「きもい」と「気持ちかった」
日本語は揺れている。変化しているというほうが正しいのかもしれない。私は言葉に関しては保守的なほうだ。従来からの用法と違う言い方や今風の語尾上げ・アクセントの違いにも気になるのだ。それも否定的な意味で気になるのだ。 |
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そうは言うものの私は精神科医である。その人の言葉の使い方に好き嫌いなんか言っていたら精神科診療に携わるものとして失格である。言語的コミュニケーションが精神科医療のまず原点である。患者さんがどのような言葉でどんな調子で話をするかは医者にとってまず大きな情報源であり大きな診断材料である。こちらが話す話し方、どんな言葉を使うか、敬語を使うか砕けて言うか、共通語で言うか関西弁で言うかそれがすべて治療に影響する。自分ではその患者さんのその時の状態に合わせた言葉遣いをしているつもりだが、患者さんに不快感や不信感を与えているかもわからない。 |
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相手に共感する一番手っ取り早い方法はオーム返しである。カウンセリングの一手法になっているぐらいである。したがって若者を診察するときは、彼らの話す若者言葉をそのまま使って話をすることが常である。 |
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ある拒食症の女子高校生の診察。 「お姉ちゃんは?」「ムカつく」 「そう、ムカつくの。お母さんは?」「口うるさい。」 「そう、口うるさいの。お父さんは?」「ムカつく。いろいろ喋ってくる。」 「そう、いろいろしゃべるのでムカつくんやね。学校の先生は?」「ほとんどムカつく。」 「友達は?」「クラスの中にもムカつくやつがいる。」 |
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この女子高校生の感情表現は「ムカつく」しかないのだろうか。いや「ムカつく」という感じ方しかしないのだろう。いや表現の貧困ではなく感情の貧困なのだろう。 |
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ある男子中学生は友達から「キショイ。 キショイ。」と言われたのが不登校のきっかけだという。「キショイ」というのは「気色悪い」の省略形から出た言葉で、意味もほぼその通りと思われる。同様に「キモイ」は「気持ち悪い」の省略形でその意である。 |
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診察室にやってくる中学生や高校生の中には、極端に会話にならない子ども達もいる。大体は親に連れられて嫌々きた子ども達である。その子達の発する言葉は短い。「別に」「キショイ」「キモイ」「ウザい」「うざったい」。 |
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インターネットで「若者用語・使ってる?辞典」というページがある。これで調べると、「ウザい」は「なんか、相手がいなくなったら、とか、邪魔だと思った時に使う」とある。「うざったい」は「うざいの意味。くどい、しつこい、うっとうしい」と解説してある。 |
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思うに「ウザい」は「うるさい」「うっとうしい」という感じを「うさい」と短縮形にし、うっとうしい感じを語感として伝えるために「さ」を「ざ」と濁音化して「ウザい」としたのだろう。この形容詞を形容動詞化したのが「うざったい」なのだろう。こんな国文法を考えてしまう保守派の大人は中高生からは「うざったい」と言われてしまいそうであるが。 |
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否定的な単語ばかりを上げたが、「気持ちかった」「こくる」という肯定的な若者言葉もある。前者は「気持ちよかった」、後者は「(好きだよと)告白する」である。 |
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ここで挙げた若者言葉はどれも省略形である。省略形にすることにより自分たちだけ通じる言葉にしているのである。だからといって、「やはり最近の若い者は」と安易な納得をしてはいけない。自分たちの仲間内だけで通じる省略形や符牒を使うという手法はどの社会でもあるのである。現にわれわれ医者たちも、「オペ」「プシの患者」「シゾ」「レセ」と使い、特に若い医者たちはADHD(注意欠陥多動性障害)、OCD(強迫性障害)、SAD(社会不安性障害)、と何でもアルファベット何文字かにしてしまう。 |
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省略形や符牒は通じ合う仲間内ではすばやく伝えることができ、しかも部外者には秘匿性を保つという特性がある。ある社会ができれば必ずその社会にだけ通じる省略形や符牒ができるのは必然の流れなのだ。だから省略形を使っていることだけを取り上げて、たとえその省略の仕方がいかにわれわれ大人と感性を異にしていようとも「今時の若者は」と切り捨ててはいけない。われわれもやっていることなのだから。 |
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しかしどうしても気になることがある。「キモイ」と「気持ちかった」と対立する省略形があることである。「気持ち悪い」と「気持ちよい」がなぜ別々の省略形にされるのか。これには若者の心のありようが私たちのそれとは違ってきているように思えてならないのだ。 |
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私たちの心は快も感じれば不快も感じる。快から不快へは連続的である。時には快も不快も混じることがあるだろう。それを表す表現として「気持ち」を用い、「気持ち」が「よい」とか「悪い」とか表すのである。状況により(気の持ちようにより)気持ちはよくもなり悪くもなるのが前提としてあるのだ。状況(気の持ちよう)を変えることにより気持ちを悪い方から良い方に変えることができると当然のように思うのである。 |
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しかし「キモイ」と「気持ちかった」を使い分ける若者の心では、「気持ち悪い」という感情と「気持ちいい」という感情が別の次元の感情として存在しているのではないか。そこには「気の持ちよう」など入る余地がない。気持ちの悪いものは気持ちの悪いものでしかなく気持ちよくはならないのではないか。気持ち悪いと気持ちいいが分割されてしまっているように感じられるのだ。 |
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白黒をはっきりつけてしまわない心のもつあいまいさ・可変性が環境・状況への適応性を示すと私は信じている。すぐ「キレル」若者の心では気持ち悪いと気持ちいいが分割されてしまっているように思われて仕方ない。しかも「キモイ」が「気持ちよい」ではなく「気持ち悪い」とあえて否定的な意味の方の省略形にした若者たちの心の有様が私にはつらい。 |
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