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続D級京都観光案内 10

番外編 備前焼狛犬に誘われて吉備路へ 2

吉備津彦神社を参拝の後、車で国道180号線を行くとわずか10分足らずで吉備津神社の駐車場に到着した。車で快適に走らせた分、この交通量の多い国道は自転車ならちょっと怖くて走れない。47年前の吉備路の旅はもっとのんびりサイクリングを楽しめたものだ。それはどの道だったのだろう。家に帰ってから調べてみると、「吉備の中山みち」という旧街道筋が二つの神社を結んでいる。前回は確かにこのコースをゆっくり自転車で走ったのだ。

駐車場への入り口辺りに「官幣中社吉備津神社」という立派な石に彫られた社号標がある。駐車場から北参道に向かうと手水舎のすぐ隣に竹囲いされた大きな平らな苔むした巨石があり、矢置岩と呼ばれる。その名の由来はこの神社の祭神である大吉備津彦命がこの地方で蛮行を重ねていた温羅(うら)を平定する戦いのときにこの岩に矢を置いた(戦闘の口火を切った)ことにある。

正月三日、この矢置岩におかれた矢を射手が四方に空中高く放つ矢立の神事は、四方より来る災禍を祓いその年の安寧を祈る行事である。これは大吉備津彦命すなわち桃太郎が温羅という鬼退治をする桃太郎伝説を神話化した行事ともいえる。

 先に訪れた吉備津彦神社の主祭神は大吉備津彦命であり、そこでも桃太郎伝説のもとになっていると由緒書きにあった。しかし、大吉備津彦命が温羅を平定した、いや鬼退治をしたという物証はなかった。ところがこの吉備津神社には戦いの矢を置いた巨石という物証がある。どうもこちらの吉備津神社の方が大吉備津彦命を最初に祀った神社らしい。

 吉備津神社の由緒書には三備一宮とある。三備とは備前、備中、備後を合わせた呼称である。社伝によると、仁徳天皇の御代、大吉備津彦命を吉備国の祖神として祀り神殿を創建したことに始まるという。大化の改新の時、あまりに強大だった吉備国は備前、備中、備後の三備に分割された。その後、備前一宮として吉備津彦神社が建てられたというわけだ。ちょうど車で走ってきたところに備前備中の国境が設けられていた。

 北参道を上がると朱色の華麗な北随神門がある。ちょうど結婚式の前撮りが参道で行われていた。主人公の二人以外にクルーは56人もいただろうか。神聖さと華やかさを演出するにはもってこいの場所だろう。北随神門は室町中期に再建だれた重要文化財だ。この門をくぐり更に十数段階段を上ると拝殿・本殿に到達する。

 拝殿を左に進むと広い広場があり、その奥に社務所がある。振り返り拝殿・本殿を眺めるとその壮麗さに驚かされる。切妻の2棟を平行に並べ、下部を寄棟造りの構造、すなわち前後左右に勾配を持つ屋根で結合している、「比翼入母屋造」、別名「吉備津造」と呼ばれる様式である。記念撮影スポットとしては最適で、47年前のわれわれ二人もきっちり写っていた。ただ最近は二人そろっての写真などまず撮らないから、今回の写真は美しい建物しか写さないつもりだった。でも記念撮影する何組もの人たちがどうしても映り込んでしまっている。仕方ない事だ。

 左奥一段と高いところに、一童社という学問・芸能の神様を祀る神社がある。47年前もここの蔵の前で記念撮影したようだが、あまり記憶にない。絵馬の祈願トンネルなるものができていたが、当時はきっとなかったはずだ。

 拝殿前に戻り、歩を進めると全長360mにも及ぶ、やや下り勾配の廻廊がある。これまた壮観である。ところが恥ずかしい事に47年前の参拝の時、通った記憶はない。わが女房も全く記憶にないと言う。どういう訳か二人はここをスルーしたようだ。惜しい事をしていた、面白いところ満載なのだから。

 廻廊を少し行くと朱塗りの南随神門(当社最古の建造物)があり、さらに進むと「えびす宮」「岩山宮」「御竈殿」「三社宮」それぞれに進む階段あるいは廻廊が分かれてある。廻廊の南端には旧社務所門、「官幣中社吉備津神社」の古い石標があるから、かつてはここも参道入り口だったのだろう。

 ここに「本宮社」があり、吉備津彦命の父母神を祀っている。備前焼ではなく、古い石像の2対の狛犬がいる。1対は相当古い時代のもので左の吽形には角がある。もう1対はそれよりも時代が下った狛犬のようだが、阿形も吽形も共に玉乗りだ。

 御竈殿は釜の鳴動で吉凶禍福を占うという鳴釜神事で有名で、TVの旅番組でしばしば取り上げられている。大吉備津彦命の鬼(温羅)退治に由来する伝承がある。ミコトは捕らえた温羅の首をはねて曝したが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むことがなかった。そこで困ったミコトは家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしたが唸り声は止まず、仕方なく当社の御竈殿の釜の下に埋めてしまった。それでも、唸り声は止むことなく近郊の村々にまで鳴り響いた。ミコトは困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて、『(口語訳すると)私の妻の阿曽郷の神社の巫女、阿曽媛にミコトの竈殿のご飯を炊かせなさい。もし世の中に事あるときは竃の前に坐って耳を澄ませなさい。幸があるならゆったり鳴り、禍がある時は乱調に鳴るだろう。ミコトは死後、霊神となりなさい。私は第一の使者となって四民に賞罰を与えます』と告げた。ミコトはそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れたという。勝者は敗者を弔わなければいけないよという、古代から近世に至るまで延延と日本において受け継がれた文化だろう。

 47年前、私たちは自転車に乗って、吉備津神社から西国街道を西に向かった。のどかな田園風景が広がり、特に当時名産のイグサ畑もあり、稲わらを干すようにイグサを干していた。そこから顔をのぞかせバッチリ記念撮影したものだが、もしイグサ畑が残っているならもう一度この目で見たいと思っていた。それはあまりにも甘い思いだった。47年の間の産業構造の変化を全く無視した夢想でしかなかったのだ。

 車をどんどん走らせてもイグサ畑なんかどこにも出てこなかった。そもそも走っているのは西国街道ではなく、新たに作られた快適な国道だったのだ。足守川を渡ったところでナビに導かれて細い古い街道に入り、次の目的地、鯉喰神社の鳥居前にやってきた。古社で駐車できるような敷地はない。仕方ないので隣接する宝泉寺の境内に車を乗りこませた。ものすごい急坂でわが愛車のおなかをしこたま擦ってしまった。ここの住職は高野山に10年もいたといういい方で、快く駐車させて下さり、御朱印も書いて下さり、しかも車を出すとき腹を擦らないようしっかり誘導して下さった。

 さて鯉喰神社だが、立派な縦長の自然石の社号標があり、鳥居の前には一対の備前焼の狛犬が蹲踞している。鳥居をくぐり本殿に続くところに古い石像の狛犬がいる。阿形、吽形とも玉乗りである。社殿は天保年間に造営されたもので、神社全体が日本遺産に登録されている。

 大吉備津彦命と温羅との戦いは、ミコトが吉備津神社から矢を放つという形で始まり、北西の鬼ノ城あたりに根城を持つ温羅が大岩を投げて防戦した。激戦になったのは、中間に位置する矢喰神社あたりだったのだろう。岩が矢を跳ね返し(矢を食った)、落ちたその場所に矢喰神社が祀られたという。しかしミコトが2本の矢を同時に放ち、温羅の左眼を射抜くことができ、血だらけになった温羅は川で血を洗い流し(その川は血吸川という名で、実際に近接してある)、かなわないと鯉に変身し逃げたのだ。ミコトは、すぐさま鵜に変身し追いかけ、この地で鯉を食いあげたのだ。

 村人はあらゆる鬼・災難を取り除いてくれるものとして、ここに鯉喰神社を建立したと伝わっている。

 神社前の道は狭いといったが、実は西国街道そのものだった。47年前は自転車でも安全に走れたし、路線バスも走っていた。「千足」という名のバス停を見つけて、大喜びして記念撮影をしたものだ。読み方は「ちたる」ではなく「せんぞく」だが。この一帯には古墳群があり千足古墳もその一つである。すぐ北に造山古墳の主墳丘がある。全長350mの全国第4位の規模を誇る前方後円墳で、立ち入りできる古墳としては国内最大である。駐車場もある造山古墳ビジターセンターに行けば、これら古墳群の全容が分かり易く展示されている。47年前にはこの古墳に上っており、はるか下に広がる田畑や家々を眺めたはずである。古墳の前方部には荒(こう)神社があり、神社なのに鐘つき堂があり、そこで鐘をつくポーズをとって写真に収まっている。放置されていた石棺の蓋の破片もあり、この古墳の埋葬者を知る一つの手がかりになる重要なもののようだ。遠く離れた九州熊本から産出する岩であるらしい。

 今回は西国街道など通らず広い国道を走ったものだから千足バス停も造山古墳も見当たらずどんどん西に向かった。広い田園風景の中にそびえる五重塔が見えてきた。備中国分寺の五重塔である。真正面に五重塔を見る国道沿いに「吉備路もてなしの館」があり、その駐車場に車は停める。ここから国分寺、五重塔に続く道は一般の車は通れず、自転車か徒歩で行くことになる。昔懐かしいレンゲや菜の花畑の中を行くと、広場では保育園児たちの遊ぶ姿が見え、五重塔を背景に自転車とともに記念撮影している二人連れ、そぞろ歩きの人たちでなんとものどかな気分にひたれる。

 現在の国分寺は江戸時代の再建であり、真言宗の寺院である。五重塔は高さ34.3m、最近は観光用に夜間ライトアップもされるようだ。奈良時代に創建された国分寺跡は現在の寺の境内にあり、国分尼寺跡は600m東方に位置する。

 五重塔前の畑には夏にはヒマワリ、秋にはコスモスがあたり一面に植えられ、絶好の撮影スポットになっている。47年前は五重塔のすぐ下の広場でつくし取りに興じることができたのだが、全く同じ時期にやってきた今回はつくしのつの字も見当たらなかった。思い出をこよなく愛する私にとってはとてもつらい事だった。

 吉備路もてなしの館では食事もできちょっとした特産品を買うことができる。反対側の南に行くと三宅酒造所という蔵元がある。地酒を買おいとそこに立ち寄ったが、あいにく定休日で店は閉まっていた。これも残念なことだった。店の前の狭い道は単なる田舎道ではなく、何やら旧街道の風情を呈しているのだ。石の道標や何とかの宿であったという案内板も残っている。そう、これがさっきの鯉喰神社前から続く西国街道・旧山陽道そのものだったのだ。ということは47年前自転車でここにやってきて、そして北の国分寺に向かったのだろう。

 何か得心して、帰路につくことにした。最後にもう一つの戦いの跡である、備中高松城址公園を経由した。天正10年羽柴秀吉が毛利軍と戦い、水攻めの奇策で高松城を水没させ、城兵の命と引き替えに城主清水宗治は切腹し和議は成立した。この後秀吉は「中国の大返し」で明智光秀との山崎の戦いに急行したのだった。私たちも同じく大阪の我が家に急行した。山陽自動車道を通ると2時間半後にはもう着いていた。

 


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