D級京都観光案内 51

南山城の古寺巡礼 2

南山城の古寺巡礼第2回は、6か寺を回る。現実にはこれを1日で回るのはかなりきつい。私はと言えば4日に分けて行っている、それも45年かけてだろう。観光案内記としてはあちこちに広がる6か寺を一筆書きよろしくうまく巡るモデルコースをお出ししよう。必然的に車で行くことになる。

まず酬恩庵(一休寺)を目指す。名神から新名神を経由して京奈和道に入り、2つ目の田辺西ICで降りる。国道、府道の広い道を経由し、案内板に従えば酬恩庵にやってくる。

酬恩庵は鎌倉時代後期に創建された妙勝禅寺に始まる。一旦荒廃したこの寺を再興したのが一休宗純である。開祖の恩に報いるということで酬恩庵と名付け、晩年をここで過ごし、88歳で示寂した。一休の骨が埋められた宗純王廟は一休が後小松天皇の皇子ということで宮内庁が陵墓として管理している。

一休はいかなる権威にも媚びることなく、庶民の中で生き、自由奔放で奇行も多かった。40歳年下の旅芸人だった盲目の女性・森女と酬恩庵で暮らしている。81歳の時大徳寺住持に任命されるが、大徳寺には住まずここから通ったという。筋金入りの反骨精神の持ち主だ。

北にある総門をくぐると、長い石畳の参道が伽藍を回る形で続き、両側には青苔と秋なら真っ赤に燃えるモミジがある。その先には本尊の釈迦如来坐像を祀る本堂(仏殿)がある。

拝観は参道の途中から庫裏の入り口に向かい、廊下伝いに方丈に入る。方丈中央の内陣には一休禅師木像がある。一休自身の頭髪と髭を抜いて像に植えたというが、いまはもう判別できない。襖絵は狩野探幽作であるが、複製品で、本物は宝物殿にしまわれている。

方丈を取り巻く庭は石川丈山、松花堂照乗らの合作と言われ、国の名勝に指定されている。前庭の南庭は生垣越しに宗純王廟と森女を住まわせていた虎丘庵の二つの屋根が見える江戸時代特有の禅苑庭園。東庭には16個の大小の石を仏の弟子の羅漢になぞらえた「十六羅漢の庭」。北庭は枯山水の蓬莱庭園になっている。

大徳寺納豆と同じく一休禅師がその製法を広めた納豆、ここでは一休寺納豆として販売されている。そして予約しておけば精進料理をここで食べることもできるのだ。

一休寺を辞し、山手幹線を南に下がる。同志社大学京田辺キャンパス前を過ぎて、同志社南の交差点を西に行く。普賢寺ふれあいの駅という小さな道の駅の少し手前を右折して、普賢寺川を渡り、春なら菜の花が広がる田園地帯に見える大きな屋根を目指して進むと、そこに大御堂観音寺はある。

天武天皇を開基とし、中興の祖を東大寺の良弁とする、盛時は諸堂13、僧坊20余を数える大寺であったという。ところが今はその面影は全くない。大きな本堂(大御堂)だけはあるが、参拝客は私たちだけで、参拝受付場所も本堂には見当たらない。少し離れたところにある普通の民家らしきところに表札があり、その下に拝観受付とある。ピンポンを押して出てきて本堂を案内してくれた人、実はここの住職だったのだが、扉を開けて間近で拝ませてもらえたのが、天平時代作の十一面観音立像(国宝)である。

木心乾漆造で、ふくよかさがあり、どことなく女性的で、慈悲に満ちた柔和な顔立ちは確かに観音様と手を合わせたくなる素晴らしい仏像だった。

東大寺二月堂のお水取りでは、舞台を駆け抜ける大松明(たいまつ)から飛ぶ火の粉が印象的だが、その松明の竹は山城の竹が使われる。2月初旬、根付きの7本の真竹が切り出され、この普賢寺に運び込まれる。道中安全祈願がされた後、一本は担いで、残り6本はまとめて大八車に積まれて、二月堂まで運ばれていく。これが「竹送り」である。

南山城の古寺が奈良南都仏教と強い係りを持っていることが再確認される。

府道に戻り、もと来た東に向かって車をどんどん走らせる。同志社南の交差点を通り越し、JRと近鉄の高架を相次いでくぐって2つ目の信号の左手に寿宝寺はある。飛鳥時代に創建され、七堂伽藍を備え、「山本の大寺」と言われていたということで想像して探すとその前を通り過ぎてしまいそうなこぢんまりとした寺だ。ただ拝観には事前の予約が必要だ。

ここの見どころは本尊の十一面千手千眼観世音菩薩立像である。本堂横の収蔵庫に安置されていて、住職の奥様がわれわれのためだけに、扉を開けて案内してくれた。おう、実際に千本の手があるではないか。ほとんどの千手観音は2040本の手を持っていて、1本の手が25本の手の役割をしているから25×401000本と称しているのだ。国内でこの寺以外に1000本の手がある千手観音は唐招提寺と西国第5番札所・葛井寺(ふじいでら)だけである。

像高約180㎝、素木造りで、護摩法要の護摩木を燃やしたため黒くなっている。左右40本の大脇手はいろいろな道具を持っているが髑髏あるのにはびっくりする。大脇手の前に958本の小脇手が扇状に出ているが、どの手のひらにも目が描かれていて、あらゆる苦しみを見つけて救って下さるのだ。

住職の奥様は一旦扉を閉め、淡い蛍光灯をつけてくれる。観音様の表情が変わりますよく見てくださいと説明した。閉眼しておられたのが瞼をお明けになったではないか。奥様によると昔は本堂にあって、明るい日のもとでと月夜とでは表情が違うと拝んでおり、収蔵庫に入った今それを参拝者に体験してもらうのだという。ちょっといい体験ができた。

次に目指すお寺は蟹満寺(かにまんじ)だ。先ほどの府道を東に行き、木津川を渡ると井手町役場前で木津川に沿って走る国道24号線を南下する。しばらく行くと蟹満寺への案内板があり、東に入る細い道を行く。のどかな集落の中にさほど広くない境内に建て替えられてから10年もたたないきれいな本堂と、庫裏からなる蟹満寺はある。

最近の発掘調査によると、白鳳時代には200m四方の大寺院であり、平安京の成立にも貢献した秦氏が建立したと言われている。本尊の釈迦如来坐像(国宝)は白鳳時代に造られた丈六の金銅造で、奈良薬師寺の本尊にも劣らないほどの堂々たる像である。頭部は大きく、四角い顔をしている。

この国宝の仏像以上にこの寺で興味深いのは、今昔物語にも登場する「蟹の恩返し」の説話である。「観音を篤く信仰していた村の娘が、ある日村人たちが多くのカニをとらえて食べようとするのを、買い取りそして逃がしてやる。娘の父親が畑仕事をしているときに、カエルをのみ込もうとしている蛇を見つけ、「娘の婿にしてやるから」と言ってカエルを放させた。その夜、蛇は青年の姿で現れ、昼間の約束を守るよう迫った。父親は2日待ってくれと追い返し、あとは雨戸を固く閉ざし、ただただ観音様にお祈りした。男は蛇の姿に戻り夜じゅう荒れ狂ったが、朝になると静かになり、庭にははさみで切り刻まれた蛇と無数のカニの死骸があった。観音様のなせる業だった。」

もと来た道を少し戻り、木津川に沿って南に車を走らせる。2月の第3土曜・日曜に行われる棚倉の居籠祭の涌出宮(わきでのみや)近くの棚倉駅前をを更に南に行き、神童寺へという案内に従って、山に向かって小さな集落を目指していく。神童子公民館の前に車を停めて、北吉野山神童寺(じんどうじ)への石段を昇る。聖徳太子が創建したと伝わり、北吉野山という山号でもわかるように、修験道の聖地であり、役行者が二人の神童の協力を得て蔵王権現を刻み、本尊としたと伝わる。本堂にあり不動明王に似ているがもっと荒々しく力強い。時代を経て像がところどころ傷んできているだけのそう感じるのかもしれない。俗っぽい私はえらく感動した。

本堂横の石段を上がり収蔵庫に入る。白不動明王像、阿弥陀如来像、日光菩薩像、月光菩薩像、毘沙門天像、愛染明王像そして役行者像・前鬼・後鬼像が安置され、ただただ見事で圧倒される。田舎の奥までやってきてああよかったと満足できる。

もと来た道を戻り、どんどん北上する、木津川市から井手町を通り、2月なら道路沿いにそこここに梅の花が見える城陽市青谷あたりから国道307号線に入り東に進路を取ると宇治田原町にやってくる。宇治茶販売店「壱之庄」(ここのお茶はおいしい)のある角で右折し、町の中心を通り抜けて行く。岩山で左折し山道を走らせると、左前方の小高い丘の上にお寺が見えてくる。禅定寺である。車は仁王門下の駐車場に止めることができる。駐車場に立ち下を眺めると広く田園風景が見渡せる。

平安時代中期天台宗の寺として創建され、時代とともに伽藍は消失し、江戸時代に曹洞宗の寺として再興された。この5月に天皇に即位した浩宮さんは20歳になったばかりの時にこの寺を訪れている。この寺がなかなかの古刹だということがわかるが、新天皇もなかなか文化的センスがある方だ。

仁王門をくぐると風雅漂う庭と、茅葺の本堂が心和ませる。本堂の裏には「平成の大涅槃図」と「私の仏様大壁画」がある。住職の奥様が高名な西洋画家であり大涅槃図の制作に深くかかわっただろう。「私の仏様」は全国老若男女の公募作品だそうだ。

仏像は収蔵庫に安置されている。本尊の十一面観音菩薩像、平安時代作、漆箔寄木造、像高286㎝。丸みのある顔に堂々たる体格の観音様である。日光・月光菩薩立像、四天王立像、文殊菩薩騎獅像、半跏地蔵菩薩像はすべて平安時代の作である。お地蔵さんが立像でなく(胡坐の片足を下げている)半跏像というのも珍しい。

禅定寺に12月から3月に訪れたならぜひころ柿(古老柿)を味わってほしい。干し柿なのだがこの地方独特の干した後コロコロ転がして糖分の白い粉をふく黒褐色の長楕円体形の干し柿だ。噛むと小さいながら少し歯ごたえがある、でもしっとりした感じで、昔ながらの干した実のうまさとほんのりとした甘さがある。2月になると「JA京都やましろ宇治茶の郷」に行かないとゲットできないかもしれない。私はなんと2度までもこのJAでころ柿を買いに来てしまった。それほど大好きになってしまった。

日本初の緑茶の生みの親とされる永谷宗円の生家が禅定寺と国道を挟んで反対側に位置する湯屋谷地区にある。一応土日しか開けていないが、管理人がいるときはうまく中を見学させてもらえる。知っていたようで知らない緑茶の歴史を勉強できる。

禅定寺へ行った道を更にどんどん行くと猿丸神社にほどなくやってくる。百人一首第5番「奥山に 紅葉 踏みわけ 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき」を詠んだ猿丸太夫を祀る神社で、コブ・できものを取る神様、癌封じの神様として崇められている。狛猿がある。

更にその道を行くと大津市に入るが、叶匠寿庵が営む63千坪の寿長生の郷(すないのさと)も遠くない。自然の恵みを菓子に昇華させるというコンセプトを体現している場所らしい。予約しておくと懐石料理なども食べることができるようだが、予約なしでフラッと行っても食べるものはちゃんとある。

南山城の古寺巡礼で疲れた体を休めるにはいい場所だ。ああ、今日はちょっと疲れた。


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