D級京都観光案内 32

日本建築の世界的奇跡 桂離宮

 まず前々回の宇治の2回目の観光案内で宇治茶については通圓と福寿園だけに触れていたが、それは大きな見落としがあることは同月号の上林先生の「宇治平等院」の記述で明らかとなった。宇治で450年続く御茶師・上林家が手掛ける茶専門の資料館、宇治・上林記念館に触れていないのである。場所は一方通行の宇治橋通り商店街を中村藤吉本店から宇治橋西詰に戻る中間点辺りにある。弁解になるが、宇治橋西詰から一方通行を逆走することになるためこの由緒ある上林記念館をスルーしてしまったのだ。

 なお上林先生の兄上の上林純一先生は阪大第二外科神前五郎先生(山崎豊子「白い巨塔」に名前だけ拝借された主人公財前五郎とは真逆の名医)のもと止血グループを率いておられた俊才であることを知って、ちょっと感慨にふけっている。

 

 今日は桂離宮を目指すことにする。

 私は京都府立桂高校の卒業生である。桂高校と桂離宮は直線距離にして1㎞ほどしか離れていない。人は誰でもその人がそばにいればいるほどその人の偉大さに気が付かない。(私が言うのではない芥川龍之介がそう言っているのだ。)まったく同様に桂離宮のすぐそばで高校生活を送った私が、桂離宮の素晴らしさ、万難を排してでも訪れた方がいい価値に気づかなかったのも無理はないと弁解しておこう。

 桂離宮の参観は、修学院離宮、仙洞御所、京都御所と同じく事前予約が必要だった。宮内庁京都事務所への直接申込、葉書そしてネットでの申し込みの3通りの方法があるが、仕事をしている身にとって、とてもハードルが高いものだった。事実上暇になるまで待ってと参観を断念せざるを得なかった。

ところが平成287月から京都御所が事前申し込み不要の「通年公開」されるとともに、桂離宮、修学院離宮、仙洞御所も、事前申し込み以外に当日申込みの枠が確保され、よし今日は桂離宮に行ってみようと急に思い立っても、きちんと作戦を立てれば参観可能になるのだ。

桂離宮の場合、1330,1430,1530の各コース20名ずつの当日枠がある。もし事前予約枠15名に空きがあればその分も追加される。我々は1330のコースにすることにして、当日は午前11時ごろから現地で参観時間を指定した整理券が先着順に配布されるのでそれを獲得すべく10時半に入場門の前に並んだ。すでに5名が並んでいた。我々は6番と7番というわけで、これで1番人気の1330のコースにばっちりいけることになった。ただいつでもこう簡単とは保証できない。622日木曜、時は梅雨、実際前日は大雨警報が出る天候だった。こんな時期の悪い平日だから参観希望者は少なかったのかもしれない。

112日、文化の日の前日、横浜から来る兄夫婦を桂離宮に連れて行くことにしている。京都は観光シーズンの真っ最中である。遠くから来た客を10時半から並ばせるわけにはいかないし、もうすでに50人くらいの行列ができているかもしれないのだ。

そこで事前申し込みで確実に4名の参観申し込みをしないといけない。ネット申し込みと葉書での申し込みがあるがその両方すれば確実だ。ネット申し込みは参観希望日の3か月前の月(今度の場合は8月)の1日の午前5時から可能という。

私は午前445分に目覚ましをセットして、450分にはネットでつながる状態にして、5時の時報とともに申し込みを開始しようとした。つながらないのである。1分ごとにアクセスを試みるが、11月分の参観日選択のバナーは出ていないのである。なんでだと相当悶々とし、診察開始直前の830分ごろにやっと繋がり、11213304名の住所、氏名、性別、年齢、国籍を書き込んで、申し込みは受理された。参観許可されたという確認メールは翌8215時発でやってきた。

もう一つ往復はがきで申し込む方法がある。参観希望場所ごとに、希望日、参加者全員の上記個人情報を書いて送る。3か月前の1日消印分から定員になるまで受け付けられるが、定員を超える場合のその日の消印分は抽選で決められる。ということで81日ネット申し込みは受理されたものの許可が下りたかまだ不明のため、申し込み葉書の方も投函しておいた。まあ単なる観光に大変な労力を払わないといけないのだ。

さて10時半ごろ桂離宮の入場門の近くの私たちの話に戻ろう。1055分あたりから受付事務が始まる。住所氏名、年齢を書き運転免許証を見せ、1330コースと記された整理券をもらい、やっと解放される。

実質2時間ちょっとの待ち時間を有効に使わないといけない。桂離宮の南側を走る道路は旧山陰道で、桂川にかかる桂大橋から八条通りに通じている。なお桂川の東側は右京区であり、桂離宮のある西側は西京区である。

 かつて六地蔵巡りの項でも書いたように山陰道の入り口に位置する地蔵寺に桂地蔵が安置されている。822日、23日の六地蔵巡りの日には幡(はた)が授与され、六斎念仏が行われ、98日には秘仏の薬師如来像とご本尊・地蔵菩薩像を拝むことができる。どちらの日でもない時に訪れると、きっちり閉まった本堂を狭い境内からただ眺めるだけしかなく、御朱印も1300円を納めてすでに書かれて置かれているものを貰って帰るしかない。

京都検定的には、四神相応の白虎が宿るのが西の大道すなわち山陰道とされることは押さえておかないといけない。この山陰道を西に行くと本願寺西山別院があり、本願寺より移された本尊阿弥陀如来像、3世・覚如(親鸞の曾孫)の墓である覚祖廟がある。西山別院の前の道は55年前、桂高校生の阪急桂駅から学校への通学路に当たっていた。3年間毎日のように通っていたが、この寺がこんな見どころのあるお寺だとはつゆ知らなかった。

さらに阪急京都線の踏切を越え、旧街道を行くと樫原(かたぎはら)にやってくるが西京樫原界わい景観整備地区に指定されており、江戸時代の本陣跡など歴史を感じることができる。さらに進むと老ノ坂の峠を越えて丹波へと通じるが、ここには酒呑童子のものと伝わる首塚があり、明智光秀が中国地方の秀吉の援軍に向かわず踵を返して「敵は本能寺なりと」都を目指し通過した峠でもある。

桂離宮のすぐ北に下桂御霊神社はある。ここの祭神は橘逸勢である。嵯峨天皇、空海とともに三筆の一人とされる文化人だが、承和の変で濡れ衣を着せられ遠流先で病没した。その怨みを持った荒魂を鎮めるための神社である。さらにこの神社は桂宮家(はじめは八条宮家)の代々厚い崇敬を受けてきている。

地蔵院を目指す。さっき行った六地蔵巡りの寺は地蔵寺、浄土宗の寺である。今から行くのは臨済宗、竹の寺・谷の地蔵とも呼ばれる地蔵院である。駐車場はあるがそこに至るにはナビには載っていない細い道でちょっと難渋する。阪急嵐山線上桂から歩いてくるのが賢明かも知れない。竹の寺の通称の通り、風にそよぐ竹林に囲まれたきわめて落ち着いたたたずまいの寺である。この寺のことが強く印象に残っているのは、私が落ちた第12回京都検定1級の問題、「『十六羅漢の庭』と呼ぶ枯山水庭園で有名な地蔵院は、足利義満を補佐する管領であった武将による創建である。その武将とは誰か。」で細川頼之が分からず悔しい思いをしたのである。

一休さんがこの近くの民家で後小松天皇の皇子として生まれ、この寺で6歳まで過ごしたそうだ。一休さんの母子像なるものもある。紅葉の頃はさぞかし美しいと思われるが、人の少ない今のほうがいいのかなと思ったりもした。

すぐ北に華厳寺・鈴虫寺もある。歩いてだと裏道を通ってすぐだが、車だと大回りして駐車場に止めることになる。この寺は俗っぽくていけない。人が多すぎていけない。だから拝観せずに、戻ってしまった。

参観の前に昼食をとらないといけない。桂離宮の南側にある中村軒に行くことにする。ここは麦代餅(むぎてもち)で有名のお菓子屋だ。麦代餅は農作業の時の間食として重宝され、農繁期には直接田畑に届けられた。刈り取った麦で菓子代を払ったことから麦代餅という名がついたという。ここのお赤飯は秀逸である。いろんな種類の餅がありどれもおいしい。

奥に茶店もあって軽食メニューをとることにする。鰻茶漬け、鰻の佃煮をご飯に載せ、熱いお茶をかけて食べる、お代わり分の鰻もついているのでこれで十分満足できる。春・夏にはそうめんと赤飯のセットがある。赤飯でなく炊き込みご飯にしてもいい。秋・冬にはにゅう麺となり生湯葉も入ってボリューム満点という。かき氷、あんみつ、くず、ぜんざい、お汁粉もやっている。

本格的な昼食が食べたい人は奥の道に入ったところにあるソバの隆兵がある。単品のソバではなくソバセットとなっているから値段は高いし、前もって予約しておかないといけない。これが一番面倒だ。

やっと桂離宮参観にたどり着けた。整理券と運転免許証を示し、本人確認を済ませてから35名の参加者は若い女性案内人に引率され、ぞろぞろと歩き、見どころに来るたびに案内人の説明を聞くことになる。歩きにくい飛び石の道、そこかしこに置かれる石灯篭、24個だか36個だかある、そして門があり、建物があり、池があり、橋がある。

この案内人の説明はなかなかわかりやすく、言われてみるとなるほど美しいものだ、なるほど趣がある、なるほどなるほどとたっぷり桂離宮の良さを堪能できるのである。庭園美と建築美の見事な融合、庭園づくりの数々の工夫・仕掛け、質素、簡素な建築の中にある明るさ・斬新さに気づかされると、ドイツの建築家ブルーノ・タウトが「日本建築の世界的奇跡。永遠なるもの―桂離宮」と絶賛し、「すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる。」と書いたのもむべなるかなと思うのである。

桂離宮は八条宮家の初代智仁(としひと)親王と二代智忠(としただ)親王の父子によって約50年間の年月をかけて完成された。智仁親王の甥にあたる後水尾上皇がここにも行幸し建築に少なからず影響を与えたが、そののち修学院離宮を造営する際には逆に桂離宮から大きな影響を受けたに違いない。

智仁親王は正親町天皇の孫であり後陽成天皇の弟であった。豊臣秀吉に実子がなかったものだからその才能を見込まれ猶子となり将来の関白職が約束されていた。しかし秀吉に鶴松が生まれ、この猶子契約は解消され、その代り新しい宮家・八条宮が智仁親王のために創設されたのである。なお八条宮家は後に桂宮家へと名前を変えていく。

後水尾天皇も禁中公家御法度の制定・紫衣事件など幕府による完全なる統制に嫌気がさし上皇になり、政治の表舞台から消えていく。歴史の波に翻弄され無粋な武家社会から権力の道具としてうまく使われそして捨てられた公家・朝廷の人たちはどこに生きがいを見出すか。それは文化である。いや逆に文化は俗世の権力からドロップアウトするからこそ生まれるのである。

そう思って桂離宮を振り返ると、美しさ・すばらしさの向こうに怨念や諦念の風が流れているようなのである。


「エッセイ」に戻る

  田中精神科医オフィスの表紙へ