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続D級京都観光案内 9

番外編 備前焼狛犬に誘われて吉備路へ

前号で取り上げたように備前焼逆立ち狛犬はとても魅力的だった。その魅力に取りつかれて、備前焼の窯元の集まる備前市伊部を訪ねることになった。前回訪ねたのは19773月、ちょうど47年前だった。

前回は国鉄の姫路駅で赤穂線に乗り換え伊部駅に降り立ち、まっすぐ北に向かう道を、30歳の私はカールチーズ味を食べながら窯元の店に歩いていったものだ。焼き物なんて何も知らない私を先導して連れてくれていったのは、その前日から私の妻となった、そして今もやはり妻であるわが女房だった。

備前焼は絵付けもせず釉薬も使わずそのまま焼いたもので、火と土と炎と灰のさらには薪や藁のせめぎあいが作る計算しえない造形美と硬質の焼き物感は素人の私にも素晴らしいと感じられるものだった。ただ購入しようかとなるとめちゃめちゃ高価だった。私の想像する値段と2桁違っていた。

今回は新名神から山陽道を備前ICまで来て国道2号線を伊部駅前の備前焼伝統産業会館に車を停めた。折よくJRの電車もやってきて、ホームに降りたつ高校生たち様子を眺めると、ああ47年の時は過ぎたのだとあの日の高校生たちの姿との違いに感傷的になってしまう私だった。

山陽道を走っているときは前も見にくいほどの激しい雨だったが、車を停めたころはすっかり雨も上がり、47年前と同じく、駅から北に続く道を突き当り、東に折れて窯元の店が立ち並ぶ通りを散策した。どれもこれも素敵だが、ちょっといいなと思うものはものすごく高い。ところが陶正園というお店に狛犬の置物がある。逆立ちしながら玉乗りをしている狛犬だ。獅子舞の獅子頭に似ているが、とても愛嬌のある顔立ちだ。気に入って購入してしまった。

作者は木村陶峰さんという方で、木村姓は藩が許可した窯元六姓の第1に位するものだ。現に重要文化財に指定されているような備前焼の狛犬の制作者は木村何某という銘が刻まれている。私の購入した小ぶりの狛犬もそこらの土産物屋さんで売っている大量生産のものではなく由緒正しいものだとそう思っても許されるだろう。

窯元の並ぶ通りから北に忌部神社に向かう細道を登るとほどなく備前市指定文化財「天保窯」が見えてくる。その名の通り、天保期に作られた備前焼の古窯で昭和15年まで使われていたという。17.5mにわたり7室が傾斜に沿って階段状につながって一つの窯を形成している。窯全体が保護屋根で覆われ、周囲を金網の柵があるため、窯の内部を伺い見ることはなかなかむずかしいが、備前焼の工法を想像するには十分だ。さらに丘を登れば、国指定史跡「伊部北大窯跡」の案内板がある。丘といっていたが標高235m不老山の南斜面だったのだ。

案内板によれば、全長35m、幅5m、傾斜角度20度の大窯で室町期にできたらしい。天保窯の全長が17.5mだったことを考えるとこの北大窯のスケールの大きさは推して知るべしだ。さらにもう1本並行して大窯が存在してとも記されている。伊部駅の南に伊部南大窯、町の西のはずれに西大窯もあり、ものすごい焼き物の生産量を誇っていたようだが、江戸時代後期には藩の保護の減少や燃料の関係で大窯は廃止され、いくつかの小窯に置き換わったのである。さっき見た天保窯がその一つだった。

坂道をさらに進むと左手に古色蒼然とした建物が見えてくる。忌部(いんべ)神社である。鳥居もなく狛犬もいないのが残念だった。というのもこの神社はすぐ東にあるこの地域の氏神、天津神社の末社であり、窯元六姓の窯元たちが備前焼の末永い繁栄を願って祀ったものだったのだ。

天津神社の鳥居は窯元やお店が並ぶ通りに面してあり、その両側には備前焼の狛犬が鎮座している。神門・随神門の屋根瓦は備前焼製、参道脇に備前焼窯元作家らの奉納品多数置かれていて見ごたえがある。

忌部神社からさらに登ると少し開けた台地に出、宮山展望台がある。展望台から眺めると忌部の町並みが一望され、ところどころに立つ赤煉瓦の煙突がこの町を象徴している。

山を下り伊部駅前の駐車場に戻る。建物に備前焼の壁画があったりするが、「祝、備前市から『世界で一番に』、ロサンゼルス・ドジャース 山本由伸 投手」という大きな垂れ幕がいくつもかかっている。そう、山本由伸投手は伊部小、備前中学出身で(高校は宮崎の都城高校に進んだけれど)間違いなく備前市のヒーローなのだ。

車から岡山駅近くのホテルの宿泊予約をする。ちょうど1室空いているということで、午後5時チェックインの予約を入れる。午後3時だから少し東に戻る旧閑谷学校を目指すことにする。

車で20分行くと、旧閑谷学校に着いた。楷の木が門前にある一軒家と勝手に想像していたが、とんでもない。まず駐車場が広い広い。前庭を流れる川にかかる石橋を超えて校門にたどり着く。学校全体を取り囲む765mにも及ぶ石塀は、ちょっと他では見られない光景だ。美しく冷たさはない。構内で一段と目立つ講堂、入母屋造り、しころ葺きの大屋根と火灯窓(かとうまど 上部が尖頭アーチ状の窓)が独特の外観を示している。創建当時は「茅葺き」だったがその後改築され堅牢な「備前焼瓦」に葺き替えられた。国宝である。構内奥には生徒たちが学んだ学房跡が資料館として使われ、学校の由来、貴重な資料が展示されている。岡山藩主池田光政が世界最古の「庶民のための公立学校」を創建したのだ。儒教を学ぶことがこの学校の基本であり、孔子像を祀る聖廟、創始者池田光政を祀る閑谷神社が校門を入った真正面奥に並び建てられている。聖廟の前の2本の楷の木は、中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り苗に育てられた内の2本だという。私はこれが一番見たかったのだが、残念ながらまだ若葉も出ていない時期だった。

岡山駅近くのホテルに泊まったその翌日は、47年前の吉備路めぐりを再びなぞってみることにした。47年前は岡山駅から吉備線に乗り、備前一宮駅で降りて駅前のレンタサイクルを使って吉備路めぐりをスタートさせた。

今回は車である。その前に腹ごしらえをしないといけない。岡山駅ビルの飲食店はまだ開店していないので、駅構内にある「うどん処吉備」に入った。駅うどんだが立ち食いではなく椅子席である、私は「肉きんぴらうどん」640円、相方は「朝うどんセット(うどん、明太子ご飯、きんぴらごぼう)」550円である。朝食も取れて安心し、駐車場に戻り車をスタートさせた。

備前一宮駅のすぐそばの吉備津彦神社に車を止めた。本殿の拝観に向かう前に、鳥居をくぐり直し、歩いて備前一宮駅、そしてレンタサイクル屋さんを見に行った。47年前の駅前の光景とあまりにも違っていた。古い木造駅舎が味気のないコンクリート製になっている、これは仕方ないだろう。しかし駅前にあったはずの貸自転屋さんは駅に隣接する殺風景なウエドレンタサイクルとなり1300円の料金は1500円(電動なら2800円)になっている。自分の中にあったほんわかとしてそれでいてワクワクするような47年前のイメージが消されてしまった。

気を取り直して吉備津彦神社の参拝だ。大きな鳥居の両側には立派な備前焼の狛犬が蹲踞している。向かって右側は阿形、左側は吽形だ。どちらも苦み走った厳しい顔をしている。大きな神池の真ん中を正面参道が随神門へと延びている。右側の神池には靏島があり風の神を祀る靏島神社がある。左側の神池には水の神を祀る亀島神社のある亀島と、古代祭祀場の環状列石のある五色島がある。

随神門をくぐると高さ11.5m笠石8畳の巨大な大燈籠が左右にある。47年前、不謹慎にも二人燈籠に座って記念撮影をしていた。ごめんなさいだ。広い階段を上がると立派な拝殿がある。ここはよく覚えていた。その後ろに祭文殿、渡殿があり、三間社流造の本殿が控えている。主祭神は大吉備津彦命で、崇神天皇の御代、四道将軍として当地を荒し回っていた温羅(うら)を討ち従え、吉備国を平定し神とあがめられたのが当社の始まりだと由緒書にはある。

拝殿の前には一対の備前焼の狛犬がある。大鳥居前の狛犬に比べるとだいぶ小ぶりである。右の阿形も左の吽形も、ともに目をむき鼻の穴をおっぴろげている。前肢後肢とも指趾そして爪もしっかりと細部まで造形されている。石造りではなく備前焼ならではだ。

境内は広く多くの摂社・末社がある。朱塗りが目立つ子安神社は名君池田光政公の生誕にまつわる神社で、慶長年間に再建されたものだ。その横には七つの末社が並ぶ。この後訪問する予定の鯉喰神社もその中にある。

天満宮もあり、菅原道真が左遷され太宰府に赴く道中に当社に立ち寄ったという由縁から古くからあったという。

本殿の反対側、吉備の中山に通じる道沿いにも多くの末社がある。吉備津彦命に討ち取られ後に従者となった温羅を祀る温羅神社、討伐に活躍した従者二人を祀る神社もある。鬼(温羅)退治の桃太郎(吉備津彦命)の家来の犬、猿、キジになぞらえられた人たちを祀っているのだろう。

この山路を1㎞ほど行くと当社の元宮である磐座や龍神社がある。そこまで行かなくても龍の授与品は拝殿横で貰うことができる。

さあ吉備津彦神社を後にして次の目的地、吉備津神社に向かう。この似た名前の二つの神社の関係はどうなっているのだろうか。前回47年前の旅ではそういうこともあるのかなあ程度でよく理解できていなかった。今回は少し詳しく理解したいものだ。

ここまで来て誌面は一杯になってしまった。吉備津神社からの案内は次回に回すとしよう。

 


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