D級京都観光案内 31

京都秘境の寺院

   

京都の夏は暑い。夏の神社仏閣巡りは相当の覚悟がいる。ペットボトルのお茶は2倍用意していこう。こんな時こそ避暑を兼ねた拝観ができれば有難いものだ。今回はそういうお寺を案内しよう。

まず最初は雲ケ畑の志明院である。所在地は京都市北区雲ケ畑出谷町261、車でないとちょっと行きにくい。車がないという方は京都市地下鉄北大路駅前でタクシーに乗り、志明院駐車場で待ってもらい拝観後北大路駅まで送ってもらうことになる。

車で行く場合、京都南インターを降り、堀川通を北上し、賀茂川にぶつかるあたりから道路標識に従い賀茂川に沿って登っていく。ただただ川沿いに沿って走っていくが、人家が点在するようになったところが雲ケ畑である。しばらく行って、岩屋橋という12往復しかしない雲ケ畑バスの終点のところに、左に分かれる道があり、志明院はこちらという標識に勇気づけながら10分ばかり走らせると志明院の駐車場にたどり着く。

あたりは原生林に囲まれる鬱蒼としたところで、駐車場とは名ばかりで単なる空き地である。石段を登っていくと少し平らなところに出て正面には立派な仁王門がある。右手には寺務所や簡素な宿坊らしきものが見える。寺務所から住職の奥さんらしき人が出てきて、仁王門から奥は写真撮影禁止だからカメラは預かるという。修行の場であり建造物も含めた自然保護のためでもある。

拝観料を払って山内に入るのだが、どのお寺でもくれるような拝観案内図はなく、さっき奥さんが見せてくれた山内案内図を頭に入れて行くしかない。仁王門からさらに階段を上がると本堂がある。空海の開眼になる不動明王像があるという。本堂を越えて橋を渡ると道が二つに分かれている。まず左の道を行くと道は湾曲しながら飛竜の滝を経て鳴神の岩屋へとやってくる。歌舞伎十八番「鳴神」の舞台になったところである。鳴神上人が龍神を閉じ込めていたという伝説に基づいている。奇岩・怪石を眺めて橋のところに戻り、さらに上の方にでこぼこした石段を昇っていく。

神降窟(しんこうくつ)という高さ30mにも及ぶ岩窟があり、その洞窟の湧水が賀茂川の源流とされ、古より皇室の崇敬の対象となり水神が祀られている。(ただ現在賀茂川の源流とされるのは岩屋橋からさらにそのまま賀茂川支流の祖父谷川をさかのぼり桟敷ヶ岳中腹の湧水だと言われている。)さらに険しい石段を昇っていくと岩屋清水の舞台が現れ、その舞台の上に立つと無事ゴールしたことになる。

帰りの石段を下りるのも結構骨が折れる。仁王門を出て預けたカメラを受け取る時にはちょうど住職もいた。45年前、生物物理若手夏の学校の下準備にここに泊めてもらったなどと懐旧談をすると、確かにその当時は大学の研究者が生態研究の泊まり込みに利用していましたねとこれまた懐かしい先生の名前なんかが出てきて、しばし昔を懐かしめたものだ。

京都市指定の天然記念物、志明院の岩峰植生の中心はシャクナゲの群生であり、4月下旬から5月上旬がその見頃である。429日の大護摩を焚く志明院大祭は満開のシャクナゲのもとで行われるのでシャクナゲ祭ともいわれている。

さてこのあたりで食べる所はあるだろうか。岩屋橋から志明院への分かれ道あたりに、「畑嘉」と「洛雲荘」と川魚料理、ボタン鍋を食べさせてくる店があるのだが、5月の土曜日のお昼頃に行ったときは、「今日はやってません」と言われてしまった。前もって予約して確認しておくのがよさそうだ。その日の昼食は京都市内まで山道を降りてきて、京大病院近くの河道屋養老でそばを食って我慢した。アユ料理が食べられなかったリベンジに、菓子司金谷正廣(真盛豆の菓子店)でお菓子の「香魚(あゆ)」をゲットした。あゆといっても求肥(ぎゅうひ)をどら焼き生地で鮎の形に包んだものではなくて、こし餡を和三盆糖をふんだんに使用した落雁でつつみ、焦がした卵白と砂糖で塩焼きを表現し、もう食べるのがもったいないようなアユの塩焼きそのもののようなお菓子なのだ。予約も何もしてなかったのにその日はたまたまあったのだった。

次の京都の秘境のお寺は左京区花背にある峰定寺(ぶじょうじ)である。京都検定第41級で「本尊の十一面千手観音坐像(重要文化財)や、閼伽井屋の最も古い遺構である供水所(重要文化財)がある、花背の寺院はどこか?」と出題されている。出町柳駅より京都バス「広河原行き」に乗車、「大悲山口」下車、これより寺まで2㎞の平坦な道を徒歩で30分、と交通案内にはある。

さて花背、広河原、そして志明院のあった雲ケ畑、これら京都市北部にある山里で共通の行事があり、それが京都検定頻出問題なのだ。「松上げ」である。「松上げ」とは灯籠木(とろぎ)などと呼ばれる大きな柱の先端の傘へ向けて、集落の男たちが火をつけた松明を投げ上げる勇壮な行事である。かつては824日にどの地域でも行われていたが、花背では八桝で815日の夜に行われるようになった。815日の火の儀式というと五山の送り火のようにお盆の行事との関連を想像するが、そうではなくて火伏の神である愛宕信仰に深く結びついている。

花背から滋賀県の朽木に抜ける途中に久多という集落があるが、この久多でも松上げは行われる。ただ京都検定では久多に関しては824日に近い日曜日に志古淵神社で行われる久多花笠踊りという重要無形民俗文化財である風流灯籠踊りが出題されることが多い。私は第121級試験での出題でむなしく撃沈されたのである。

更に言うと「広河原」には京都市唯一のスキー場(多分、冬場の土日しか営業していないと思うが)があるのだ。実は20年ほど前までは広河原のすぐ手前の花背にも花背スキー場というリフトもある、れっきとしたスキー場があったのだ。花背はそれほどの秘境なのだ。冬になれが冬タイヤをはかないと花背の峰定寺に行くのは無謀だろう。でも今は夏だ。暑い暑い夏だ。悪路を恐れず峰定寺を目指そう。

先に説明した京都バスを利用しないのなら、車で行くことになるが、堀川通を北上し、御園橋あたりを経由して鞍馬に向かい、府道の鞍馬街道をどんどん進むと、国道477号線にぶつかる。かつては国道ならぬ酷道と揶揄された道路だが、昨年通ってみると何の何の快適に走れる広い道路になっている。

しばらくはつづら折れが続き、気は抜けないが難所といわれた花背峠が難なく通り過ぎることができ、快適な下り坂のつづら折れを走っていくと、まとまった集落が見えてきて、ちょっと休憩するところもありそうだし、気になる施設もあったりする。ただ雲ケ畑に行ったときのように、「今日はやっていない」というつらい現実に直面する前に地元の人に今日食べるところはあるかを教えてもらうのが賢明だ。

道はT字路にやってくる。このあたりには左京区役所の花背出張所があり、花背小・中学校もある。どうも花背の行政的中心地らしい。JA花背の直売所もあるので、今日食べるところはあるか聞いてみることにする。すぐ行ったところに「はしもと」といういいお店がある、もちろん今日もやっているという。自分たちは久多からパートでここに働きに来ているという。久多や花背はこのあたり一帯でつながっているのだと再確認し、すぐ行くと食事にありつけるのだと安心して、ナビに従い峰定寺を目指すことにする。

しかし「はしもと」らしき建物は全然見えてこない。花背山村都市交流の森と食事のできそうなところまで来たが「はしもと」はまだ現れない。後でわかったがこのあたりが「松上げ」が行われる花背の八桝というところだった。JAのおばさん達の言葉を信じて、車を進め、ついに峰定寺への分岐地点まで来た。あった。やっとあった。「はしもと」はそこにあったのだ。

前庭にある屋根はよしずがかかっているだけの風通しのいいところに大きなテーブルとベンチがあるところに座って食事が出てくるのを待つ。道を挟んだ向こうに流れている川を渡ってくる風が涼しい。風鈴がかすかになる。足元には田舎風の花だがいろいろ咲いている。石で囲まれた水道受けのようなものがあって、管の先からどんどん冷たい水が流れている。仏さんに供えるものなのだろうか、何本かの赤い花が水受けに浸されている。

なかなか出てこない食事を待つのもこれはこれで風雅でいいと、最初15分くらいはのんびり構えていた。ところが我々より後から来た5人連れの客の方にまず出され、正味1時間待ってからやっと我々のもとにも食事を運ばれてきたとき、京都の秘境の茶店で食事をとるということは一つの修行なのだと気づくのだった。

さあ遅れを取り戻すべく、峰定寺に向かう小さな川、寺谷川に沿った道を行く。徒歩30分だから車で行くと5分もしないうちに駐車場に着く。峰定寺参道という石碑の横には「美山荘」という立派な看板もある。あの摘草料理とかミシュラン三ツ星で有名な美山荘はここだったのだ。私は今まで「美山」と名がつくのだから「美山かやぶきの里」の近くにあるものだと思い込んでいた。それが突然目の前に現れたものだからびっくりした。素敵なたたずまいの美山荘の前を通り抜けると峰定寺境内に入るのだが、そこには「花背大悲山京都府歴史的自然環境保全地域」の大看板が置かれていて、峰定寺が創建されて以来大悲山そのものが信仰の対象となり、その結果優れた自然林が残されており、ホンシャクナゲ、ヒカゲツツジなどの貴重な植物の群生も見られるから物見遊山の安易な気持ちで入山してはいけないとある。

仁王門の前を通り寺務所に行くとカメラも含めた手荷物はそこに預け財布とかの貴重品だけお寺が貸してくれる肩掛け布袋に入れて初めて入山できる。脇にある手ごろな杖を持っていきなさいと親切だ。ただ雨の日及び冬季は入山禁止である。これは参拝者の安全確保のためである。

もう一度仁王門まで戻りそこをくぐって入山する。本堂までの山道は400段ほどの石段からなっていて、なるほど雨の日が入山禁止になるのがよくわかるほど油断をすると足を滑らしそうになる。杖を貸してくれた意味もよくわかる。15分ばかりで本堂に着く。本堂は五間四面の木造杮葺きの舞台懸崖造りである。舞台(懸崖)造りというのは清水寺のように断崖から舞台を張り出して作られたもので、平安時代の信西、平清盛が工事責任者だというから、昔の人は偉かったとただただ感心する。本堂が現存最古の舞台造りの建造物である。本堂に付属している供水所は最古の閼伽井屋(あかいや)の遺構である。

鹿ケ谷の陰謀で喜界ヶ島に流された俊寛の妻子がこの近くに逃げ隠れそして病没した。その霊を弔うために境内には俊寛とその妻子の供養塔もある。下りは楽だが足を滑らしやすいのは上りの時以上だ。ゆっくりと仁王門まで下りてきて、振り返って仁王門を見る。仁王門のすぐ横に高野槙の巨木がある。「神木」と駒札があり、主幹の折れた部分には小屋根が被せてある。修験道の別世界からほっと俗世界に戻り、美山荘での食事は恐れ多くてできないが、土産物程度なら手に入るだろう。「花山椒ちりめん」を買って、ミシュラン三ツ星を一つ征服した気分になって我が家に帰るとしよう。


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