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病治りて医者(くすし)忘る | 病気も治ってしまえば医者のありがたさも忘れる、苦しいときに受けた恩も、楽になればすぐ忘れてしまうことのたとえ。医者の立場から言って、負け惜しみでなく、いつまでもありがたいありがたいと思われるより、「あの先生にかかったけれどそう恩に着るほどのことでもないわ」といわれるほうが名医だと自負したくなる。医者のありがたみがいつまでも患者さんの心に残るということは、患者さんがいかに長く苦しい闘病生活を送ったかを意味する。それを何とか治して見せたのはもちろん誇らしい気持ちにもなるのだが、自分の未熟さが病気を長引かせていたあのかもしれないのだ。普通の医者ならそれほどの難しい病気をさっと治してしまう、それこそ名医だと思う。 | 2020/10/13 |
喉元過ぎれば熱さを忘れる | 苦しかったことも過ぎ去ってしまえば全く忘れてしまう。苦しいときには人を頼みとしたくせに、その苦しみがなくなるとその人の恩を忘れること。学習効果がない人ということですが、ついこうなりますねえ。「友情と連帯」の旗を掲げるものとしては、自己責任で同じ失敗を繰り返すのは仕方ないものとしても、連帯してくれた人の恩は絶対忘れたくないと思いますねえ。 | 2020/10/13 |
羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く | 羹(あつもの)は熱い吸い物のこと。膾(なます)は細切りの獣肉・魚肉にネギなどの薬味を入れ酢で和えた料理。孔子も好んだという。日本では魚介・野菜・果物を細切りにして酢で味を調えた料理に発展した。いずれにせよ、熱い吸い物でのどをやけどして懲りたものは、冷たいなますまでフーフー吹きながら食べるように、一度失敗したことに懲りて無用な用心をすることを言う。「石橋を叩いて渡る」様子を揶揄しているともとれる。 | 2020/10/13 |
友よ、夜明け前の闇の中で | フォークの神様・岡林信康の名曲「友よ」の出だしである。この後、「友よ、戦いの炎を燃やせ」「夜明けは近い、夜明けは近い」と続き、「友よ、この闇の向こうには、友よ、輝く明日がある」で結ばれる。「あけない夜はない」のだが、ただ待っているだけではだめだろう、闘うことも必要だが、一人だけの戦いじゃない、連帯しながら闘うことで、輝く未来をつかむことができるのだ。闘わねばならない人たちの「友情と連帯」はこうなんだ。 岡林信康にとってフォークの神様は重い首枷になり、音楽活動をいったんやめたあと、再び活動を始め演歌風の歌や「エンヤトット」などを披露している。これはこれでいい、岡林信康が多様な価値観のもとで生きる有様を見せてくれることは、「友よ、戦いの炎を燃やせ」と元気づけてもらえるのだ。 |
2020/10/13 |
あけない夜はない | これはその通りですね。苦しい逆境でもこの簡単な文言を思い出せばぐっと耐える心の支えになります。 | 2020/10/13 |
冬来たりなば春遠からじ | イギリスの詩人シェリーの「西風に寄せる歌」の結びの句から来たもの。厳しい冬が来たとも、あならず暖かい春が巡ってくる、今はどんなに不幸でも、それに耐え抜けば必ず明るい未来がやってくるものだと。「塞翁が馬」と同じ思想が背景にあるが、つらいつらい状況に陥った時に、特に初めて経験するつらい状況の時にも、是非、口にしたい言葉である。 | 2020/10/13 |
三寒四温 | 冬季に3日間ほど寒い日が続き、続いて4日間ほど暖かい日が続く天候のこと。中国東北部や朝鮮半島北部ではシベリア高気圧の周期的な発達と衰えのせいで、よく見られた現象という。日本においては、寒暖の周期的変動は、真冬ではなく、春先においてよく見られる現象である。それも3日4日というような規則性があることはまれで、もっと不規則に寒暖が繰り返されている。しかし春先から寒暖を繰り返し結局暖かな春が来るのだから、日本人にとっては、三寒四温はだんだん春が近い気候だという意味で用いられる。うつ病やパニック障害が治る過程は、直線的にあるいはぶり返しなどなく着実によくなっていくのではなく、2歩前進一歩後退を繰り返しながらよくなっていくのである。患者さんにとって病状が後戻りしてしまったことはとっても怖くて落胆してしまうことだが、必ずまた回復し、寛解というゴールに到達することができる。そう、「三寒四温」で良くなっていくのだ。 | 2020/10/13 |
三度目の正直 | 物事一度二度と立て続けに失敗したり負けたりしても、三度目には上手く行ったり勝ったりできるものだということ、あるいはそうなった時に使う。試験に2回連続落ちても3回目に合格した時や、スポーツで3回目の挑戦でやっと勝った時などに頻繁に使われる言い回しだ。失敗続きで不安な時もこのことわざを胸に挑戦できるすごく前向きに我々を後押ししてくれることわざだ。「正直だ」ということは「最初の2回の失敗はよりも、今度の成功が真の実力だったのだ」とうぬぼれてもよさそうである。物事何でも楽観的に、自分に都合のいいように考えていいのだから。 ところでことわざの最初の使われ方は少し違うみたいなのである。いろんな国語辞典にあたると微妙に言い回しが違うのだ。 「占いや勝負で、一度や二度はあてにならないが三度目は確実ということ。」「一度や二度は上手く行かなくても3度目には期待通りの結果が出ること」「何事も1回や2回ではあてにならないが、3回ともなれば信じていいこと」 最後の解釈は「三度目なら正直」という意味みたいで、最近はあまり使われないようにも思う。 ことわざ認知療法が有用であるのは、ことわざというものは「善は急げ」「急がば回れ」のように対立する考え方を表しているものもあれば、「三度目の正直」のようにいくつもの解釈があるものがあるところにある。物事が上手く行かない時、すごくつらいと感じるときなどは不安や抑うつなどの負の感情に襲われている。そのとき人は「こうあらねばならぬ」「これしかない」など負の思考の視野狭窄に陥り、負の感情を増強させるという悪循環に陥りやすいのだ。この悪循環を断ち切る最初のステップは、「こうあらねばならぬ」「これしかない」という思考を、「いやこうも考えられる」「別のこんなやり方でもいいか」と思考の幅を広げてみて、負の感情の増大を阻止し、減らしていって、次の行動に移っていけばいいのだ。思考の幅を広げる手段として、ことわざという短い語句で奥深い内容を持つ「人生の定理」を思い出し、納得し、心の不安を追い払うことができるのだ。 |
2020/10/09 |
二度あることは三度ある | 物事は繰り返し起こるもので、二度起こったことは続けて3度起こることが多いから、注意しよう、特に災害や悪いことはこの傾向が強いからその対策を立てておこうというもの。 「一度あることは二度ある」も同義のようだが、起こりやすさの確率は全然違うのである。「一度あることが起こった」ということは「そのことは絶対起こらないとは言えなかった」ということだけが真実である。「株に躓いた兎」はこの例だ。「そのことが起こる可能性はある」とはいえるのだが「そのことがまた(たとえば)1年以内に起こる確率は有限の値」だとは意味しないのである。勿論「起こる可能性が出てしまった」のだから、一応の対策は考えないといけないのだが、喫緊の課題というわけではなく、他にもっと重要なことがあればそちらに力を注げばよろしい。 ところが「そのことが2度起こった」となるとそのことが起こる確率は明らかにある程度の値を持つのである。1か月後に2度目が起こったとしたら、対策を講じなければ1年以内に3度目が起こる確率相当高い数字になるはずである。「二度あることは三度ある」の経験則を確率論的に説明するとこうなるのである。 かつて大学の教養部の数理統計学の試験問題が「『二度あることは三度ある』を確率論的に説明せよ。」だった。 |
2020/10/06 |
虻蜂(あぶはち)取らず | 両方の物をとろうとしてかえってどちらも取り逃がすこと。欲張りすぎるとかえってダメということ。「二兎追うものは一兎をも得ず」と同義。興味があるのは英語圏の2羽の兎を同時に狙って結局取り逃がすというのは確かに損しちゃったなあという意味がよく分かるが、我が国のアブやハチはそもそも捕るものなのかという疑問がわく。アブにもハチにも刺されないよう追っ払うのじゃないのか。どちらか一方だけ追い払うのではなくやみくもに手や体を振り回し二匹とも追い払おうとするのが正解じゃないないのだろうか。昔の人はアブもハチも捕まえるといいことがあったのだろうか。 | 2020/10/06 |
二兎追うものは一兎をも得ず | 英語のことわざの訳。二羽の兎を同時に捕まえようと追いかけても、結局は一羽も捕まえられないという意から、欲張ってあれもこれもとものにしようとすると、結局何一つ得られるものがないということ。このことわざは本当よくわかるのですが、現実にはついついこの失敗をやらかしてしまうのです。目の前に獲物が見えたらそっちを追いかけてしまうし、途中で別の獲物が目に入れば、ついついそっちを追いに行ってしまいます。ひょっとして自分のやってきたことはいつもこうだったのかなと思ってしまうぐらいだ。 | 2020/10/06 |
一石二鳥 | 英語のことわざの訳。一個の石で二羽の鳥を打ち落すことができるように、一つの試みで二つの成果を得るたとえ。「一挙両得」と同義。 | 2020/10/06 |
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる | 鉄砲を撃つのが下手でも、数多く打っているうちに命中することもあるということ。どんなことでも何度もやっているうちにうまくいくことが一つや二つは起こるということ。 数学的に説明するとこうなる。合格確率10%だとすると8校受験してどこか一つに合格する確率は1-(8校とも不合格の確率)、すなわち1-0.9×0.9×0.9×0.9×0.9×0.9×0.9×0.9=1-0.43=0.57 6割近くの確率でどこかに滑る込めるのだ。 何度も何度も挑戦してみればいいのだ。必ず合格確率は上がっていくし、時にはそのけなげな姿を目にした人がその真面目さを買いましょうと合格証をくれる場合もあるのだ。世の中見捨ててものじゃないと夢をあきらめないでおきましょう。 |
2020/10/06 |
柳の下の泥鰌(どじょう) | たまたま柳の下でドジョウを捕まえたからといって、またいつもそこででドジョウを捕まえることは難しい。一度いいことが起こったからといって、度重なるなるものではないということ。「株を守りて兎を待つ」と類義。 しかし釣りのポイントといわれる穴場を見つけることは大事なわけで前取れた柳の下がそのポイントである可能性もあるのだ。ポイントたる資格を持っているかどうか、水温、水流、泥の具合、日の差し具合などを検討しながらドジョウ捕りをすれば、柳の下の二匹目のドジョウを狙いに行ったなどと揶揄されないだろう。それどころかいつでもドジョウを手に入れることができて、「カモにする」ことができるかもしれない。 |
2020/10/06 |
株(くいぜ)を守りて兎を待つ | 出典は韓非子。宋の国の農夫が切り株で首を折った兎を捕まえて以来、同じ幸運を得ようと畑仕事を放り出して切り株の番だけをして、(もちろん兎が再び転んでくれるわけがなく)国中の笑いものなったという故事による。一度うまくいったやり方にこだわって、新しい方法を考えられないもののこと。たまたまの幸運だったにもかかわらず、それに気づかず同じ幸運をただただ待つだけの人のこと。 ただその幸運が単なる偶然から来たのか、いや再びその幸運が訪れる可能性はまだまだあるのか見極めるのは難しい事なのだ。 |
2020/10/06 |
ビギナーズラック | 初心者の幸運の意味で、かけ事などで初めてする人が往々にしてつかむ幸運を言う。競馬や競輪の場合、なまじ経験のあるものより初心者の方が全く適当な順位予想をするもので、それがかえって大穴を当てることにつながりこういうことが起こるのだ。ゲームやスポーツにも広げて使われるが、力の強弱は極めてはっきりしているのに、初対戦となると思わぬ番狂わせが起こるものなのだ。かけ事の場合の初心者なるがゆえに確率の低いものを平気で選んで結果幸運が転がり込んでくるのとは違って、ゲームやスポーツでは初心者がただただ基本に忠実で、妙な小細工をしないほうが、受けに回った強者のいらぬミスをどんどん誘っていくということが起こるのだろう。 私の家庭菜園でも、新しく手掛けた作物は予想外に上手くできたのに、だんだん経験を積んでいくのに全く収穫できなくなったということを経験してきた。ビギナーズラックを懐かしむだけでなく、どこに栽培の失敗があるかの反省分析が必要だったのだ。 精神科医療でさえ、ベテランの先生方が難渋した患者さんを、初心者の研修医の方がうまく治したという事例も見てきた。精神科医療では患者さんを治すというのは患者さんとともにああでもないこうでもないと一緒に悩むことの方が大切なのかもしれない。精神科医の治療レベルはまだその程度しかないと自戒しておこう。 |
2020/10/06 |
棚から牡丹餅(ぼたもち) | 棚から牡丹餅が落ちてくるように、労せずして思いがけない幸運に出会うことをいう。最近の生活様式だと、どうして棚から牡丹餅が落ちてくるということがよくわからないし、棚から落ちてきた牡丹餅というのは衛生面で問題あるなあと思うのだが、そういう詮索はなしにして、苦労せずにいい結果を得ることはあるものだと教えてくれている。人生訓として大切なのは、そのあとの気持ちの持ち方なんでしょうね。もらったチャンスはものにしよう。これも日ごろの行いがいいからだ。でもいつもこんなにうまくいくわけではないから、努力は怠らないでおこうと、まあすべていいように考えることが大事なんでしょう。 | 2020/10/06 |
串うち三年、裂き八年、焼きは一生 | 鰻のかば焼きだとこうなる。 | 2020/09/17 |
舞二年太鼓三年笛五年鼓八年謡八年 | 芸事を一通り習得するまでの修業年数はこうなる。 | 2020/09/17 |
習うは一生 | 勉強にこれで終わりということはない。芸事もしかり、職人技もしかりである。なお能楽に関して世阿弥が花鏡で書いている「初心忘るべからず」はよく使われる「学び始めたころの謙虚な気持ちを忘れるな」とか「初志を貫徹しよう」という意味で使ったのではなく、「初心は習いはじめだけでなく、円熟したその時々にも、老後になってもその時にふさわしい初心があるものだ」と学び続けることの大切さを教えているのだという。 | 2020/09/17 |
出来が悪いは師匠が悪い | これが私が今作ったことわざです。「習わぬ経は読めぬ」でも書いたように教える側は往々にして一つの見本、教科書であったりマニュアルであったりを提示しながら教えます。教える側はその教科書、マニュアルに慣れ親しんでいるので、それさえ読めば生徒はわかると勘違いしてします。そんなこともわからないのか出来の悪いやつだと決めてしまうのは、自分の教授法、研修法が悪いことに気付かず、弟子をダメにしてしまうのだ。 | 2020/09/17 |
習わぬ経は読めぬ | いつも聞かされ読まされているお経は読めるものの、まだ教えてもらっていないお経を読めと言われてもそんなのできるわけはありません。どんなことでもやれと言われてもできないことです。マニュアルに書いてあるでしょう、その通りにやればできますよといわれても、初心者にとってマニュアル読むだけで手順を理解することまず無理だ。マニュアルは手順が分かっている人にとっては理解できるが、初心者にはマニュアルの意味が理解できないことが一杯あるのだ。教える側はそのことを理解しておかないといけない。 | 2020/09/17 |
門前の小僧習わぬ経を読む | 寺の門前に住む子は聞き覚えてお経を読む。何事でもしょっちゅう見聞していることは自然と覚えるものだというたとえ。でもこれは簡単な内容のものだから覚えられたのですよね。難しいものはやはりきちんと習うことが大切です。もちろんうまい的確な習い方をしないといけないですがね。分からないことは先生に聞く、教えてもらえなければ、より基礎に戻って反復練習をするを繰り返して、どんどん学習内容を高めていくのです。 | 2020/09/17 |
経験は学問にまさる | 実際に物事にあたって得たものは、理論より身につくものである。「習うより慣れろ」と同義でつかわれる。研究者、学者というものは往々にして書物に書かれたものを大切にするが、机上の空論に終わることも多いのだ。理論物理学者は紙と鉛筆だけで理論を打ち立てるが、実験物理学者の検証によってはじめてその理論の正しさが証明されるのだ。ただこのことで学問すること習うことを馬鹿にしてはいけない。経験していることに新たな真実が隠れていたことを気づくには常に経験の意味を今まで習ってきたことに照らし合わせて吟味する姿勢を持ったからこそ、その経験が意味あるものになったのだから。 | 2020/09/17 |
習うより慣れろ | 何事も、人に教えてもらうより、自分で努力して慣れるほうが上達するとある書には書いてある。ただこう単純には解釈できないところがあると思う。教えてもらってうまくできないのに自分で努力して場数を踏むうちうまくいくようになる、というのは結構難しい。あるやり方の手順を教えてもらってもその理屈が分からないとき、理屈が分からないまま何とか見様見真似でやってみる、そうするうちに理屈の方もわかってくるのだということだろう。単純に慣れればそれでうまくなるというのではなく、それらしく何とか課題をこなしていけば、教えてもらっても理解できなかった理屈・手順が分かるようになるのだが、このためには教えてもらったことを反復練習する、あるいはより簡単な過程を反復練習することが必要なのだ。昔の師匠は弟子に一つ一つ教えたりせず、見ていて覚えろ、師匠の話すように話して芸を覚えろといったのだろう。師匠の方も練習、修業の方法をうまく言語化して教えるということができないという面もあったのだ。弟子たるもの慣れることが必要なのだが、常になぜそうなのかを習う姿勢がなければ師匠の域には到達できない。 | 2020/09/15 |
待てば海路の日和あり | 「待てば甘露の日和あり」の言い方を変えたもので、焦らず待っていれば、やがて幸運が来るということ。なぜ言い換えのようなことが起こったのでしょう。これは「甘露の日和」が古代中国の思想によるもので、日本に伝わったときにピンとこなかったのでしょう。それよりも海路を無事航行できるかの方がはるかに関心があり、いつ出港すべきかを船頭は日和を見極めて決定したことから、「海路の日和」という言い回しにかわったのだろう。 | 2020/09/14 |
待てば甘露の日和あり | 焦らずじっくり待っていれば、やがて幸運が巡ってくるという意味。甘露とは古代中国では為政者が善政を敷き、天下泰平になったとき天が甘い露を降らすと言い伝えられてきた。降らすといっても雨のように降るわけでなく、いい日和だと感じさせてくれるのである。「果報は寝て待て」も同義のことわざ。何をなすべきか、どう対処すべきかいい知恵が浮かばないときはこう考えて焦らなくてもいいのだ。 | 2020/09/14 |
善は急げ | よい事をするには、ためらわずするのがよい。東進ゼミの林先生は「いつやるか。今でしょ。」で一気に人気講師にそして人気タレントに駆け上がった。「先手必勝」「早い者勝ち」に通じることわざだが、物事こう簡単に結果がついてくるとは限らない、躓き転んだ時には、「急がば回れ」を思い出すのもよい。 | 2020/09/14 |
急がば回れ | 急ぐときはよく知らない近道を行こうとせず、回り道でも安全な本道を行くほうが結局は早く目的地に着くの意。本当によく使われることわざですが、最近地図は見ずにナビに頼って目的地に向かうことが多いので、きわめて実感することわざです。目的地をナビで設定できないとき、広い道を通って目的地を探し当てるのが最善です。こっちが近道だろうと狭い道に入り込み、目的地近くをぐるぐる回ったり、果ては行き止まりに迷い込んだりが何回もあるからだ。 ことわざの極意は、作業・学業をするときにも通じる。目標に向かって進むのだがどうしても途中詰まってしまう。前へ前へと進まないといけない、何とか乗り越えなければいけないと思ってしまう。この状態は道のたとえでいうと、本道からそれて別の道を進んでいる状態なのだ。あわてず騒がず、本道に戻りそこを進めばいいのだが、どうするか。作業なら少し前の手順にまで戻ること、学業ならより簡単な基礎問題を解く練習をすればよい。ものすごく回り道したようでも結局は早く到着できるのだ。 |
2020/09/14 |
後塵(こうじん)を拝す | 後塵は車の砂ぼこりで、それをかぶっているのですから、人に先んじられて後れを取ってしまっている意味でつかわれます。でも元来の使い方は、砂埃を出すような車に乗っている人は権力者や身分の高い人ですから、そういう偉い人についていき、うらやみ、へつらい、付き従うことであるようです。 | 2020/09/14 |
早いばかりが能でない | 物事を早く仕上げるにはこしたことはないが、出来上がりに瑕疵(かし、傷・不具合)があっては何にもならない。似たことわざに、「早かろう悪かろう」「早いものに上手なし」 | 2020/09/14 |
早い者勝ち | 人に先んじて物事を行えば、有利になるということ。格調高くいうと「先んずれば人を制す」となる。 | 2020/09/14 |
先手必勝 | 機先を制する者が一番有利であるということ。スポーツ観戦していると、なるほどそうだなと思うことも多いが、実力差がある場合には、それほど有効でもなさそうで、力があるほうが結局勝っているなあ。 | 2020/09/14 |
案ずるより産むが易い | 事前にいろいろと心配したことも、思い切ってやってみると、案外想像していたよりもたやすくできるものである。そう、難局に立ち向かう時に自分を勇気づけるためのことわざです。 | 2020/09/12 |
虎穴(こけつ)に入らずんば虎子(こじ)を得ず | 危険を冒さなければ成果は得られないとの意。トラの子を生け捕りするにはトラのすむ穴に入ることを恐れてはならないという後漢書に出てくる故事による。危ないとわかっていても「危ない橋を渡る」を実行しないといけないぞということですね。ただ、蛮勇をふるってあるいは根性だけでトラのすむ穴に飛び込めばトラの子がゲットできるというものではないですね。トラの親子の生態をきちんと観察調査して、どのタイミングで穴の中に潜り込めばいいかを計画する、周到な準備が必要です。このプロセスは「石橋を叩いて渡る」という行動原理にのっとっているとも言えます。私たちの行動は相対立するジレンマを乗り越える(止揚する)することから前に進めることが多いわけで、相矛盾することわざをそのたびごとに使い分けていくといいのです。 | 2020/09/14 |
危ない橋を渡る | 石橋どころか板を踏み抜きそうな橋だって渡らないといけないこともあるのです。思い切って難局に立ち向かう時に自分を勇気づけるためのことわざです。うーんその勇気が出なくて怖気づいてしまったら、別の場所から川を渡ろう、この橋はやばすぎると撤退しても全く問題ありません。 | 2020/09/12 |
石橋を叩いて渡る | 堅固な石橋でさえ叩いて安全を確認してから渡るという非常に用心深いことのたとえである。これは何事にも慎重すぎる人を皮肉って使われることも多い。慎重すぎると揶揄されても渡ることができればそれでいい。中には「石橋を叩いてばかりで渡れない」という人もいるのだ。確認強迫という症状で、火元や戸締り、忘れ物落とし物をしていないか何度も何度も確認しないと次の行動に移れなくなる。私が確認したからまあ大丈夫と自分に自信を持ってもらえば楽なんですけれどね。 なお同義のことわざには「念には念を入れよ」もある。 |
2020/09/12 |
転ばぬ先の杖 | 失敗しないように、あらかじめ用意をしておこうというもの。患者さんに予防の大切さを説くとき、患者さんが気乗りしない検査や処方をやってもらう時に医者が使う常套句である。「予防医学は病気にならない王道」「早期発見・早期治療が最も重要である」は常識的には全く正しいことのようだが、医学は常識を追認するものではなく、医学の進歩で常識だったものが非常識になった例は枚挙にいとまがない。このことわざの例で行くと、その杖は本当に頑丈な杖ですか、逆に太くて重くて杖を持ったほうが転んでしまいませんかという突っ込みが入るのだ。正しくは「転ばぬ先の適切な杖」にしないといけないですね。 | 2020/09/12 |
後悔は平日の油断 | そうなんですよね、後悔することは日ごろの気のゆるみがあったことは間違いないですね。こんなことは分かり切ったことですよね。 | 2020/09/14 |
後悔先に立たず | 事が終わってからでは、悔やんでみても取り返しがつかないという。だからきちんと備えをしておけ、「転ばぬ先の杖」でないといけないとこのことわざは言うのだ。そういわれりゃあ返す言葉もないみたいだが、でも考えてみて下さい、人生、こちらの読み通り、予想通りには事が運ばないことのほうが圧倒的に多いのです。そのたびごとに自分の読みの甘さ、脇の甘さに気付かされるのですが、ああ俺はダメだなと自己否定するような後悔はしてはいけません。反省はしなくてはいけませんが、ただの後悔と嘆きは反省ではありません、自己否定しているだけです。反省とはちょっと予想外だった今の状況をきちんと再検討し、新たな戦略を立てることです。その失敗をバネに新たな道を進めばいいのです。「皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を切る」と立ち向かってもいいのです。 | 2020/09/12 |
清濁(せいだく)併せ呑む | 心の広いこと、度量の大きいことのたとえ。元は、善人でも悪人でも受け入れる度量の広い人のように人と交わる事に使ったようだが、最近は清く美しい事だけでなく、やや不真面目で多少胡散臭い事でも同時にやれる人にも使うようだ。 | 2020/09/09 |
嘘も方便 | 事を円滑に運ぶには、時と場合によっては嘘をつかなければならい。真面目な人、純真な若者、強迫的に正しいことをしないといけないと思う人にとって、不誠実で、下劣で狡猾で、邪悪なことわざということになるだろう。 この世の中のことは、正しいことからだけ成り立っているのではない。それどころか矛盾しあった複雑な事柄の中を何とか折り合いをつけ融通をつけあいながら生きているのだ。人間関係もただただ正論をぶつけ合い、どちらが正しいかを言い募っても、まったく前へは進めない。日は暮れてしまう。それどころか対立が喧嘩に発展するだけだろう。 この世は対立するジレンマの集積である。ジレンマを克服して(ヘーゲル流に言うと止揚して)次へと進むことの繰り返しでこの世は回るのである。ならばこのことわざはヘーゲルの弁証法に依拠しているといってもいいようだ。 |
2020/09/09 |
嘘をつかねば仏になれぬ | 仏も衆生を救うためにはその手段として嘘をつく。善行を施せば極楽に行ける、というけれど極楽の存在を確認していない衆生にとっては嘘でしょうとなるところを、信じさせて衆生を救ってくれるのである。ならば人間界でも嘘がまかり通るのは当たり前のことなのだ。 | 2020/09/09 |
嘘つきは泥棒の始まり | 子供のころ親からこういわれなかった人はいないでしょう。嘘をついてはダメということを子供心にぐさりと突き刺さる見事な言い回しです。嘘をついてしまった時、そしてうまくその場を切り抜けた後に、ひょっとして僕は泥棒みたいな極悪人になるのだろうかと、怖くて不快な気持ちが少し続いたような気もします。本当に嘘をつくというのはいけないですよね。 でもこの世の中、嘘をつかない人っていないですよね。泥棒やと真反対の偉い人や地位の高い人ってしょっちゅう嘘をついていますよね。それどころか嘘をつくから、嘘をついているから地位が高くなっているように思えますよね。 |
2020/09/09 |
正直貧乏横着栄耀 | 正直なものは一向浮かばれないのに、押しが強くてずる賢い事を平気でやるようなものが成功して贅沢を極めるものだ。私は学生の頃、まったくこの通りだと思っていた。真面目で学識豊かな父は行きがかり上、不得手な経営をすることになり、このことわざ通り世間的には浮かばれない存在だった。しかし私には周りでうまくやっている人たちには何か胡散臭いものを嗅ぎ取り、まったくその匂いのしない誠実な父をますます尊敬していったのである。ただ母からは多分に要領の良い生き方を教わったみたいで、尊敬した父のような誠実一途に生きることはしてこなかったみたいだ。 | 2020/09/08 |
正直者が損をする | 今の政治を見ているとつくづくそう思う | 2020/09/08 |
正直は阿呆の異名 | 正直といえば聞こえがいいが、融通が利かないので世渡り下手である。真面目過ぎると馬鹿正直だといわれてしまう。「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し」なのである。 | 2020/09/08 |
正直者が馬鹿を見る | 今の政治を見ているとつくづくそう思う | 2020/09/08 |
正直の儲けは身につく | 地道に稼いだ金銭は、無駄にに使う気になれないから、倹約し役立つことに使う。そう、これの反義は「悪銭身に付かず」で、骨を折らずに儲けた金は、つい浪費してしまい、気が付いたらすっからかんになっているということ。商売や金儲けをする上での正直さの重要性を説いている。人生において常に正直であれとは、ちと違うよう。 | 2020/09/08 |
正直は一生の宝 | 正直であることは人が一生守るべき宝である。幸せも、長い目で見ればこの正直からやってくる。 | 2020/09/08 |
正直は最善の策 | いろいろ駆け引きするより、正直であることのほうが、かえって目的を達成するうえで近道になる。 | 2020/09/08 |
正直の頭(こうべ)に神宿る | 正直な人には神の加護がある。義経記、十訓抄、神皇正統記に出てくるらしい。 | 2020/09/08 |
幸不幸の保存則 | 私はかつて36歳まで物理の研究者だったから、保存則という概念にすごく親和性がある。古典力学では、運動量保存則、エネルギー保存則(運動エネルギーと位置エネルギーの和は一定)、熱力学第1法則(孤立系のエネルギーの総和は変化しない)は途中経過がどうあろうとも明快に結果を提示してくれるものだからなんて素敵な法則だと思っていた。 「塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄の如し」は幸、不幸と次々襲ってくるが結果としてとしては総和は0、不幸が大きければきっとこれから大きな幸せが待っていると思うことにしている。じゃあ幸せだなあと思っているとき、さあ今度は不幸が来るぞ不幸が来るぞとおびえるかというと、なあにまた不幸が来ても「幸不幸の保存則」で必ず幸せが転がり込んでくると楽天的に思うことにしている。 |
2020/09/08 |
禍福はあざなえる縄のごとし | 禍(悪いこと)と福(良いこと)とはより合わせた縄のようにかわるがわる来るものだと、「塞翁が馬」と同義のことわざ。こちらは史記が出典である。史記も前漢の武帝の時代に司馬遷により著わされたが、淮南子よりも少しだけ時代は後になる。 | 2020/09/08 |
塞翁が馬 | 中学生の時に習った、印象的な故事熟語。人生の禍福は予測できないものだから、そのたびに悲しんだり喜んだりすることはないということ。昔、中国の辺境の塞(とりで)に住む老人の飼っていた馬が逃げたが、数か月後、駿馬を連れて帰った。その駿馬に乗っていた息子は、落馬してけがをしてしまった。その後戦争が起こり、若者たちが大勢戦死したが、息子はけがのおかげで徴兵を免れ死なずに済んだという故事。前漢の武帝の時に書かれた淮南子(えなんじ)にある。 TVドラマ「水戸黄門」の主題歌の「人生楽ありゃ、苦もあるさ」に通じるが、こう簡単にまとめると格調は高くない。 |
2020/09/08 |
鶏口となるも牛後となるなかれ | 大きい集団で人の後ろにつくよりも、小さい集団でもその長になれと反骨の歴史家、司馬遷は史記の中で書く。大きい集団はより大きな組織・社会の体制維持のために機能するから、そこの下っ端はただただ集団の言われるがままの歯車に甘んじなければならない。そんな歯車なんかは嫌だといえばその集団からポイと捨てられるのが落ちである。自己実現ということを考えれば、より小さな、より力がないとされるの中で頭角を現すのがいいはずだ。 | 2020/09/08 |
寄らば大樹の陰 | 巨大な相手に弱い立場から刃向かってみてもどうせ無駄、世の中、大きな組織についたもの勝ちだ。大企業が中小零細企業を圧倒するのは、量的優位が決定要因ではなく、すべて大企業に利するよう法制度はできている。すべからく勝ち組は勝ち組の座を放さないよう法律、社会の仕組みはできている。だから「寄らば大樹の陰」のことわざがなるほどと思わせ続けるのだ。 | 2020/09/08 |
泣く子と地頭には勝てぬ | 道理を説いてわからぬ者がいるものだ。そんな相手にはこのことわざを思い出して踏ん張ろう。泣いて聞き分けのない子でも泣き止んだ時にゆっくり諭すとうまく通じることがある。理不尽を言い募る人も、一旦は言い分を聞いた後に、少し論点を変えて説明すると少しはわかってもらえることもある。やっぱり「泣く子と地頭には勝てぬ」と再確認せざるを得ない場合の方が多いものだが。 | 2020/09/05 |
長い物には巻かれろ | 「臥薪嘗胆」と苦い思いをかみしめながら「捲土重来」を図ってみるものの、相手は手ごわい、まったくこちらの力が及ばないときは、反抗せずに相手の言うとおりに従うこともやむを得ないことだ。ああだめだ、情けないと自己否定しないでおこう。心の中ではやはり「捲土重来」と誓い、巨大な相手へのお追従だけはしないでおこう。 | 2020/09/05 |
捲土重来(けんどちょうらい、けんどじゅうらい) |
杜牧の詩にもあるように、一度破れたり失敗したものが、また勢いを盛り返し、激しく攻めることができるものだ。「臥薪嘗胆」ただただつらい思いを耐え忍ばなくても、戦いの巻き返しは必ずできるものだと楽観的に考えよう。このことわざを知ったのは、高校1年の時の数研出版のチャート式数学Ⅰ代数にのっていた格言コラムからだ。ほかには「電光石火」というのもあって、電光石火の解法にあこがれたものだ。 | 2020/09/02 |
臥薪嘗胆(がしんしょうたん) | 「正義は勝つ」を信じて戦ってはみたものの、世間はそう甘いものじゃない。不正のあの手この手を繰り出してきて、「一敗地にまみれる」こともしばしばだ。でもあきらめる必要はない、中国春秋時代の故事に倣い、辛抱して再起を図るのだ。 呉王の夫差は越王に敗れた父の仇を討つために、朝晩痛い薪の上に臥し志を持ち続けその目的を果たした。恥を受けた越王勾践は許されて国に戻ると、苦い肝をなめては恥辱を忘れず、苦心の末に呉王夫差を滅ぼした。 |
2020/09/02 |
人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を吾は行くなり | 京都学派の泰斗、西田幾多郎の歌。哲学の道にこの歌碑がある。西洋哲学を受け売りするするのではなく、東洋の思想哲学も取り入れ、それらを超越した西田哲学を生み出すにはどれほどの苦しみを伴ったであろう。愛する息子や妻に死なれるという心の安らぎを得られない中で学問をやりとおした哲学者でも、自らを奮い立たせる歌で気持ちを言語化していたのだ。 | 2020/09/02 |
千万人と雖も我往かん(せんまんにんといえども われいかん) | 「正義は勝つ」ための戦いは往々にして孤独です。孟子の言うように、胸を張って前に進みましょう。孟子の時代の千万人ていうとそりゃあ全世界の人を敵に回してもということじゃないですか。 | 2020/09/02 |
正義は勝つ | こころの平和を保つには世間様と争いごとをしない、相手が少々おかしなことを言っても我慢し受け入れる、明らかに不正があっても見て見ぬふりをしておこうとすれば確かにいいでしょう。しかしあまりにも世間と波風を立てないでおこうという生き方は、自分自身を捨てることにつながります。周りに迎合してしまい、同調圧力に屈してしまい、本意ででないことをしないといけなくなり、さらにむしろ正しい他者までを責めることになります。何よりどうしてもこれはおかしい、譲れないということで、相手とあるいは世間と争い、闘わなければならない時もあります。 その時は争いましょう、闘いましょう。「正義は勝つ」の御旗を高々と掲げ(この言葉を呪文のように心の中で繰り返し)、立ち向かうのです。どうしても怖くてひるみそうになるとき、どうも形勢悪く徒労に終わるのかいや負けてしまうのかと弱気になるとき、「正義は勝つ」を呪文のように心の中で唱えましょう。 |
2020/09/02 |
こころの金持ち喧嘩せず | ことわざ辞典に載っているのは「金持ち喧嘩せず」です。「喧嘩をすると損はしても得をすることはない。だから金持ちは人と争わないということ。」とあります。実生活での金持ちたちは、喧嘩になったら損だから、喧嘩にならないように、喧嘩して損しないように世の中の仕組みを金の力を利用して自分たちに都合のいいように作っているのです。すなわち体制派あるいは勝ち組にとって都合がいいように世間は回るということを表すことわざだとも言えます。 このことわざを喧嘩し争いごとをして心が嫌な思いをしないように「こころの金持ち喧嘩せず」と言い換えて、一旦矛を収めて、言いたいこともちょっと控えて、心の平和を維持しようというものです。「なあに、負けるが勝ち」との合わせ技で、悔し涙に暮れて腹立たしい思いを持ち続けることのないようにしようというものです。 |
2020/09/02 |
過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し | 度を越してやりすぎると、足らないのと同じようによくない。よいことでも度を超すと害になる。論語で孔子は「中庸の徳」として説く。我々凡人は、最初から中庸の至適程度を実践できないから、過ぎたら減らし、足らざれば加えて最適解を見つける努力をせざるを得ない。孔子様の中庸理論に対し、私の「ええ加減主義のススメ」である。 | 2020/09/08 |
ことわざ精神療法 | これは日本風認知療法とも言えます。認知療法の一番大事なところは、負の感情に負けない正しい認知ができるよう支えることにあります。ベックが指摘した認知の歪みには考え方の癖である「自動思考」と「こうあるべきだ」「こうあらねばならない」と考えてしまう「スキーマ」から成っています。強力なこうあらねばならぬというスキーマの呪縛から解放されるためには、そうでなくてもいいのだという強力な考え方の助け舟がいります。その助け舟がことわざです。ことわざは庶民が苦しいつらいこの浮世を生き抜いいていくために編み出した考え方です。ことわざは短い語句から成っています。心が負の感情に圧倒されそうになっているときでも、短い語句ならすぐ思い出せます。そう呪文を唱えるように短いことわざを思い出して負の感情を振り払うことができるのです。 大事なところで負けてしまった。こちらは正しいと思うのに、相手はごり押しで無理を通した。つらいですねえ、悔しいですねえ、どう思いましょう。そうことわざ「負けるが勝ち」を思い出します。そうやって自分をいたわりましょう。そうして心の危機を乗り越え、生きていくと、「あそこで勝ってたら、今の自分はないよな」と負けたことをいい経験と思い出せたり、理不尽なごり押しをしてきた相手に立ち向かい今度こそ相手をぎゃふんといわすことができるものなのです。 |
2020/08/31 |
ええ加減主義のススメ | メンタルヘルスを維持する方法はこれにつきます。病気から回復するにもこれにつきます。「ええ加減主義」と「俺はよくやっているよ」と自己肯定感を持つことが二本柱です。 新書判「ええ加減主義のススメ」を出版予定で、現在執筆中。 2017年11月7日毎日新聞大阪版掲載分 |
2020/08/31 |