D級京都観光案内 22 京都紅葉巡り
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箕面公園の紅葉はきれいである。もちろん年によっての当たりはずれはあるけれど、毎年わんさか観光客がやってきている。だから紅葉をわざわざ京都まで見に行くこともない。 そうは言うものの11月の下旬から12月の上旬にかけてせっかく京都に来たなら、紅葉のきれいなところにも寄ってみたいものだ。ということでまず私の好きな永観堂に行ってみよう。 永観堂がなぜ好きなのか。「みかえり阿弥陀」、いつみても素敵なのだ。まして紅葉の季節になれば、門を入った途端目に入る紅葉の色の鮮やかさにハッとするからなのだ。 堂内に入ると釈迦堂、御影堂といろいろな建物が高低差をもってあり、途中池を眺め、紅葉の美しさに感心し、臥龍廊という湾曲した階段を上り開山堂に行き、もう一度戻り「三鈷の松」を右手に見て阿弥陀堂に行く。 ご本尊「みかえり阿弥陀」だ。確かに後ろを振り返る仏像など見たこともなかった。普通仏像は正面向いている。しっかり我々衆生のほうを見ておられる。弥勒菩薩思惟像や如意輪観音様はちょっと物思いに耽ってはおられるが、こんなに振りかえっておられるなど予想もできない。 「みかえり阿弥陀」にはこんな言い伝えがある。永観堂の正式名は禅林寺であるが、永観(ようかん)律師の名前から通称で呼ばれている。ある夜永観律師が阿弥陀如来の周りを行道していると阿弥陀如来が台座より降りてきて永観と一緒に行道を始めたという。驚いた永観が立ち止まると、そりゃあ驚くだろうが、阿弥陀如来は左肩越しに「永観、遅し」とお導きになったという。 寺伝はさらに伝える。感動した永観はその尊く慈悲深いお姿を後世に伝えたいと阿弥陀に願われ、阿弥陀如来像は今にその尊容を伝えるのだと。しかしなるほど阿弥陀如来といえ木像である。前を見ていた木像がある夜から振り返る姿勢をとるなんてことはあり得ない。精神医学的に考えると修行中の永観は幻覚妄想状態になり、振り返り言葉をかける阿弥陀如来を体験したのだろう。その体験通りの如来像を造らせた、それが「みかえり阿弥陀」ということだろう。でもこんな非宗教的なことを折角案内・解説してくださる人に言うのは非礼というものだ。「へえー、ありがたいお姿ですね。」と阿弥陀様に向かって手を合わせて拝むことが京都のお寺での礼儀というものだ。 永観が偉いのは禅林寺の境内に、薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施す等、救済活動をしたことである。この伝統は後年まで引き継がれ、明治時代の京都療病院の設立に繋がるのである。 いったん庭園に降りまた紅葉の美しさに感動できる。そして少し高台にある多宝塔に行くと美しい景色が見渡せる。臥龍廊の下をくぐるのも面白い。まあこの寺一つでも十分堪能できるのだ。 次はどこにするか。南に下がって南禅寺に行き、山門、大方丈・小方丈、さらにいくつもある塔頭をめぐるのが観光の定番である。だがD級案内だから、少し北に行き金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を目指すことにする。 金戒光明寺はその所在地からくろ谷さんとも呼び親しまれている。一方で幕末、京都市中警護を目的とし京都守護職が新設され、会津藩主松平容保がその任についたが、この金戒光明寺に千人の藩兵を従えて本陣を構えたのだ。幕末の京都は尊王佐幕入り乱れ一触即発何が起こるかわからない状況であった。そんな中松平容保は家老たちの反対を押し切り京都を死に場所とする覚悟でやってきたのである。ならば本陣として城構えのしっかりしたところでなければならぬ、それにかなう場所は知恩院か金戒光明寺しかなかったのである。 そもそも知恩院や金戒光明寺が戦うためといってもいい城構えを持ったのは徳川家康、秀忠が戦国時代の名残で事あらばの備えとして用意していたことによる。彼らもまさか250年後に城構えにしておいたことが役に立つようになるとは思ってもいなかっただろう。 近藤勇たちが「新選組」として市中警護の任を受けたのもこの金戒光明寺においてである。京都のヤクザの会津小鉄会の初代というべき会津の小鉄は裏で守護職と新選組の間の連絡役のスパイとなり、鳥羽伏見の戦いで会津藩が敗戦し賊軍となったときには、放置された死体を子分200人を動員してきちんと回向法要したという。松平容保の恩義に報いんとした任侠に生きる男であったらしい。 立派な山門は昨年改修がすみ、美しい姿を見せてくれる。御影堂には吉備観音といわれる千手観音像がある。阿弥陀堂も普段公開されている。墓地にはお江の方の墓もある。会津の兵士たちの墓もある。墓地を上ったところに三重塔があり、そこには運慶作と伝わる文殊菩薩もある。 さらに紅葉の季節には特別公開もあり、普段は入れない方丈や庭園を拝観することもできる。見ごたえ一杯のお寺である。 次に行くのは北隣に接する真如堂である。ここの正式名称は真正極楽寺である。まず本堂に続く参道の景色が美しく、途中右手に三重塔がある。紅葉は境内全体で美しい。本堂に上がり、渡り廊下を通って書院を拝観する。その途中に涅槃の庭などの庭園がある。 境内には元三大師堂、縣井観音堂、善光寺如来の分身がおかれてる仏間を持つ茶所などがある。京都映画誕生地の碑もあり、マキノ省三がこの境内で日本初の映画撮影をしたところだ。なお、その映画は「本能寺合戦」だった。 紅葉の季節はあまりにも観光客が多くてごった返すが、紅葉の季節を外してゆっくり散策するのもいい。また、3月15日には大涅槃図が公開され、7月25日には「宝物虫払会」で真如堂絵巻(写本)などが虫干しを利用する形で公開される。ここもやはり見どころの多いお寺だ。 参道を戻り北に行くと道は突き当たる。左に行けば吉田山を登り吉田神社にたどり着く。さらに下れば京大構内にやってくる。吉田山を登り始めるところあたりに吉田山荘がある。人気のある食事処で予約なしでは無理のようだ。私のおぼろげな記憶では45年ほど前はクラスの打ち上げにすき焼きをここで食べたように思うのだが、全然おしゃれな店でもなんでもなかった。時代とともに店が変わったのか単に私が記憶違いをしているだけなのか定かでない。 我々の次の目的地は哲学の道沿いにある法然院なので、北に突き当たったところで右に折れ東に向かう。白川にぶつかるのでそれに沿う道を行き、白川通りの信号を横切ってさらに東に向かうと哲学の道にやってくる。法然院に上がる道の角のところに西田幾多郎の歌碑が立っている。 「人は人吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を吾行くなり 寸心」 寸心は西田幾多郎の号である。学問をする人間はこうでなければいけない。つらいつらい葛藤があったのだろう、でもこう言い切ることで自らを奮い立たせていたのだろう。とにかく偉い人だ。 感慨に耽りつつ、きれいな参道を通り法然院の山門前にやってくる。茅葺の山門は人を威圧することなく迎えてくれ、山門が額縁の役割をして山内の風景を一幅の絵画としてくれる。ここが定番のカメラスポットだ。 かつて法然が弟子の住蓮・安楽とともに六時礼賛(阿弥陀仏を昼夜に6回拝む)を行った草庵をその起源とする。法然不在の時後鳥羽上皇の若き女御松虫・鈴虫の姉妹がその草庵に駆け込み住蓮・安楽により剃髪されたことから、後鳥羽上皇の怒りを買い住蓮・安楽は死罪となり、法然は讃岐に流されことは以前書いたとおりである。許されて都に帰った法然が二人を弔うために建てた寺が、このすぐ南にある安楽寺である。草庵自体は荒廃したが江戸時代知恩院の僧侶が念仏道場として再興した。それがこの法然院である。 境内には盛り砂と池泉があり、方丈庭園には洛中名泉の一つ善気水が湧く。本堂北側の中庭に、三銘椿(五色散椿・貴椿・花笠椿)が植えられている。本堂も中庭も特別公開の時しか拝観できないようだ。方丈の襖絵は狩野光信の作らしいが、通常非公開だ。 そういうものが見られなくても、今日訪れた有名寺院の観光客のざわめきもなく、我々以外に観光客が何組もいるのに、みんな一様に静かに静かに散策し、そして立ち止まり小声で美しさを語り合うので、ゆっくりゆっくり時は流れてくれるのだ。 この寺のもう一つの魅力はその墓地にある。有名な人の墓があるのだ。谷崎潤一郎、九鬼周造、河上肇、内藤湖南、福田平八郎、福井謙一などである。谷崎潤一郎の墓は枝垂桜の下に一対の自然石があり左には「寂」右には「空」とだけ書いたなんとも簡素で「何々家の墓」といういかにも俗っぽい墓でないところがいい。私も終活の手始めに墓づくりをかなり真剣に考えた時期があったのだが、墓石は谷崎潤一郎の墓に倣い自然石にして、「風」とだけ彫ってもらおうと思っていた。それくらい谷崎潤一郎の墓の印象は強かった。実際にその自然石をポイとお墓にするとしても、箕面の墓地区画代はべらぼうに高いと知って私の墓づくりの情熱はずいぶん冷めてしまっている。この頃はどこかに適当に散骨してもらえばそれでいいかななどと思っている。 京都の紅葉巡りここまで歩くともう相当くたびれてくる。美味しい食べ物の店に寄ることもなかったけれど一旦家路につくとしよう。 |
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