D級京都観光案内 34

古知谷阿弥陀寺

 11月の京都は紅葉が美しい。美しいものだからわれもわれもとみんな見に行く。だから11月の京都の観光地に行くのに尻込みしてしまう。これは当然の反応である。穴場はないかネットで探すことになる。ところが誰もがネットで検索する時代、ネットで見つけた穴場は有名観光地並みに誰もがもうすでに知っているのだ。

かくして京都の紅葉を見に行くと、やはりどこも観光客で一杯である。紅葉を堪能するにはどうするか。「そんなのは無理だったとあきらめる心」を持つ覚悟をもって観光するしかないのである。あるいは紅葉真っ盛りではない時期に訪れ、心の中で「ああこれが紅葉真っ盛りだと何と素晴らしい景色だろう」と想像力を高めるしかないのである。

そんな中でD級京都観光案内として自信をもって紹介するのが大原古知谷阿弥陀寺である。大原三千院をさらに滋賀県側に行ったところにある。公共交通機関で行くとなると京都駅から京都バスを大原で乗り継いでいくか、地下鉄「国際会館前」から京都バスで行くかになる。バス停から山門まではそう遠くないが、山門から本堂までの坂道はえらく長くしんどい。かくして車で行くことを選択しよう。

都道府県駅伝や男子高校駅伝でおなじみの白川通りを北に進む。これまたおなじみの叡山電鉄の跨線橋を越えたあたり花園橋の信号を八瀬方面へと右折する。高野川の左岸を走るが、ほどなく右岸にわたる橋がある。渡ったところを少し戻ると三宅八幡宮の赤い大鳥居がある。三宅八幡宮の茶屋で売っている鳩餅を食べたくなったら、帰りにちょっと寄り道をすればいい。

大原街道を高野川の右岸に沿って進もう。ほんの少し行った左手に蓮華寺がある。ここも紅葉の名所である。その隣といっていいところに崇道神社の入り口がある。 こここそ隠れた紅葉に名所である。さらに進むと右手に叡電や比叡山ケーブルの八瀬駅にやってくる。車では行けないが八瀬駅から歩いていくと瑠璃光院という若い人(特に中国人の若い人)に人気の紅葉の名所スポットがある。超人気のため拝観は30分総入れ替え時間制だから気ぜわしい。

八瀬の里には江戸時代に比叡山延暦寺との租税をめぐる争いとかにかかわるいろいろな見どころもあるが、今回もスルーしてどんどん大原街道を行くことにしよう。

三千院に行くには街道を右に分かれていくのだが、その少し手前の信号を左折しよう。その目印は「里の駅 大原」で、新鮮野菜、つくだ煮、しば漬けなどの加工品、弁当類を売っている。軽食を食べさせるところもある。ここに立ち寄り、気に入った物を買っておこう。日曜朝6時から9時までは朝市をやっている。もし来ることができたらきっと素敵な新鮮野菜に出会えるだろう。

里の駅大原を後にして車を北に走らせると、分岐点にやってきて、左に分かれれば寂光院となるが、そのまま道なりにまっすぐ道がやや狭くなるのに構わず進んでいく。大原街道とほぼ平行に西側を走っていくことになる。ほどなく目指す古知谷阿弥陀堂の山門前にやってくる。中国式の山門であり、左には「阿弥陀堂」の駒札があり、右には「弾誓仏一流本山」の石碑が建っている。

ここから本堂まで600mの参道が続き、脇には13段の滝を持つ清流が流れている。両側は鬱蒼とした杉木立で、歩いて行くには相当骨が折れるが、幸い我々みたいなずぼらな人間には山門横の広い駐車場に車を停めず本堂まであと100mぐらいのところにある、車が数台停められる踊り場まで行くことができる。

そこから本堂までの参道は上り勾配で、さらに苔むした狭くて滑りやすい急な石段を昇っていくことになる。左手には清流が流れ、タカオカエデ(イロハモミジ)が両側に植わっている。その中でもひときわ存在感を示すカエデの老木がある。樹齢800年、高さ20m、「古知谷のカエデ」として京都市指定天然記念物になっている。あたりのカエデの数は300に及ぶという。

拝観を受け付けてくれるのは眼鏡をかけた若い真面目そうな僧侶である。平成29年春BS朝日の片岡鶴太郎が非公開文化財を探訪する番組で、鶴太郎にこの古刹の空白の歴史を埋めるべく入山して文献を紐解き再興に励んでいると語った若き僧侶だった。御朱印をもらいながら「テレビを見ましたよ。頑張って下さいね」と特段のお布施はせず、言葉だけで労う私だった。

阿弥陀寺は江戸時代初期慶長14年に弾誓上人の開基による如法念仏の道場である。弾誓上人は穀類などは一切口にしないという木食(もくじき)上人であり、この地で本堂脇の岩をくりぬかせその中で即身仏(ミイラ)となったのである。明治15年ごろ、即身仏は石棺に収められ、現在もそのままであるという。エジプトのツタンカーメン王のミイラみたいなものだ。古代エジプトでは死後にミイラにする作業が行われたが、弾誓上人の場合即身仏になるのを決意した時から松の実と皮しか食べず体全体を脂溶性に変えていった(樹脂化した)というから凄いものだ。医学的にこんなことが可能かにわかに信じがたいことではあるが。日本で最南端の即身仏だそうだ。

本堂に上がる。前に広がる庭はつつましやかだが美しく、さらに今登ってきたカエデが一杯の参道や迫りくる山を借景にして、紅葉の季節ならただただため息の出る素晴らしさだろう。

本堂にはその正面に弾誓上人自作の自像植髪の尊像が安置される。弾誓上人は9歳で出家してから、参篭、念仏三昧の修行を20余年積み、その後諸国行脚で各地を回り苦行修練を重ね、佐渡島で阿弥陀仏を感得したという。まあ俗っぽく言うと阿弥陀が上人の体に降りてきたのだろう。そこで霊木から自身の像を作り頭部には自分の髪の毛を植えたのである。

今われわれの目の前にある像には両耳の近くに少しその髪の毛を認められる程度である。阿弥陀仏ではなくそれが乗り移った弾誓上人の像を本尊としているので、石碑にあった「弾誓仏一流本山」と名乗っているのだ。

正面右わきにはこれまたご本尊である重要文化財の阿弥陀如来坐像が祀られている。鎌倉時代作である。弾誓上人が使っていた法衣、袈裟、念珠や多くの書跡、この寺と関係のある宮家関連の御物が宝物として展示されている。

本堂の左奥に石廟がある。大きな岩をくりぬいた空洞があり、そこには石棺が安置されている。ここに上人のミイラが納められているのだが、明治15年以後は開けられていない。この暗い石廟を覗きこもむと臆病者の私などちょっと足がすくむ思いだが、若い女性にとっては今はやりのパワースポットなのだろうか。

せっかくここまで来たのだから、古知谷阿弥陀寺を後にして、寂光院にも行ってみよう。そう平家物語の最終章、後白河法皇がわざわざ大原まで御幸し、平徳子から剃髪し建礼門院として尼となり隠棲している彼女と涙ながらに話を交わす、その舞台になった尼寺である。

もと来た道を分かれ道のところまで戻り、案内標識に従って右側(北西方向)に進むとほどなく寂光院前にやってくる。石段を昇ると落ち着いた感じの山門があり中に入ると後白河法皇の訪問の当時を偲ばせるという池泉回遊式庭園があり、進んでいくと正面にこれまた人里離れたお寺にふさわしい本堂が建っている。

平成1259日未明旧本堂は全焼し、旧本尊の鎌倉時代作重要文化財の地蔵菩薩立像も焼損した。火災の原因は放火であった。犯人は18lのプラスチック容器に入った灯油をまいて火をつけたと推定されている。誰がどんな目的でこんなことをしたのかいまだ解明されていない。

今の本堂は平成176月に再建され、旧本尊をそっくり再現する新地蔵尊が作られ安置されている。同じく火事で焼失してしまった建礼門院像、お付きの阿波内侍像が木像として再生されて併せて安置されている。

ところで焼損した旧地蔵菩薩像はなるほど表面は黒く焼けただれてはいるものの像内の封入物、3400体の小地蔵像(高さ1015cm)のいわゆる胎内仏は無事だった。焼けただれた地蔵像は樹脂で固めるなどの修復が施され、「木造地蔵菩薩立像(焼損)」として像内納入品ともども重要文化財の指定が継続されている。日頃は本堂より高台にある収蔵庫に保管されているが、特別公開日には拝観することができる。平成29年秋は1028日から115日までがその日である。

建礼門院徳子大原西陵は一旦山門から出て、もと来た道を少し戻ったところにある長い石段を昇りきったところにある。

さあ何か食べないといけない。寂光院の近くには温泉付きであったり、京野菜をふんだんに使うのが売りであったりと食べさせてくれるところはそれなりにあるみたいだ。でもここで紹介するほど詳しくはない。

大原街道を来たのだから思い切って戻り、八瀬も通り過ぎて修学院に近い「やまばな平八茶屋」に行くことにしよう。天正年間、安土桃山時代に初代平八はここに茶店を出したというからもう400年の歴史ある店である。

古い門が素晴らしい。後で女将が教えてくれたところによると、どこかの藩の門を移築したものだという。さらに女将はそこここにある新選組によってつけられた柱の刀傷も教えてくれた。鯖街道として行商人が行き交い、ここでとろろ飯を食べて旅を続けるというスタイルが定着していたようだ。だが幕末、岩倉に隠棲する岩倉具視のところに通う勤王の志士たちがこの平八茶屋によく集まったものだから、新選組に睨まれ、嫌がらせとして刀傷をつけられたのだろうとネットには書いてあった。

文章家としては私が敬愛してやまない夏目漱石もこの店に何度か来ている。「まずい川魚など食い」と辛口の表現だが。美食家の北山魯山人もたびたび訪れている。頼山陽もこの店のことを書いているし、壬生狂言では「やまばな とろろ」という演目があるぐらいだ。

「麦飯とろろ膳」3,500円を注文する。とろろ汁は平八茶屋創業以来のメニューであり丹波産つくね芋を丁寧にすりおろし、昆布と鰹節で作った秘伝の出汁で延ばした後に少量の白みそをくわえているという。麦飯は白米に少し麦をくわえて炊いたものだが、白米は岡山の朝日米を使っているという。これにしゃれた2段の弁当箱の中に酒肴、焚合、小鉢などが入っている結構豪華なものだ。味も良かった。なお刺身が付くと1000円アップ、天ぷらもつけるとさらに1000円アップとなる。

もちろんもっと豪華に行こうとなると昼懐石もあるし、京地焼鰻一匹丼とかいうのもある。

いままで二条城の近く神泉苑平八には何度か行ったことがあった。同じ平八だから本店支店の関係にあるのだろうと思って聞いてみると、女将からは毅然として、まったく関係ございませんの返事だった。

ネットで調べると神泉苑平八が祇園に店を出したのは昭和30年ごろという。こりゃあ平八茶屋とは勝負にならない。いい店を知ることができて今日の旅はおしまいである。


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