D級京都観光案内 44

桂高校1年、古典の野外授業

昭和3710月、京都府立桂高校18組の5限、6限の授業科目は古典で(科目名は国乙と言っていたように記憶するが)、「平家物語」を副読本として進められていた。その日やってきた担当教師・住野先生は「今日は古典ゆかりの地をめぐる野外授業をする」と宣言をした。

こうして阪急桂駅から嵐山線で嵐山駅まで行き、約2時間かけて野外授業を受けたのだが、56年経って、おぼろげな記憶をたどりつつその道筋をたどりながら、D級京都観光を始めよう。

嵐山の中之島公園を抜け、渡月橋を北に渡る。その北東角に「琴きき橋跡」の石碑がある。住野先生は語った。「平家物語の小督の事は覚えているね。美人で琴の名手の小督は高倉天皇の寵愛を受けたが、帝の義父に当たる平清盛の怒りを感じて都からこの嵯峨野あたりに隠れ住んだのだ。小督をいとおしくて仕方ない帝は、源仲国に連れ帰るように命じたのだが、具体的にどこにいるかは誰も知らない。」「仲国このあたりに来た時に、松風の中に琴の音を聞いたのだ。駒を留めて耳を澄ますと、その曲は恋しい人思う『想夫恋』という曲だ。仲国は腰から横笛を取り出してちつと鳴らして合奏したのだ。」

大堰(おおい)川沿いに西に行く。当時は素通りしたのだが、角の「琴きき茶屋」では「本家 櫻もち」がゲットできる。道明寺もちを2枚の塩漬けの桜の葉で挟んだものと道明寺もちをこし餡で包んで嵐山の形にしたものの2種が創業以来の製法で作られている。

隣に朱塗りの鳥居を持つ車折(くるまざき)神社嵐山頓宮がある。5月第3日曜に、大堰川に船を浮かべて、船上で雅楽や日本舞踊・琴などの芸能を披露したり、船から和歌などを書いた美しい扇を流す三船祭は、ここから1㎞ほど東に本宮を持つ車折神社の祭礼である。神幸列の神輿が、祭りの後に留まるのが嵐山頓宮である。

頓宮の前には小さな狭い橋があり、橋柱には「琴聴橋」とある。「明治15年改築」という銘もあることから、その後の道路拡幅工事に伴って、「琴きき橋跡」あたりからこの地に移設されたものだろう。

さらに西に進むと人気の蕎麦屋「嵐山 よしむら」がある。2階の川側の席からは大きなガラス越しに嵐山が眼前に広がり、それは素晴らしいものである。味の方はまあ平均点というところか。ここが一杯で待てないというときには先程の琴きき茶屋のソバで我慢しよう。

もう少し西に行くと北に行く道がある。30mも行けば左手に小督塚はある。説明板には「謡曲『小督』の旧跡」とある。源仲国は琴きき橋で琴の音に気づき、その音を頼りにこの小督が隠れ住む片折戸の家を探し当てることができたのだ。

さて半世紀前のわれわれは天龍寺の門の前に戻り、次の目的地、野宮神社に向かうのだが、現在このあたりに来たのならぜひ立ち寄ってほしいところがある。天龍寺の塔頭の宝厳院、弘源院だ。宝厳院は嵐山を借景とする回遊式山水庭園「獅子吼の庭」が素晴らしい。竹内栖鳳とその一門(上村松園・西山翠嶂・徳岡神泉ほか)など文化勲章受章画家の日本画が公開され、枯山水の庭も楽しめるのが弘源院である。

天龍寺門前を北に行くと老松嵐山店がある。夏ミカンゼリーだけでなく嵯峨野らしい高価なお菓子も置いてある。当時の高校生には無縁である。この店のすぐ先を左に曲がる小道に入る。今は観光客で物凄く混んでいる。でも当時は我々高校生だけがぞろぞろ歩いていた。道なりに行くと野宮神社にやってくる。亀山公園に向かう小道は両側に竹林が続く「竹林の小径」と名付けられる観光スポットで、観光客たちで大混雑である。

黒木の鳥居と茅の輪がある野宮神社で住野先生は語った。「源氏物語第10巻『賢木』の舞台になったのがここです。」その時の説明はよく覚えていないというかよく理解していなかったが、娘の斎宮と共に伊勢へ下る決意をした六条御息所を光源氏がこの野宮神社にこっそりと訪問した場所らしい。伊勢斎宮(さいぐう)が伊勢に赴く前に潔斎をする野宮社(ののみやしゃ)があったとされ、六条御息所が光源氏への恋慕を断ち切るにはまことにふさわしい場所だったようだ。今になって思い出してみると。

野宮神社前を北に行くとすぐに山陰本線とトロッコ列車の共用の無人踏切があり、その先の里の道を行くと落柿舎につく。驚くほど質素なたたずまいだ。先生は語る。「君たちもよく知っている松尾芭蕉の高弟、蕉門十哲の一人、向井去来の別邸だった。芭蕉も何度かここに逗留している。」その時の説明にあったかどうか「五月雨や色紙へぎたる壁の跡 芭蕉」の句碑がある。後年再訪した時には投句箱などが置いてあり、親しみやすくまた趣があると感じたのは年齢のなせる業だろうか。

そこから常寂光寺や二尊院の近くを通ったが、参拝にまで及ばなかったように記憶している。両寺ともモミジの名所なので案内しておこう。

常寂光寺の山号は小倉山である。小倉百人一首で有名な藤原定家が近くに住み「忍ばれむ物ともなしに小倉山軒端の松ぞなれてひさしき」と詠んだことから軒端(のきば)寺とも言われる。(京都検定頻出問題、あほらしいでしょ)仁王門から続く参道一帯が紅葉で赤く染まり、多宝塔も見どころ。

二尊院の山号も小倉山である。寺名は発遣(死者を送り出すこと)の釈迦如来と来迎(死者を浄土に招き迎えること)の阿弥陀如来の二体の本尊に因んでいる。伏見城から移築した総門から本堂へと続く広い広い参道は秋になると紅葉が美しく、「紅葉の馬場」と呼ばれる。もちろん5月の青もみじもこれまた美しい。境内には三條西実隆、角倉了以・素庵父子、その親戚の塵劫記の吉田光由、伊藤仁斎・東涯父子、三條実万・実美父子などの墓があり、そのすべてに参っていると大汗をかく。

我々高校生は当日の一番の目当てである祇王寺に向かっていた。檀林寺の前を通ったが、素通りした。ここはかつて山城第一の寺と言われたほどで、素晴らしい名宝と言えるものが無造作に展示してある、隠家的寺院といってもいいほどなのだが、当時の私はそんなことも知る由もなかった。

王・祇女は平清盛寵愛の白拍子姉妹で、三年にわたり栄耀栄華を誇っていた。そこに田舎出の仏御前が都で評判と調子づいて、清盛邸に私の舞を見て下さいと堂々と売り込みに来た。生意気なと怒って追い返せという清盛をとりなして、一度見てやって下さいと頼んだのが自信あふれる祇王である。ならばと仏御前の今様を聞き、舞を見た清盛はぞっこんほれ込んでしまい、一緒に屋敷に住まわそうとなったが、「祇王様がおられるのにそれはできません」と断られると、あっさり祇王姉妹を追い出して仏御前を住まわせた。あろうことか寂しそうな仏御前を慰めるために参内し今様を聞かせろと祇王のプライドを傷つけることを命令する。

ここに来て、祇王21歳、祇女19歳の若さで尼となり、45歳の母刀自も剃髪し、この嵯峨の小庵でひたすら専修念仏を唱えることになったのだ。しかし半年もせぬうちに尼になった17歳の仏御前がこの小庵を訪れ、以後4人は朝に夕に念仏を続けという。

住野先生は「文学、その一番のテーマは『人間不信』です。」と言っていた。祇王寺で生徒たちを前に説明する先生の声に力が入っていたのはそのせいだったのかもしれない。もちろん当時の私にはまったく思い至らないことだったけれど。

祇王寺に接するように滝口寺はある。同じ平家物語にある平重盛の家臣斎藤時頼と建礼門院の侍女の横笛との悲恋にかかわる寺で、時頼が恋を断ち切るために当寺に入り、出家し滝口入道と名乗ったことからこう呼ばれている。「悲恋」は「人間不信」とかかわらないせいか、住野先生はこの寺にわれわれを連れていくことはなかった。

祇王寺から少し戻り、鳥居本のほうに歩けば化野念仏寺はすぐそこにある。当時そこまで足を延ばしたかどうか記憶は定かでない。多分そのまま帰途についたと思われる。ただ二尊院の前を通らず、清凉寺を目指して東に歩みを進めたはずである。

清凉寺のすぐそばに小さな寺院宝筐院はある。現在ここは隠れた紅葉の名所で、拝観料500円が必要だ。高校生としてはそんな大金を払ってまで寺の境内に入るわけはない。となると当時は拝観料などというものはなかったのだろう。庭の奥に南北朝時代を象徴する足利幕府二代将軍・足利義詮と南朝の忠臣・楠木正行の二人の墓が並んである。当寺の中興開山の黙庵に敵味方分かれた二人は共に帰依しており、四条畷の戦いで討ち死にした正行の首級を黙庵はここに埋葬した。義詮は「自分が死んだらかねてより敬慕していた楠木正行の墓の横に埋めてくれ」と遺言しており、正行の墓の隣に葬られたという。

「楠木正成は大楠公、楠木正行は小楠公と呼ばれ云々」と語る住野先生の話を聞いた後、「大楠公、小楠公は分かりましたが、ペニシリン軟膏はどうなります?」とつぶやいてしまった私は、住野先生からあきれてしまわれたのである。そんなことだけは鮮明に覚えている。

そのあと清凉寺の広い境内に入った。古典の野外授業としては格好のテーマ源氏物語の主人公・光源氏のモデルとされる源融の別荘跡である。その別荘の棲霞観に源融の死後阿弥陀堂を建て、棲霞寺としたのに始まる。阿弥陀如来は源融の生き写しのようというから、光源氏がどんな顔をしてたのだと知りたければこの阿弥陀如来を見ればいいことになる。源融の墓所も境内南西にある。

その後等身大の釈迦像を安置する釈迦堂を建てたので、嵯峨野釈迦堂と呼ばれるようになった。小督の家を探しあぐねた仲国が「もしや釈迦堂にでも」と堂内を探したが見つからず、そのあと渡月橋北詰あたりで琴の音を聞くことになる。「その釈迦堂はまさにここなのだよ」と住野先生が言ったか言わなかったか、記憶にない。更に時代が下り奝然(ちょうねん)が宋から持ち帰った釈迦如来立像を祀り、寺名を清凉寺に改めた。

野外授業はこの清凉寺境内で終わり、各自自由解散となった。それにしても思い出してみればタフな野外授業だったなあと懐かしい。

当時はなかったが、小倉百人一首の多様な世界を体感できるミュージアムとして時雨殿が宝厳院の南に立っている(現在は休館中である)。さらに京都商工会議所120周年記念事業として小倉百人一首文芸苑と称して、嵐山・嵯峨野地区の5カ所の公園・公有地に百首の歌碑が建てられていて、小倉百人一首歌碑巡りを楽しむこともできる。

住野先生が野外授業で小倉百人一首について教えてくれるとしたら、今風で安直なこんな場所にわれわれを連れて行かなかっただろう。常寂光寺、二尊院近くの小倉山の藤原定家ゆかりの場所に連れて行ってくれただろうと強く思う。安直に定型化させてしまうと古典文学の理解を損なうことになるのだよと先生の声が聞こえてきそうだからである。


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