D級京都観光案内 23

京都紅葉巡り 2

 

 前回に引き続き京都の紅葉巡りを続けよう。 第15回 「金福寺、思わぬ出会い」で紹介した金福寺がスタートだ。そこから徒歩10分で詩仙堂だ。さらに北に10分行くと散紅葉の名所圓光寺にやってくる。圓光寺は金福寺の本寺であり、村山タカの墓もそこにあるのは以前書いた通りである。

 北に20分歩くと曼殊院にやってくる。20分も歩くのはつらいので車を使いたいところだが、紅葉シーズンのマイカー乗り入れは無謀な行為である。人波の中に車を割り込ませる感じで怖い怖い、何よりも駐車場がない、空いていないのではなく存在しないのである。どうしても車というのならタクシーで行くしかない。流しのタクシーがつかまるわけもないから、その日の行程の最初からタクシーを雇わないといけない。3時間半14千円程度が相場である。年に一度の自分への御褒美だと思わなければ仕方がない。

 曼殊院は延暦年間に天台宗の開祖最澄が比叡山に一堂を建立したことに始まる。時代は下り江戸時代良尚法親王(法親王は仏門に入り僧籍を持った後に親王宣下を受けた時の身分・呼称)の時に現在地へ移転した。良尚法親王は桂離宮を作った八条宮智仁親王の子であるだけに親譲りの洗練された美意識を発揮し、大書院・小書院などからなる建物、茶室八窓軒を作っている。書院庭園は小堀遠州好みの枯山水庭園で国の名勝に指定されている。鶴島の松は樹齢400年といわれ、その根元には曼殊院型キリシタン燈籠が置かれている。

 高貴な方や門跡寺院住職のための台所である上之台所もある。60年前の我が家の台所と構成要素は変わらないがその一つ一つの立派さは半端じゃない。今のキッチンとは大違いで、昔の奉公人たちは苦労したのだろうと同情する。

 モミジも堪能したなら次のお寺に向おう。目指すは赤山禅院。修学院離宮の前を通って行くのだが、小腹がすいたのならどこか食堂に寄ろう。とはいってもえり好みはできない、修学院離宮の近くには小林家といううどん屋しかない。修学院離宮道を修学院離宮に突き当たる直前にこの店はある。近所の人か、観光中で食べるところ探していてうどん屋の暖簾を見つけてやってくる客だけが対象の店だ。

 ところが食べてみると案外おいしいのだ。特に私のお勧めはたぬきうどんである。刻みの油揚げのきつねうどんにショウガがいっぱいの餡かけをしたものだ。上七軒のうどん屋ふた葉でもおすすめとしていたものだ。値段は驚きの600円。もう一つのお勧めはカレーうどん。ただ肉は入っていない、カレー味のきつねうどんだ。もちろん刻みの油揚げ。ふた葉のカレーうどんも同じだ。値段はたぬきと同じく600円。牛肉の入っているカレーうどんは肉カレーうどんといい750円である。にしんそばは700円。中華ソバは550円。おにぎり2200円もカレーうどんには合いそうだ。

 ここから赤山禅院には歩いていけば5分もあったらいける。ところがタクシーをチャーターしていたなら、紅葉の季節は参道の入り口までしか送ってくれず、うどん屋近くの赤山禅院指定タクシー駐車場に引き返す。参拝が終わり次の目的地に行くときには、その参道入口で教えてもらった運転手さんのケータイに電話を入れると迎えに来てもらえるという段取りだ。

 赤山禅院は古来「紅葉寺」といわれてきたくらい紅葉の名所である。広い境内をめぐればその場所その場所で美しい紅葉に感嘆の声を上げることができる。でも紅葉だけがこの寺の魅力ではない。いろいろな楽しみ方ができる寺なのだ。

 まずご本尊が赤山大明神で中国泰山に住み人の賞罰・生死をつかさどる神(泰山府君)を勧請したものである。延命、魔除の法力があり、方除けの神として崇められている。平安京は四神相応の地として選ばれたように非常に方位・地勢が重要視された。北東の方向は鬼門とされ、そこから鬼や怨霊が都に入ってくるといわれ、御所の北東の方向に鬼門封じとして比叡山延暦寺と、そしてその塔頭である赤山禅院がこの地に建てられたのである。

 なお西南の方向も裏鬼門といって魔除けをせねばならぬ方向だが、平安京の場合は石清水八幡宮がその役割を担っている。西南の方向の十二支は魔除けの神の使いに抜擢されるが、おとなしい羊よりやんちゃな猿のほうがよかろうということで、鬼門を守る神使は猿である。拝殿の屋根に鬼門除けの猿が置かれている。やんちゃなものだから逃げ出してはいけないと金網をかぶせてある。

 御所の北東角は壁がわざわざ内側に凹ませ、そこに鬼門除けの木彫りの猿が金網に閉じ込めておかれている(猿が辻)。木彫りの猿なのに勝手に抜け出して悪さをしたから金網をしたと言い伝えられている。赤山禅院の猿も本家に倣って金網で閉じ込められたのだろう。

 天台宗の一番の荒行が千日回峰行であり、比叡山の峰々を130q巡行することを1年間100日あるいは200日、7年間にわたり行うものである。この中で6年目の100日間は比叡山から雲母坂を下って赤山禅院に来て赤山大明神に花を供しまた比叡山に戻る行程が付け加わり160qを走破する、赤山苦行をしなければならない。

 赤山禅院では千日回峰行を満行した大阿闍梨が住職を務め、新春15日八千枚大護摩供、55日には端午の節句の護摩供、9月仲秋の名月の日には喘息封じへちま加持が執り行われる。大阿闍梨がへちまにぜんそくや気管支炎を封じ込め、加持祈祷を行う。赤山禅院の案内によると、「大阿闍梨が加持をした『へちまの御牘(ごとく)』を、お持ち帰りになり、作法に従ってご祈願してください。」とある。さらに「これを3年続けると喘息は治る」とも書かれている。いやしくも医師会の会誌にこんな非科学的なことを載せるのは憚られるのだが、喘息に心理的要因も関係するからな程度に読み流していただきたい。

 紅葉が盛りの1123日、大阿闍梨によって珠数(じゅず)供養が行われる。「じゅず」は普通「数珠」と書くが、赤山禅院では「珠数」としている。紅葉の中全国から集められた数珠が焚き上げられ供養される。

 案内書によると「五十払い(ごとばらい)」の商習慣も赤山禅院の5日の縁日に参ったら儲かるようになったという江戸時代の商人たちの評判から、510の付く日(五十日:ごとび)を決済日にする商習慣が始まった。」とあり、集金の神様とも崇められているという。友達に貸した金が戻ってこない人は、ここにお参りに行けばよいだろう。

 次の目的地三宅八幡宮に行こう。車なら白川通りを北に行き花園橋で八瀬のほうに右折し、三宅八幡宮の案内が見えたらそれに従っていけば境内に入っていける。徒歩なら叡電の宝ヶ池駅か修学院駅まで戻り、電車で三宅八幡前駅まで行き、下車すればすぐである。

神社のホームページには「隠れた紅葉の名所」とうたっているのだが、私が訪ねた時にはもう散ってしまった後だったせいかもしれないが今一つだった。

遣隋使で有名な小野妹子がここ上高野に移り住んだ時に、宇佐八幡宮を勧請して建てられた。子供の守り神として、「かん虫封じ」「子供の病気平癒」「夜なき」「学業成就」のご利益があり、他にも、虫退治の神様 として「害虫駆除」 などの御利益で知られ、通称 「虫八幡さん」(むしはちまん)とも呼ばれる。子供の疳の虫封じがゴキブリ・シロアリ退治に通じるというのはちょっとなんかなあとは思ってしまう。

ハトが神使であるので鳥居前には狛鳩が置かれている。なぜハトが神使なのかは宮司さんにもよくわからないらしい。でもハトに関連するものがいろいろ見つけられる。名物菓子も鳩餅だ。鳩餅は境内の三宅八幡茶屋で売っているしお持ち帰りもできる。米粉と上用粉をこねて鳩の形をしたおしんこ団子で白、ニッキ、抹茶の3種がある。鳩餅を作っているのは叡電修学院駅前に本店がある双鳩堂である。味はといえば「祇園饅頭」のしんこといい勝負だ。

三宅八幡宮から八瀬街道を少し行くと、蓮華寺にやってくる。車だと気づかずに通過してしまいそうなほど目立たない寺院である。それぐらいひっそりとした細い参道を行くと寺の入り口にやってくる。それほど威圧的でない門をくぐって境内に入ると、しかももしその時期なら散紅葉の美しさにハッとして、圧倒される。その時期は2度あって、はじめはイチョウで全面に黄色で覆いつくされる時。その後モミジが散ると、今度は地面が紅色に染まるのだ。参道の左右には蓮華寺型灯籠と呼ばれる茶人たちに喜ばれた灯籠がある。

参道を突きあたると書院と一体化した庫裏があり、ここで拝観受付を済ませて書院に行く。書院から庭園を眺めてもよし、庭園に降り立って散策することもできる。この庭園には石川丈山、狩野探幽がかかわったとされ、当時の著名な儒学者木下順庵も撰文を書いている。

蓮華寺を辞し、八瀬街道を少し進むと、崇道神社の参道前にやってくる。崇道神社はある意味京都の神社仏閣のもっとも本質的な部分を体現しているところといっても差し支えない。したがって紅葉だ絶景だと観光客で京都の神社仏閣が浮かれていても、まったく別世界の本来の京都がそこにあるのだ。

早良親王は平安京遷都を成し遂げた桓武天皇の同母弟である。桓武天皇は70年にわたって続いた奈良の平城京を捨て、新たな都を北の京都長岡京に作る決意をした。それは天武天皇系統から天智天皇系統の新しい政治を求めてであり、奈良の仏教勢力や旧来の氏族からのしがらみを脱却する狙いもあった。

しかし新都長岡京建設は10年で頓挫する。新都建設最高指揮官の藤原種継が暗殺されたのだ。その犯人は旧勢力の代表者大伴氏(万葉集歌人大伴家持が特にその首謀者とされた)の一派であるとされ、さらには早良親王にもその疑いが及んだのである。早良親王は乙訓寺に幽閉されても断固無罪を主張し、断食して自分の潔白を訴えた。にもかかわらず桓武天皇は許さず、淡路島に島流しにした。その途中に早良親王が死んでしまってでもある。

その後桓武天皇は様々な不幸に見舞われる。夫人が死に、生母も皇后も次々に亡くなった。息子の皇太子も重病に苦しんだ。長岡京は2度の洪水に見舞われ、疫病は蔓延した。桓武天皇はこれらすべて早良親王の怨霊のせいだとおびえ、平安京への再遷都となったのである。

延暦19年桓武天皇は早良親王の怨念を払拭するため、崇道天皇と追称し、大和国に移葬した。さらに下って貞観年間、怨霊や祟りが広く信じられていたこの時期、都の鬼門に当たる当地に崇道神社が建てられたのである。

長くて静かな参道を黙々と登っていくと、怨霊とまでなった早良親王の無念さそしてその怨霊を恐れた人たちの気持ちがわかるような気がする。本殿・拝殿は質素なものであり拍子抜けするくらいである。

ただこの近くの山中から金銅小野毛人墓誌が出土し国宝に指定されている。小野毛人(おののえみし)は小野妹子の子であり、天武天皇の時代の官吏であったと墓誌には記されている。その墓誌は現在京都国立博物館の保管されている。

今日は相当の強行軍、今回の京都観光はこれでおしまいである。


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