D級京都観光案内 39 北野天満宮
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天満宮は学問の神様菅原道真を祭神とし、天神さまを祀るもので天神社とも言われ、全国1万2000社あると言われる。その総本社が北野天満宮であり、親しみを込めて「北野の天神さん」「北野さん」と呼ばれる。「北野さん」と言ってもお笑いから映画監督まで何でもする「たけし」のことではない。とは言うもののこの頃の北野武の活躍を見ると、彼ってひょっとして菅原道真の生まれ変わりではないかしらと思ってしまうが。
北野天満宮に関連することは京都検定の頻出事項である。それほど北野天満宮は京都の観光、文化そして歴史と深い関係を持っているのだ。すなわち見どころの多いところなのである。
北野天満宮は今でこそ学問の神様として、学業成就、書道上達にご利益があり、受験合格祈願の最も権威ある神社となっているが、もとはと言えば菅原道真の怨霊を鎮める、皇城鎮護の社として建てられたのだ。
御霊神社というのは各地にあるが、これらはすべて誰かの怨霊を鎮めるために祀られたものだ。白峯神宮、崇道神社も怨霊を鎮めるための神社である。北野天満宮もまた怨霊を鎮めるために建てられたということだ。
菅原道真は幼少期より神童の誉れ高く、長じて文章博士と学問の道で最高位に着くとともに、政治の世界にもかかわり、宇多天皇に重用され、家格を越えてどんどん位階を上げた。次の醍醐天皇の時代には、左大臣が藤原家の時平、そして右大臣が道真と肩を並べるまでになった。
家格を越えて昇進した道真はいわば改革派であり、時の最大勢力の藤原家、更には急速な改革には懐疑的な有力貴族及び中小下級貴族たちの反発を買うことになる。醍醐天皇を廃して宇多天皇の息子であり道真の娘婿にあたる親王を天皇にしようとしていると讒言され、怒った醍醐天皇により太宰府に左遷されるのである。
「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」とこよなく梅を愛した道真はこの歌を詠んで太宰府に下ったが、その2年後に失意のうちに亡くなったのである。
その直後から藤原時平一門に不慮の災いが起き、地震災害、天候不順による農作物の不作、疫病の流行、清涼殿の落雷により朝臣の頓死にまで及び、3か月後には醍醐天皇も亡くなってしまった。
もうこれは菅原道真の祟りだとの噂が広がり、さらに清涼殿に落雷があったことから菅原道真の怨霊は「天満大自在天神」という雷神になっていると信じられるようになっていた。
道真の死後29年後、右京七条に住んでいた多治比文子(たじひのあやこ)に天神となっていた道真の神託(お告げ)があり、近江比良宮の神主良種、北野朝日寺(現在の東向観音寺:北野天満宮のすぐ西に隣接する)の僧・最鎮らの協力を得て当地に神殿を建てたのが創始とされている。
その後何度も火災にあい、現在の社殿は豊臣秀吉の遺命を受け、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として建立したものである。本殿(国宝)と拝殿(国宝)を石の間で結び、左右に楽の間がある。権現造あるいは八ツ棟造という複雑な構造をしており、豪華絢爛の桃山文化の遺構である。日光東照宮など徳川家で用いられた様式なので権現造の名がある。
北野天満宮は室町時代足利幕府の崇敬を受け、桃山時代には豊臣秀吉に愛され、江戸時代には学問の神様として人気を博し、多くの寺子屋が分霊を祀ったという。当然庶民が多く境内を訪れることになったので、いろいろな催し特に芸事に関連する催しが行われ、歴史上大きな意味を持つことになる。
その歴史にも思いを馳せながら、ゆっくり境内を回ってみよう。今出川通に面して巨大な一の鳥居がある。この大鳥居をくぐって、すぐ右手に石垣で囲まれた一本の松がある。影向松(ようごうまつ)と呼ばれ、「天神さんの七不思議」のひとつである。創建当時からこの地にあると伝わり、立冬から節分までに初雪が降ると天神さまが降臨され、雪を愛でながら詩を詠まれるという伝説がある。ちなみに影向(ようごう)とは神仏が姿を現すことをいう。
参道をさらに進むと右手に太閤井戸がある。豊臣秀吉が天正15年に催した「北野大茶湯」で水を汲んだ井戸と伝わる。大茶湯は千利休はじめ当代きっての茶人らが茶頭を務め、貴賤身分を問わず抽選で公平に客人になる順番を決めて茶をふるまった。さらには秀吉自らも茶頭となり茶の心得のあるものにはみずから茶をふるまったという。この時長五郎餅、真盛豆が秀吉から茶に合う菓子と称賛され、名物になっている。
長五郎餅はこし餡を薄い餅皮で包んだもので、やけに甘い。毎月25日の天神さんなど行事のある日は東門近くの境内茶屋で買うことができるが、そうでない日は一の鳥居から南に向かう広い道・中立売通を一条通まで下がり、少し東に行ったところにある本店で買わないといけない。
真盛豆は炒った黒豆を州浜粉で包み、表面に青のりをまぶしたもので、室町時代、天台真盛宗の開祖真盛上人が北野で辻説法をするとき炒った黒豆に乾燥させた大根の葉をかけ、聴衆にふるまったことに由来する。下長者通りにある金谷正廣菓舗で売っている。
大津坂本にある明智光秀ゆかりの西教寺には光秀一族の墓もある。西教寺は真盛天台宗の総本山でもあり、寺務所で真盛豆を買うことができる。天王山の戦いで光秀を滅ぼした秀吉は、真盛豆を茶に合う銘菓だと褒めた時、この豆と光秀の間にこんなつながりがあったことを知っていたのだろうか。
ところでこの大茶湯、はじめは10日間ぶっ通しで行うとお触れが出ていたのに、たった1日だけで終了になってしまった。自分の権勢を都のすべての人たちに見せつけようとした思惑が外れ、予想外の不人気で人が集まらなかとことに秀吉がへそを曲げたのだろうと、一説には言われている。
参道の左手に末社・伴氏社(ともうじしゃ)がある。道真の母を祀ったものだが、道真の母が伴氏の出身であることから、この名がある。小さな祠の前には立派な石造りの鳥居があり、その台石に仏教を暗示する蓮弁が彫られている。京都三珍鳥居(蚕ノ社の三柱鳥居、京都御苑・厳島神社の唐破風鳥居)の一つである。
参道をさらに進むと楼門に来る。楼門の上部に掛けられた額には、「文道大祖 風月本主」の文言が刻まれている。同時代の学者たちが菅原道真に送った賛辞である。
楼門を越え、まっすぐ行ったところには本殿はない。摂社の地主社がある。本宮創建の前からある社であり、それに遠慮して本殿は少し西にずらして建てられたのである。右手に立派な唐破風の宝物殿がある。国宝「北野天神縁起絵巻」など当宮の所蔵する宝物を毎月25日や春秋の特別公開期間には入館見学することができる。絵巻の中の「清涼殿落雷の図」は見所である。
楼門に入ってすぐ左に進み、一杯絵馬のかかっている絵馬所の前で右に折れ、まっすぐ本殿の方に向かうことになる。中門のすぐ手前の右側に火之御子社がある。火雷神を祀り、雷除け、五穀豊穣の神徳があるという。夏場ゴルフに行く前には拝んでおけばよさそうである。
中門は、日・月・星の彫刻があることから三光門と呼ばる。ただ、実際には星の彫刻はなく、「星欠けの三光門」として「天神さんの七不思議」に数えられている。かつて大極殿からこの方角を望むと北極星がこの門の上に輝くことから星の彫刻はいらなかったと言われている。中門は桃山時代の豪華な建築様式で、重文に指定されている。
あとまっすぐ行けば拝殿・本殿である。拝殿を右に行き、楼門からまっすぐ続く参道に入り、左に(北に)拝殿・本殿の側面を行くと、地主社に出る。さらに北に行き北門の少し手前に文子天満宮がある。多治比文子が道真の神託を受けた時、自宅に小さな祠を作り、道真公を祀った。のちに北野天満宮が創建されたとき、文子宅に神殿を造り、文子天満宮とされた。一度別地に遷座したが、明治になり当地に戻ってきたものという。祭神は道真である。
ここから本殿の裏側とずらっと並ぶたくさんの摂社の間を通って西に行くことになる。本殿の裏側は、「裏の社」と言って、道真公に背を向ける形で父君などの3神が北を向いて「御后三柱(ごこうのみはしら)」として神座している。すなわち本殿の裏側も拝んでおきなさいと言うことだ。
西に突き当たったら南に向かう。本殿を囲んで50もの摂社・末社がある。本殿の再建に貢献した豊臣秀吉、先祖である野見宿禰、この地に千本の松を植えるのに貢献した家臣の島田忠臣(老松社)が祀られる中に文子社というのもある。ここの祭神は多治比文子その人である。同じ末社でも文子天満宮との違いはそこにある。古代からのいろいろな神々も祀られているが、御霊神社に祀られる悲憤慷慨しながら亡くなった天皇・皇族・朝臣たちも一柱ごとに祀られているのはこの神宮の由来を考えると、なるほどなと感じ入ってしまう。
菅原道真の誕生日は6月25日、命日は2月25日である。毎月25日が縁日とされ「天神さん」と知られる天神市が開かれ、境内一円に露店が多数並ぶ。一年最初の縁日を「初天神」、一年最後の縁日を「終い天神」と呼び、例月より多くの露店が並び活況を呈する。
2月25日には梅花祭と梅花祭野点大茶湯が開かれる。梅苑では梅が見頃を迎え、中門前では上七軒の芸妓さん達による野点のお茶がふるまわれる。上七軒の芸妓さんが出てくるのには訳がある。上七軒は京都五花街中、最も古い歴史を持つ。室町時代、北野天満宮修造の際、余った用材で7軒の茶屋を建てたのが始まりである。上七軒の名前の由来もそこにある。北野大茶湯の時、秀吉の休憩所にもなり茶屋株が許されたという歴史がある。
同じ室町時代、道真が「学問・文芸の神」とされ、社殿では文人が集まり連歌の会を開いていた。時代は下り、江戸時代初期、出雲阿国が、社前で初めて「かぶき踊り」を披露し、「歌舞伎発祥の地」とも言われている。
江戸時代中期には当宮境内で、露の五郎兵衛(つゆのごろべえ)が、辻ばなしを口演していたのが落語の発祥とされている。
豊臣秀吉は軍事的防護のためと、鴨川の氾濫から守るため都の周りを高さ約5m、底辺幅約10mの土塁を造りその外周に堀を掘らせた。この土塁を御土居(おどい)と呼ぶ。御土居により洛中洛外が分けられた。
御土居跡は史跡となっているが、最も規模が大きく原型に近いのが、天満宮境内の御土居モミジ苑である。青もみじと紅葉のシーズンには一般公開され入園することができる。
御土居跡を流れる川は紙屋川であり、御土居の堀の役目も兼ねていた。紙屋川の名の由来は平安時代「延喜式」で公文書・仏教経典用の紙を漉く技術者たちを取りまとめる紙屋院が近くに置かれていたからである。紙屋川は下流に行くと天神川と名を変える。北野の天神さんのそばを流れてきた川だからその名がある。
もう紙面がなくなった、周辺の食べ物屋については次号に回さなければ仕方がない。
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