入して、当社を始め9社の鈴の緒に添える反物は毎年100反を越えるという。

境内には立派な土俵もあり、6月第1日曜日にはちびっ子相撲大会、9月第3日曜日には相撲大会・泣き相撲が行われる。

この神社の狛犬は立派なものであるが意匠はごくありふれたものである。

 


「エッセイ」に戻る