D級京都観光案内 33 高山寺、神護寺そして西明寺
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京都の西北に位置する高雄・槙尾・栂尾は三尾と呼ばれ、古くから紅葉の名勝と知られる。確かに紅葉は素晴らしい。しかしその分大混雑するのだ。紅葉の季節を外しても四季折々美しいのだから紅葉の時期をあえて外すのも悪くはない。そうした方が栂尾山高山寺、槙尾山西明寺、高雄山神護寺をじっくり拝観でき、それらが持つ国宝・重要文化財の数々に触れることができ、その背後にある歴史のダイナミズムを垣間見ることができるはずだ。
まずは高山寺を目指す。JRバスでJR京都駅、阪急大宮駅から行ってもいいが、便数は少なく不便だ。つい車で行こうとなる。京都南インターを降り久世橋のあたりから北に進み、双ヶ岡を通って福王子から周山街道を進み、嵐山・高雄パークウェイの起点を通り過ぎると高山寺前の駐車場にやってくる。JRバスの栂尾バス停にもなっていて、ここから裏参道を上がっていく。
この裏参道も風情がある。紅葉の季節ならもっと美しいだろう。雪が積もった石段を昇っていくのもさらに良さげだ。ただ足元には注意しよう。それに今日はこれからいやというほど石段を上り下りしないといけないのでちょっと覚悟が必要だ。言い忘れたが歩きやすく滑りにくい靴で行くことをお勧めする。
裏参道を登りきるとすぐ右手に小さな門があり「栂尾山 高山寺」「国宝 石水院」と表札がかかっている。中に入り書院に上がったところが拝観受付所で、廊下でつながる石水院が当山一の見どころである。高山寺は平成6年「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された17施設の一つであるが、境内が史跡に指定されていたとともに石水院という鎌倉時代建立の国宝建築物を有していたから登録されたのである。
高山寺はさらに7つの国宝と約1万点の重要文化財を所有するが、そのほとんどが東京・京都の両国立博物館に寄託されるか当寺の公開されない場所に保存されているので、われわれが見るのは残念ながら模刻品である。「鳥獣人物戯画」、「明恵上人樹上坐禅図」、明恵上人がペットとしていた湛慶作と伝わる「子犬像」などは模刻と分かっていても見る価値はある。
明恵上人は後鳥羽上皇よりこの地を与えられ、華厳宗復興の道場とした。明恵上人は高山寺の中興開祖とされる。樹上で坐禅をしたり、俗世とのかかわりを捨て修行一途になるためにと自分の耳を切り落としたりするなど唯の人ではなかったのだ。
明恵上人は臨済宗開祖で建仁寺の開山でもある栄西から茶の種3個を贈られ、それをこの地で栽培した。石水院を出て開山堂に向かう左手に茶園が広がるが、そこには「日本最古之茶園碑」がある。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、本茶とされた「栂尾の茶」と他の産の茶(非茶)を飲み分けて本茶を当てる賭けをする茶寄合(闘茶会)が武家や庶民の間で流行したという。千利休の茶道が起こる前史である。なお現代なら本茶と思われる宇治茶は栂尾の苗木を移植して栽培されたと言われている。
開山堂を過ぎて左に回りながら境内を進むと杉に囲まれた質素な建物の金堂が現れる。応仁の乱で金堂も焼失したが江戸時代仁和寺の御堂を移築したものである。中には本尊の阿弥陀如来坐像が安置されている。ここから広い石段の金堂道を降りると、表参道に通じ、いったん周山街道に出てどんどん走る車に注意しながら駐車場に戻ることになる。
駐車場の前、清滝川を見ながらソバなどが食べられる茶店も2,3軒ある。しかし次の神護寺に近いところで昼食をとることにしよう。神護寺の近くの駐車場は狭かった記憶があるから、昼食をとるところで神護寺参拝の駐車もついでにできるならずいぶん安心して食事もとれるというものだ。ネットで調べると『もみじ家』というのがヒットしたので、車でそこに向かう。店の前には配車係がいて、2人食事をしたいと言うと「別館の方に案内します。うちの車で案内しますから、その後ろをついて行って下さい」という。車をUターンさせ、案内の車について神護寺の方へ狭い道をどんどん行く。神護寺への参道の入り口を少し行ったところにもみじ家専用の駐車場があり、そこに車を置き、清滝川にかかるもみじ家専用の吊り橋を渡って、別館の川床に案内された。今までこんな経験はなかったので何か王様気分で吊り橋を渡り、席に着いたものである。
そこの料理がどんなものであったか。神護寺について多く語らないといけないので、またの機会にしよう。食事を終えて、神護寺の参道の前に今立っている。これから350段ばかり登らないといけないのだ。最初はゆったりとした広い石段で、そのうちかなり急な石段に変わり、途中2カ所の茶屋があるが、そのあとは山門をまっすぐ見上げる、急峻な石段が100段ほど待っている。ただここは格好のカメラスポットであり、雑誌で何度も目にしてきた光景なので、初めて登ってきたとしてもまるで5回も6回もこの景色は見たことがあると錯覚してしまうのだ。
神護寺は宗教的にも政治的にも歴史豊かな寺だ。その分京都検定であれやこれやと出題される受験者にとっておろそかにできない寺である。創建は和気清麻呂だ。奈良時代、天皇になろうとした道鏡を阻止したために称徳天皇の怒りを買い、別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)と改名させられて大隅の国に流されたが、天皇の死後復権し、桓武天皇に長岡京から平安京への遷都を進言した人である。その後河内の国に建立した神願寺を約20年後高雄山に移し、すでに建てていた高雄山寺と合併して今の神護寺としたのだ。境内から少し山に上がると和気清麻呂公墓がある。ちょっと息が切れるが、是非行ってみよう。
比叡山の天台宗の祖・伝教大師最澄と真言宗の祖・弘法大師空海はこの寺に入山し、平安仏教の中心的役割を果たしていく。空海は唐より帰朝後14年間当寺に住持したが、最澄にも灌頂を施している。宗教者としても遣唐僧としても先輩の最澄は真の密教の習得者となるべく後輩の空海の教えを受けたのだ。偉い人達だ。
国宝の「高雄曼荼羅」「灌頂歴名」があるのはこのためである。金堂には本尊の薬師如来立像がある。仏像の写真集には必ずと言っていいほど載せられている像である。平安時代初期の作という国宝である。そんなすごい仏像が秘仏でなく、そのまま拝観できるのである。それどころか内陣に入り仏像の真下に行って拝観できるのだ。もうこれを見るだけでここに来た値打ちはある。
平安後期、鎌倉時代の仏像の穏やかで柔和な表情と異なり、厳めしく引き締まった顔が特徴的で、深く鋭く刻み込まれた衣の襞は厳しい陰影を生み、神秘的な雰囲気をかもし出すと解説されている。なぜ厳しい表情なのか、それは和気清麻呂が二度と道鏡のような男が現れないようにと薬師如来に託したからだと僧侶は説明してくれた。
平安時代二度の火災で荒廃してしまった神護寺を再興したのは文覚である。文覚は第6回「六地蔵巡り」の中で触れたように、元北面の武士であったが、同僚でいとこの妻である袈裟御前に横恋慕し、あろうことか袈裟御前を殺めてしまう。痛く反省をし、荒行を積み立派な僧侶になった文覚は荒れ果てた神護寺を目の当たりにして、その再興を後白河法皇に強訴し伊豆に流されてしまった。そこで同じく流されていた源頼朝と知り合い、平家打倒をそそのかしたのだ。首尾よく頼朝が政権につき、後白河法皇に「文覚四十五箇条起請文」(国宝)を上程し、神護寺再興の許可を得たのである。同様荒れ果てていた空海ゆかりの東寺の再興を成し遂げたのも文覚である。
文覚上人の墓が金堂の裏の多宝塔から細い山道を登っていったところにある。息は切れるが墓前に立つといろんな思いを巡らすことができることは請け合いだ。
我が国の肖像画史上の傑作とされる、「伝源頼朝像」「伝平重盛像」「伝藤原光能(みつよし)像」はいずれも国宝である。金堂には「伝源頼朝像」の模写品が置かれている。この肖像画も含む国宝の密教美術は5月1~5日の「虫払定」において目前で拝観できる。この頃は青もみじも見頃でそれは素敵な拝観になるだろう。多宝塔特別拝観は春秋2回行われ、国宝の五大虚空蔵菩薩像の御開帳がされる。
境内には「弘法大師の納涼房」とも呼ばれる大師堂(重文)もある。境内の西端には地蔵院があり、そこから谷(紅葉の名所・錦雲渓)に向かって素焼きの円盤を投げて厄除けとする「かわらけなげ」ができる。観光客は地味な地蔵院にはあまり立ち寄らず、かわらけなげに打ち興じる。しかし熱心に地蔵院の地蔵菩薩・世継ぎ地蔵にお参りする人がいるという。秋篠宮もその一人だと、境内を清掃管理している人が耳打ちしてくれた。その意味するところは何か、私はさらに突っ込んで聞くことはしなかった。
京都検定的に神護寺でもう一つ抑えておかないといけないものは「三絶の鐘」と呼ばれる国宝の梵鐘である。「銘の神護寺」と言われ「姿の平等院」「声の三井寺」とともに日本の三名鐘の一つで、序詞(じょことば)、銘文、書が三つ揃って絶品なのでこう言われる。
本日の最後は神護寺から少し戻ったところにある槇尾山西明寺である。清滝川にかかる朱色の指月橋を渡って山門に至る。先の二つの寺院に比べ境内はこじんまりしている。平安時代に開創されたが戦火で焼失し、江戸時代初期に再興し、元禄年間に桂昌院が堂舎を寄進したという。運慶作と伝わる清凉寺式の釈迦如来立像(重文)、脇侍に十一面千本観音立像(重文)がある。
この寺は、春の桜、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色と、四季を通じて豊かな自然を持つ。さらに4月初旬、裏山全山に数万本のミツバツツジが咲き誇る。周山街道高雄のバス停の前に駐車場がある。ここから下を見ると目の前に西明寺の裏山のミツバツツジ群生の絶景が広がる。西明寺まで行かなくてもこの駐車場から絶景を楽しむことができるのだ。
さあこれで三尾を訪れる旅はおしまいである。旅の続きをしてみよう。高山寺明恵上人の生誕地を訪ねる紀州有田川町への旅である。阪和自動車道・有田ICで降りて県道22号線を行くと道路標識には明恵上人生誕の地の案内標識が次々に出てくる。それに沿って行くとほどなく歓喜寺にたどり着く。あの地獄極楽への案内図を表した「往生要集」の恵心僧都源信の開創した寺で、明恵上人の母はここで生活し明恵を生んだという。明恵生誕の地はここから少し集落に入ったところにあり、「明恵上人生誕の地」の石碑がある。すぐそばには「上人胞衣(えな)塚」(出産後の胎盤を埋めたところ)もある。さらに高山寺での自筆の御詠草として「フルサトノ ヤトニハヒトリ月ヤスム ヲモフモサヒシ 秋ノヨノソラ」の石碑もある。「故郷の宿には一人月休む 思うも淋し 秋の夜の空」だろうが7歳で両親を亡くした明恵上人はきっと寂しがり屋だったのだろう。
この有田川町の農産物直売所はありだっこ、どんどん広場、道の駅明恵の里、道の駅清水、道の駅あらぎの里といくつもあって、しかもいろいろなミカン、ブドウ、ナシなどが豊富で安く売られている。あらぎ島は棚田百選に選ばれたこの町のシンボル的存在だ。こうやって遠出するのも悪くはないのだ。それというのも京都検定受験の賜物なのだろう。
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