D級京都観光案内 15 金福寺、思わぬ出会い
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伊藤若冲生誕300年ということもあり、今年はいろんな展覧会で若冲の作品にお目にかかれるだろう。昨年上半期の直木賞候補作、澤田瞳子の「若冲」を読んだ。高倉錦の青物問屋枡源の主人でありながら早々と家督を弟に譲り絵描きとなって次々と奇抜で大胆かつ精緻な絵を生み出す原動力が、嫁いでほどなく自殺した妻への鎮魂と自責の念を乗り越えることにあったのだという分析になっている。姉を自殺に追い込んだと若冲への怒りを持つ義弟が登場し、姉の仇をとるために若冲の贋作をし、さらには本物若冲以上の絵を描こうとしたといういかにも小説らしい筋立ては私には何か受け入れにくいものがあった。 贋作家の義弟の虚実は別にして、若冲の心の中のあるネガティブな想念の相克がすばらしい芸術の原動力になっていることは間違いない。D級京都観光もネガティブな想念の相克が生み出した歴史を垣間見ることを目指している。「若冲」はD級京都観光を駆り立ててくれるものがある。 小説の登場人物には池大雅、円山応挙その息子の応瑞、与謝蕪村そして裏松固禅と同時代の錚々たる文化人が出てくる。 京都検定的には江戸時代の京都の文人画・人物画の諸流派として押さえておくべき画家たちであり、天明の大火で焼失した御所の再建は時の老中松平定信が裏松固禅の著した「大内裏図考証」に基づき古式通りに行われたことも頻出問題である。 裏松固禅は公家の長男だったが反幕府運動に連座した罪で23歳という若さで何時解けるかもわからない蟄居幽門処分を受け、その怒りのエネルギーが「大内裏図考証」というとてつもない力作を生み出すもとになったのだとこの小説を読んで知ることとなった。「史記」を著した司馬遷みたいじゃないかと感動してしまった。 与謝蕪村は好きな俳人だ。「愁いつつ岡にのぼれば花いばら」を高校2年生の国語の授業で初めて接し、その時の若い女性の先生が「江戸時代というのにまるでヴェルレーヌの詩のようですね」と教えてくれたのに痛く感じ入り、そうか俳句や短歌はこういう風に感じればいいのかと私の頭に刷り込まれた。 与謝蕪村が摂津の国の出身、今の大阪市都島区毛馬の出身と知ったことも文化的にアンチ江戸である私にはうれしいことだった。そんなこんなで愛すべき文人与謝蕪村が、「若冲」の中では貧農の出でその貧しさゆえ苦労したことの劣等感の裏返しとして池大雅や円山応挙に対する強烈な対抗意識を燃やすことになるというように描かれていて、それはないだろうと思いながら読み進み、読んだ後も澱のようなものが心の中に残ったのである。 このあたりの史実はどうなっているのか、ネットで与謝蕪村を調べると、京都一乗寺金福寺に蕪村の墓があるという。今日のD級京都観光はそこを目指すことにする。 一乗寺は京都市左京区にある。宮本武蔵と吉岡一門の決闘で有名な下がり松がある所で知られているが、最近はラーメン激戦区としての方が有名らしい。東大路通りの北大路通り交差点高野を越えて北に向かう一帯はラーメン街道と言われ名の通ったラーメン店の本店がずらりと並ぶラーメン店激戦区だという。ただ天下一本店はそこから東の白川通り北大路にあるそうだ。 その白川通り北大路の少し北を右折してナビや案内図の教える方に行くと金福寺にたどり着く。寺の前の道路が少し広くなっているところが駐車場のようで2台停めるのがやっとのところだ。石段を上り、真っ直ぐ行ったところに拝観受付があるが誰もいない。木槌が置いてあり、御用の時には横の木札を叩けと書いてある。なるほど、こんこんと鳴らすと、住職がやってくる。 拝観料を払い御朱印帳もお願いすると、書いておくので、庭園を巡ってから本堂に上がって拝観し戻ってきなさい、御朱印帳はここに置いておくからと言う。気になっていた「若冲」の中では蕪村が貧農の出と書いてあることの真偽を問うたが、住職は貧富のどちらかなどは意味はないとばかり全然関係ないことを説明してくれる。 時間もないのでそそくさと庭園の方へ行く。本堂前には小さな枯山水の庭があるが、奥山に向かって階段に添って自然の庭がある。そこここには句碑もたくさん建っている。蕪村の句もある、芭蕉の句もある、高浜虚子の句碑もある。少し登って広くなったところに芭蕉庵がある。 金福寺は元禄年間に少し北にある圓光寺の鉄舟和尚が再興し、その末寺となったがそこにあった庵に鉄舟と親交のあった芭蕉がたびたび滞在したという。そこから芭蕉庵と言われるようになったが、85年後芭蕉を敬愛してやまなかった蕪村が、荒廃してしまっていたその庵を再興したと伝えられている。ここでたびたび句会を開いているのでこの寺で作られた蕪村の句も多数あるのだ。 芭蕉庵は千利休の作った国宝待庵(大山崎駅前の妙喜庵にある)似の三畳台目の茶室である。ここからさらに裏山に沿って作られた階段を上って行くと、京都市内を一望出来る高台に出る。「徂く(ゆく)春や 京を一目の 墓どころ 虚子」の句碑があり、確かに京都の町を一望できる。そうそしてより一段高いところを振り向けば「与謝蕪村墓」と書かれた立派な墓石がある。花が供えられており、蕪村が大切に扱われているのがうれしい。 蕪村の墓の近くには呉春の墓もある。呉春と言ってもあの大好きな池田の酒の「呉春」ではない。蕪村の南画の弟子で、四条派の呉春である。呉春すなわち松村豊晶は池田の地に因んで呉春と名乗ったのだから、酒の「呉春」といわれは一緒で勘違いしそうになったのも無理はない。 蕪村の門人たちの墓もここそこにあったが、「頴原退蔵 筆塚」を見つけた時にはびっくりした。「友人 新村出 書」とあり、さらに建立は昭和甲午晩秋とあるから、昭和29年11月のことだ。新村出と言えば広辞苑の編者として名高いが、初版の自序(まえがき)の日付は昭和30年1月1日なのである。名著広辞苑完成の2か月前に同じ京大教授の畏友のために揮毫していたのだ。頴原退蔵は蕪村研究家であり、俳句研究家として一目置かれる京大教授だったのだ。 ではなぜそこまで俳句の素養があるとは思えない私が感動したのか。実は私は私の父の偉大さをそこで見つけていたのだ。蕪村が芭蕉の偉大さを再確認していたその場所で。 父は東門書房という小さな出版社の代表をしていた。手始めに京大文学部の研究者たちの編集になる高校生向きの国語教科書副読本を作り、同時に歳時記である「頴原退蔵著 俳句季題辞典」を出版していた。父はあえて俳句の素晴らしさや、頴原退蔵先生の凄さを当時小学生の私に語ることもしなかった。その後東門書房の出版物の中心は中学生向け英語副読本になって行った。 そんな訳で家に山積みされていた「頴原退蔵著 俳句季題辞典」がどれほどのものかなぞ全く考えたこともなかった。それがである。芭蕉庵を見、蕪村の墓を見、高浜虚子の讃句を見、その興奮の中にその地に「頴原退蔵の筆塚」を見た時に、頴原退蔵の偉大さに気づき、その歳時記を学生向きの参考書にしようとした父の偉大さに気づいて思わず立ち尽くしたのだ。 階段を下りて庭の散策は終わり、本堂に上がる。ご本尊の仏像もあるが、なんといっても主役は蕪村だ。蕪村による「松尾芭蕉像」、あの有名な「奥の細道画巻」がある。次の主役は村山たか女だ。旧聞に属するが第1回NHK大河ドラマ舟橋聖一の「花の生涯」で尾上松緑演じる井伊直弼の愛人および密偵で淡島千景が演じていた。同じく直弼の密偵の長野主膳とともに男女関係を持ちつつスパイ活動をし、安政の大獄を下支えし、直弼が桜田門外で暗殺された後は当然の帰結として尊攘派によって捕えられ、三条河原で3日3晩晒し者にされたのだ。 村山たかはかつて祇園の芸妓でありその時金閣寺の住職にひいきにされ一子を授かる、いったんシングルマザーとして育て、のち金閣寺の坊官の養子にしてもらいその子は多田帯刀となる。多田帯刀も母を助け諜報活動に加わっていた。たかが女であるという理由で斬殺を免れ晒し者にされるだけでとどまった代わりに、隠れ家から見つけ出された息子は斬首され、その首は晒し者にされているたかの横に晒されたという。 幕末の人たちは平気でこんな残忍なことができ平気でそれを眺めていたのだ。少年Aの心性は日本人に共有されているのかもしれない。ああ、怖くなる。 晒し者にされたたかは宝鏡寺の尼僧に助けられ、圓光寺に預けられそこで出家した。その後末寺である金福寺に来て尼僧としてお勤めをして生涯を終えたという。たかが長野主膳にあてた密書やたかの遺品などを見ることができる。 たかはこの寺で没したがその墓は本寺である圓光寺にある。圓光寺は紅葉の隠れた名所である。圓光寺に行く途中に有名な詩仙堂がある。石川丈山が隠居所として建てたところという。石川丈山は作庭に秀で、東本願寺の枳殻邸、高野の蓮華寺、京田辺の酬恩庵(一休寺)の作庭にかかわっている。そんな文化人の石川丈山だが、元は徳川家康の近侍で数々の戦功を上げていたが、大坂夏の陣で軍令に反し先駆けをしてしまい、叱責されたため浪人になってしまったという。そうだ、やはり文化は負のエネルギーから生まれるのだ。 おなかもすいたのでソバを食べることにしよう。ラーメン店はそのあたりに山ほどあるが、やはり私はソバ派だ。白川通りを南に下り、銀閣寺道で今出川通りに入り、百万遍で東大路通りに入って南に下がる。そう高校駅伝や都道府県対抗女子駅伝でおなじみのコースを走るのだ。熊野神社前の一つ手前の信号を左折すると左に八つ橋の西尾本店、右手は聖護院八つ橋本店があり、もうちょい行くと本山修験宗総本山聖護院門跡がある。向かいに大きな駐車場があるから車を停める。 聖護院門跡に戻ると北側に行く細い道がある、そこを80mも行ったところに「河道屋養老」の暖簾がかかっている。暖簾をくぐり石臼などを利用した石畳を行き、ガラガラと玄関を開けると土間のある古い農家風の店内に入る。割烹用の白衣を着た案内係のお兄ちゃんがいて座敷に案内してくれる。一つの部屋には大きな四角い机が4つほどあり、そういう部屋が1階2階にいくつかあるようだ。ただ我々は玄関のすぐ左手ある作り付けの長椅子のある部屋を好んで利用している。前庭も見られるし、何より靴を脱がなくていいから。 ここの名物は「養老鍋」3500円、京の素材にこだわった蕎麦すき。「湯波半」の湯葉、「麩嘉」の生麩、「いづ萬」のひろうすをはじめ、地鶏、海老、九条ねぎ、菊菜といった京名物や京野菜など具がたっぷり。最後はソバときしめんで仕上げる。白状しますがこんな上等は私たちは食べません。 単品メニューは天ぷらソバ、鳥なんば、にしんソバなどごくありふれたもので、もちろんざるソバもある。わたしはいつも温かいソバにしている。出汁は京都のほかの店に比べて甘みが抑えられてほんのちょっと塩辛い感じで、私にはよくあっている。それにソバ巻きも一緒に食べる。真ん中に細いきゅうりを入れパリッとした海苔で巻いてある、それを濃い醤油にちょっとつけて食べるのだ。 時間はまだいっぱいある。でも紙面はもう一杯だ。この聖護院界隈には見所が一杯あるがまたの機会に案内するとしよう。 |
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