D級京都観光案内 46

松原通

 京都の街路は碁盤の目のようなと形容される。平安京の条坊制(1条を4坊に分け、1坊を4保に分け、1保を4町に分けるシステム)がいまも受け継がれているからである。千年の都の自負はこの外形的遺産に基づいている。

かつて京大の名物教授森毅先生の教養部文系の数学の試験問題は「四条河原町から熊野神社前(東山丸太町)までタクシーで行くのにどんな経路をとっても値段は変わらないことを証明せよ。」というのであった。碁盤の目に沿うどんな経路も等距離になることが証明の眼目である。当時(昭和40年代)はこれでよかった、しかし現在では、渋滞にかかる経路を取ってしまうと料金は上がってしまうのである、安い運賃体系を取るタクシー会社を選べば当然安くなるのである。この事実を例示して「よってこの出題自体が誤りである」と回答すると、多分森先生は95点か満点をつけてくれただろう。

脱線ついでに京大教養部文系の数学の試験問題について。もう一人駿才と言われた小針晛宏(こはり あきひろ)先生の試験問題は「『数学ができる人は頭がいい』は正しくないことを証明しなさい」であった。先生が満点を与えた回答は次のようだった。「小針先生は数学ができる人である。小針先生は(失礼ながら)頭のいい人とは思われない。よってこの命題が正しくないことは証明された。」こんなことが許されたのだ。古き良き時代だった。

二条通から三条通、三条通から四条通は確かに間に3つの通りを挟んでいる。ところが四条通から五条通までは5つの通りが間にある。実際車を走らせているとき、四条五条間は長いなあと感じるのである。平安京の地図を見ると四条五条の間は3つの通りしかない。誰だこの条坊制を壊したのは?

豊臣秀吉である。秀吉は応仁の乱、戦国時代で疲弊した京都の町を再興するために、まず京都での自らの権威付け、内需の拡大、京都と全国各地の流通の拡大、軍事的防衛を図った。聚楽第を造る大工事をし、短冊形の町割りの実施で町の活性化を図り、御土居を造り、町の防衛を図ったうえで、東海道の運輸の活発化のために三条大橋の架設をした。

鴨川にかかるその南の五条の橋は、清水寺参詣の清水道に通じる橋であった。秀吉が奈良の大仏を越えるものとして作った大仏の収まる方広寺は五条より南に位置する。その参詣に便利になるようにと、五条の橋から2筋南に下がった六条坊門小路に新しい五条大橋を架設した。そこは京都大阪を結ぶ水運の要衝伏見と京都を結ぶ陸路伏見街道の起点の役割も担った。

となると新五条大橋につながる通り(六条坊門小路)が五条通と呼ばれるようになる。それまでの五条大路は、松並木がきれいなことから松原五条通りと呼ばれたが、そのうち松原通になったという。

このように松原通はもともと平安京の五条大路であったところである。その名残で面白い通りなのである。昭和30年までは祇園祭の山鉾巡行は四条烏丸→四条寺町→寺町松原→松原東洞院で行われ、山鉾は松原通を堂々と進んでいた。昭和31年山鉾巡行の観客を増やすために狭い松原通から広い御池通に変更されたのだ。なお昭和36年からは寺町通から河原町通に巡行路は変わり、現在に至っている。大人気の「辻回し」を見ることができるのは四条河原町と河原町御池である。

このように道は狭い。車の通行は、一方通行の区間も多い。それも東行一方通行だったり、西行一方通行だったり、運転しているとエッ向こうには行けないのと一瞬頭が真っ白になる。

鴨川から東の松原通は清水寺への参拝路であり、鳥辺山ふもとの葬送の地に由来する六道の辻、六道珍皇寺、西福寺そして六波羅蜜寺に訪れる人の通る道だった。「D級京都観光案内 8.二つの幽霊子育て飴」でこのあたりのことはもうすでに触れている。付け加えるとするとハッピー六原というスーパーは地元密着型のなかなか面白いお店だ。

食べるところでは昔ながらの力餅食堂に町家を改造した新しがりが好きそうなカフェSAGANもある。渋いところでは京都で唯一の種麹の店、もやしや菱六が西福寺の真ん前にある。

清水寺及びその周辺については一杯観光案内本があるので、そちらに任せる。枕草子にも「さわがしきもの」として清水への参詣路の騒々しさがあげられており、平安時代から賑わっていたことがわかることだけを指摘しておこう。

旧五条大路の名残を残す松原通の探索に出かけよう。最初は五條天神宮である。西洞院通と松原通にそれぞれ門がある。駒札によると、大己貴命少彦名命天照皇大神を祭神とし、平安遷都に当たり大和の国から天神(あまつかみ、雷神と水神)を勧請したのが始まりとある。この天神は菅原道真とは関係がない。少彦名命(すくなひこなのみこと)は医家の祖神、医薬・禁厭(きんえん)(おまじない)・農耕の神さまとして信仰されている。私も医者のはしくれとしてよく拝んでおいた。

厄除けの神としても知られ、節分の日には日本最古といわれる宝船図が授与される。宝船図と言っても七福神が描かれた賑やかのものではなく、舟に稲穂を一束のせた簡素なものである。宝は「田から」というので稲穂一束なのらしい。Simple is the best.なのかもしれない。

北門横の松原京極郷土史会による駒札には、「義経・弁慶出会いの場所」とある。その説明によると、この五條天神に丑の刻参りをしていた弁慶が、笛を吹きつつ歩く牛若丸を見つけ、その腰に付けた黄金の太刀を奪おうとしたことから二人の争いは始まり、敗北した弁慶が義経の家来になる機縁は当社にあると説明する。さらに言う。童謡の五条の橋は五条大橋のことで、確かに現在、五条大橋の西側に牛若丸・弁慶の像が立っている。でも平安時代の五条の橋は今の松原通にあったはずで、当社の近くに西洞院川が流れ、そこにかかる橋であると考えられ、当社が二人の出会いの場所だということに矛盾しないと。

さて五條天神宮の西を南北に走る通りは東中筋通であるが、そこの町名を見ると、天使突抜1丁目、2丁目と4丁目まで続く。かつて広大な鎮守の森であった天神宮を突き抜ける道があったことに由来する。天使と言えばキューピットを連想し、突き抜けというとその持っている矢が自分自身に当たったのだろうかと思ったのは私のとんだ妄想だったようだ。

五條天神宮から少し東に行ったところに光圓寺はある。親鸞聖人の寓居地跡で、入寂の地でもある。今は質素なたたずまいの寺である。

西洞院通を一筋北に上がり、高辻通を少し西に行った北側に、道元禅師示寂の地の石碑がある。道元は建仁寺の栄西のもとで禅を学び、その後宋にわたり帰国後深草に興聖寺を建てる。晩年には権勢を離れ越前永平寺で「只管打坐」と坐禅の重要性を教えたが、病を得て京都に戻りこの地で療養し示寂したという。立派な墓石があるが、管理しているのは永平寺とあった。

西洞院通をさらに上がった右手に菅大臣神社がある。ここの様子は「天満宮めぐり」ですでに書いている。

五條天神宮から松原通を東に行ってみよう。松原商店街の川魚屋さんや鶏肉やさんがある。買って帰って失敗はない。光月というすし屋、手打ち蕎麦井上はともに安くて満足できる店である。

烏丸通に行く少し手前に新玉津嶋神社はある。和歌の浦の玉津島神社に祀られている和歌の神様の衣通郎姫(そとおしのいらつめ)を、藤原俊成が自邸内に勧請したことに由来する。俊成はこの地で千載和歌集を編纂した。平家物語「忠度都落ちの事」にあるように、歌道の弟子の平忠度が都落ちする際に訪ねた「五条の俊成卿宅」は正にここで、「一首だけでも選んでほしい」と差し出した秀歌の巻物の中から、「さざなみや志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな」の一首を選んで入れた。朝敵となってしまったため詠み人知らずとして。

烏丸通りを越えた一筋目の細い通り、不明門通(あけずどおり)を北に行くと因幡薬師堂平等寺がある。ご本尊の薬師如来像は清凉寺の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つである。因幡堂縁起によると、因幡の国司として赴任した橘行平が重い病気にかかり、病気平癒を祈願したところ賀露津の沖から薬師如来が引き上げられ、それを祀り祈ったところ病気はたちまちに平癒して無事京都に戻ることができたという。6年後橘行平の邸宅迄因幡に祀られていた薬師如来が飛んできたため、邸内にお堂を建てたのがこの寺の始まりである。

後に高倉天皇より「平等寺」と名付けられる。高倉天皇の愛した小督の愛用の硯箱や、小督の髪の毛も織り込んだ織物が寺宝として所蔵されている。薬師如来像は非公開だが、鎌倉時代作のいろいろな仏像は参拝することはできる。

不明門通(あけずどおり)の名の由来は、この通りの北限が平等寺の正門になり、常に閉ざされていたことによる。この通りを南に下がり五条通まで来ると蕎麦の実よしむらがある。嵐山よしむらの姉妹店である。ざるそばは3種類の太さの中から選べる。汁そばの出汁はちょっと物足りない感じがするのは私だけのことだろうか。

全く個人的な話になるのだが、私が生まれたのは鳥取市賀露町というところだが、因幡薬師が引き上げられた賀露津その地である。5年後京都に引っ越してきたのだが、母に連れられて父の働く小さな出版社にも来たことがある。それが一つ東の東洞院通を、北に2筋上った仏光寺通あたりにあったのだ。なんか私も薬師如来と同じ経路をたどったのだと全くのしょうもない妄想に浸ってしまうのだ。

東にさらに3筋行った堺町通の北と南に石碑がある。北に行くと「源語伝説五条辺夕顔墳(げんごでんせつごじょうあたりゆうがおふん)」の石碑がある。源氏物語の光源氏に愛された五条あたりの荒れ果てた家に住む女性、夕顔の伝説を記念する碑である。この石碑のある町の名は夕顔町である。

南にある石碑は「鉄輪(かなわ)跡」である。謡曲「鉄輪」は下京に住んだ女が夫に捨てられ、夫が娶った後妻を恨み殺そうとし、貴船神社に丑の刻参りをし、頭に鉄輪を載せ3本の足に火をつければ鬼になれるとのお告げ受ける。夜な夜な悪夢に苦しむ夫の頼みで安倍晴明が祈祷をすると鬼女はあらわれ、ついにこのあたりの井戸に身を投げる。後年、鬼女の霊を弔うために鉄輪塚が築かれたという。

鉄輪跡から少し戻った路地の奥に鉄輪井がある。江戸時代にはこの水は名水とされ、縁を切りたい相手にこれを飲ませると縁が切れる「縁切り井戸」と言われたらしい。今はこの井戸は涸れているが怨霊は住むという。

やっぱり松原通、かつての五条のあたりはちょっとディープな話題がてんこ盛りなのである。


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