D級京都観光案内 20

京都大原三千院

 

永六輔が亡くなった。大橋巨泉もなくなった。 人は年を取ると死ぬものである。医者であればそんなことは知っている。いや医者でなくても誰でもそんなことは知っている。わかっていることだがそれはつらいことなのだ。

永六輔の「女ひとり」、「京都大原三千院」つい口ずさんでしまう、「京都栂尾高山寺」これもつい口ずさんでしまう。その歌に誘われたわけでもないが今回は三千院を目指そう。

三千院を目的地に選ぶと車のナビは京都東インターやさらには西琵琶湖道路を教えるかもしれない。しかしここは渋滞の名所だ、京都南で降りて、あるいは第2京阪の鴨川西インターを降りて京都市内を行くのが賢明だ。

今年811日、初めての祝日山の日、必然的に夏季休暇の初日になってしまったこの日、高速道路はどこも大渋滞だった。渋滞が大嫌いな私は、まず箕面トンネルで止々呂美に出た。箕面トンネルは少し混んでいたがこの程度は仕方ない、許そう。摂丹街道を快調に走らせ、亀岡インターチェンジから京都縦貫道に入り、京都市内を目指す。対向する下りはすでに車のノロノロ運転。逆に快走する自分に喝采する。沓掛インターから五条通に入る。五条通は国道1号線につながる道なので渋滞は日常茶飯事だから我慢する。

我慢はしたが、計画の昼前に三千院近くで食事をとる予定はとてもかないそうにない。川端通りを走りながら、頭の中で近場でおいしいところを探した。時は11時半少し前。川端丸太町の鶏料理「八起庵」の近くの「京のつくね家」を目指すことにした。この店はD級京都観光第2回で触れた人気店だが、そのとき1120分に店の前につき、約15分も寒空の中で待たされた。今日はちょうどいい時間帯だと、近くの駐車場に車を止め、1140分に店に近づくと、なんと店の前には20人ばかりの行列ができている。

待つのが嫌いな私はすぐ車に戻り、行きつけのといっていいほどの河道屋養老のそばではなく、その手前にある本家西尾八つ橋の食事処である「西尾八つ橋の里」に行くことにした。たぶん本家西尾の古い屋敷を食事処として開放したのだろうが、その立派さに気後れしそうになるが、そこをエイと踏ん張っていくと、メニューは単品のうどんもあったりしそうビビるものではない。

われわれは1600円の八ツ橋の里膳を頼んだが、かやくご飯に白味噌汁、小鉢6皿がついていて、結構豪華でそれでいて安かった。もし三千院の近くで食べていたら、値段は倍を取られて味は今一つだっただろう。

おなかを一杯にしてもう後は三千院を目指すだけだ。車で行くとなるとどこで車を止めるかがいつも悩むところだ。早くから三千院駐車場と出ているところで止めると、坂道を10分も15分も歩かなければならず、暑い夏はほとほと疲れてしまう。と言って、近くまで行き過ぎると、観光客をかき分けかき分け行ながら停めるところがないとなって、大べそをかきながら駐車場を求めてさ迷わなければならないのだ。

この日はうまく勘が働かず、遠いところに停めてしまって暑いのが苦手な同行者の不興を買ってしまった。

それでも三千院の前にはやってくる。立派な門の左には梶井門跡三千院とある。右には国宝往生極楽院とある。

青蓮院のところでも触れたように三千院、青蓮院、妙法院は天台三門跡をなす。しかし都にあった青蓮院や妙法院とは違い、都人や修行者の隠棲の地である大原にあることからその趣を異にするのだ。

門をくぐり拝観入り口から客殿へと進む。聚碧園と呼ばれる金森宗和作と伝わる庭を見ながら、宸殿に至る。ご本尊の最澄作と伝えられる薬師瑠璃光如来が安置されるが秘仏でふつうは拝観できない。ここから有清園という庭園におり、杉木立の中を苔の大海原を見ながら往生極楽院に来る。

ここは三千院の最大の見どころで、「往生要集」の著作で有名な源信が姉とともに父母の菩提のために建立されたという。中央には丈六の阿弥陀如来が座り、右に観世音菩薩、左に勢至菩薩が少し前かがみの大和坐りという珍しい姿勢をとっている。これは少しでも早く往生者をお迎えしてやろうという慈悲に満ちたお姿だという。大きな仏像を収めるため天井は舟底型に工夫してあり、そこには極彩色で極楽浄土に舞う天女や菩薩たちが描かれていたという。今や見る影もないが、一番最後の拝観コースにある「円融蔵」にその復元模写を見ることができる。

金色不動堂、観音堂を見その時期ならアジサイ園で目を楽しませ円融蔵を見学して三千院の拝観は終了である。

大原の地は声明の発祥の地でもある。声明は節をつけたお経であり、日本音楽の源流ともいわれる。その声明の根本道場となったのが来迎院と勝林院である。盛時はこの一帯に49の坊があり、各坊からは声明が響き、付近を流れる呂川(りょせん)と律川(りつせん)が合わさり呂律(りょりつ)とは声明の節回しを表すようになったという。声明がうまく歌えなくなることを「呂律(ろれつ)が回らない」といい、転じて酒を飲んだりして言葉がうまく話せないことを意味するようになったという。

三千院の門を出て向かいの茶店には寄らず(もちろん一休みしてもいいけれど)、右手すなわち北に向かうと正面に勝林院が見える。それまでに塔頭の実光院があるのでそこに寄る。堂に上げてもらい小さいけれど落ち着いた雰囲気の庭を眺める。部屋の中には仏像だけではなく声明に使ったと思われる鉦や木琴のような楽器が置かれていた。

勝林院は広い境内に大きなお堂が立ち、そのお堂にはご本尊の阿弥陀如来さまが右に不動明王左に毘沙門天を従えておられる。文治2年天台宗の顕真が浄土宗の法然や各宗の学僧を招いて専修念仏について宗論を戦わせた。これは大原問答と言われる。このとき阿弥陀如来は手から光明を放ち法然の唱える専修念仏の正しさの証拠を示したと伝えられ、「証拠の阿弥陀」とも呼ばれている。

なおこの時法然のボディーガードとしてついて行ったのが一の谷の合戦で平敦盛の首を落としその無情を懺悔し法門に入った熊谷直実その人だった。直実は懲りもせず「恩師法然が宗論で負けたならば相手の学僧の命を頂戴するぞ」と鉈(なた)を懐に隠し持っていたという。しかし法然に優しく諭されてその鉈を近くの竹林に捨てたという。竹林の前にその説明が載っている。

勝林院の前の小道を行くと塔頭宝泉院がある。ここでは柱と柱の空間を額に見立ててみる額縁庭園、近江富士をかたどる樹齢700年の五葉の松などが見どころである。さらに関ヶ原の戦いの前鳥居元忠らが討ち死にした伏見城の血染めの床板を天井板として使いその供養としている「血天井」もある。

京都検定的おさらいをすると、血天井がある寺は、三十三間堂そばの養源院、西賀茂の正伝寺、鷹峯の源光庵、妙心寺塔頭の天球院、宇治の興聖寺である。

もと来た道をもどると、実光院の向かいあたり天皇陵がある。承久の変で鎌倉幕府に敗れ隠岐に流された後鳥羽天皇と佐渡に流された順徳天皇の二人の大原陵である。

後鳥羽院、順徳院は百人一首の第99番と第100番に選ばれている。選者定家は第1番、第2番に天智天皇、持統天皇と民とともにあり民の安寧を願う二人の古き良き時代の天皇の歌を置き、最後は権力をはく奪され治世の実行者となりえない悔しさを歌う敗者の天皇の歌で締めくくっている。不遇な天皇に対する菩提を弔う意味も込めたのだろうが、定家自身の鬱屈した心性を投影していることも間違いなかろう。

三千院、天台声明のことばかりに注目してやって来ていたものだから、それとは異次元の大原陵を発見した時はまるで心の隙を突かれたような軽い衝撃を受けてしまった。

三千院を超えてもと来た道を100mほど戻り、魚山橋の手前で東呂川を右に見て行くと、道は少しずつ登っていき両側は木で鬱蒼としてくる。登るのはしんどいが確実に気温は下がっていって涼しく感じる。何よりもあの騒々しい観光客の喧騒はなく、先行く人も、戻ってすれ違う人もほんの数えるばかりだ。

山門につく。三千院のように威容は誇らないが落ち着いた門だ。最澄の直弟子円仁が中国太原で声明を学び日本の比叡山に持ち帰り、ここ大原の地形が中国太原のそれと似ていたので、この地を声明の根本道場と定め、開山したのが来迎院である。

平安時代末期、良忍が比叡山より下り来迎院を再興した。同時に魚山流声明を集大成し天台声明の主流となったのである。のちに良忍は融通念仏を唱え、河内国平野に大念仏寺を建立し融通念仏宗を開宗した。

本堂には本尊の薬師如来、釈迦如来、弥陀如来(どれも重文)が平安時代から変わらぬ姿で置かれている。すぐそばまで入って拝観できるのがうれしい。境内には鐘楼、獅子飛石(獅子が良忍の声明の調べに陶酔して、堂内を駆け巡り岩になって残った)などがある。

下界では36度にも37度にもなろうかというこの時期に、「お坊さんは朝冷えて寒いと言うてはります」と寺の人が言うくらい幽玄の別世界だ。そのせいか少し心も洗われたような気分になれたのだ。

魚山橋まで戻り駐車場に戻る途中の山側に、出世稲荷神社の鳥居が目に入る。この神社の歴史は桃山時代にまでさかのぼる。豊臣秀吉が聚楽第を建てたがその邸内に稲荷神社を勧請した。翌年、後陽成天皇が聚楽第に行幸になった(秀吉の権力を世間に知らしめた)が、秀吉が立身出世したことに因み、「出世稲荷」の号を授けた。聚楽第が取り壊された後も、そのまま鎮座し続け、大名・公家から庶民まで崇敬し続けた。

5,60年前、私は親の手伝いで千本丸太町まで荷造り用の段ボールを市電に乗って買いに行っていた。四条大宮から市電に乗り、千本三条、二条駅前を過ぎ、目的の千本丸太町の一つ手前の停留所が出世稲荷前だった。高校生の私は出世稲荷ってどんなところなのだろうと思いを巡らせていたがただ目的の段ボールのためにひたすら千本丸太町と四条大宮を往復していた。だから出世稲荷神社に行ったことはなかった。

そんな都会の真ん中にあった出世稲荷神社だが氏子もなく文化財指定もされず老朽化した社殿・境内の維持・修復は困難となり、敷地を売却し平成246月に大原に転居したのだ。出世稲荷の名前が泣くよとは口が裂けても言わないでおこう。本殿に奉納されている堂本印象の雲竜図は十分見ごたえがあるものである。東福寺の雲竜図と全く同趣向だという宮司夫人の言葉を信じよう。

あとは車に乗って帰るだけだがその途中辻しば漬け本舗の漬物店があり、土井のしば漬けの本店があり、駐車場は広い。

朝早く来たなら国道から少し西に入った里の駅大原で新鮮野菜をゲットできるはずである。お寺回りの前に済ませておいたほうがいいようだ。


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