続D級京都観光案内 8 宗忠神社の備前焼逆立ち狛獅子
|
第17回(2020年)京都検定でも出題された、「参道入口に逆立ちしている備前焼の狛犬がある神社」宗忠神社を訪ねよう。石像ではなく備前焼で、ぐっと参拝者を見て蹲踞しているのではなく逆立ちしている狛犬をこの目で確かめに見に行こう。
宗忠神社へのアクセスはいろいろあるが、私は車で真如堂の北側から行くことにしている。ただ真如堂の北側にいく経路はいくつかあって、かえってこれが落とし穴になる。というのも、真如堂の南にある黒谷金戒光明寺の駐車場から道なりに北に行けば真如堂の正門前に難なくたどり着くのだが、この道なりが曲者で狭い曲がり角が何カ所かあり、私は2度までも右前バンパーを石にこすりつけてしまったことがあるのだ。
ということで安全なのが百万遍を東に今出川通を進み、白川今出川、銀閣寺道ともいうが、ここを右折して広い白川通りを行く。2つ目の信号を右折すると黒谷通で、道なりに行くと真如堂の北側を通り、左折して真如堂総門前にいかず、直進すれば宗忠神社駐車場に誘導される。丸太町通を天王町で左折して白川通りに入った場合、旧錦林車庫前も通り過ぎて4つ目の信号を左折すると黒谷通りに入ることになる。この信号の一つ手前、あるいは二つ手前の信号で真如堂に向かってしまった場合、慌てることはない、道は狭いし大回りになるが、黒谷通りからの道に合流することができるから。
東一条通から吉田神社の境内に入り、車を停めて吉田神社にお参りし、徒歩で宗忠神社に来る方法もある。まあこの方が吉田山の散策を兼ねていいかもしれない。
駐車場に車を停めて車を出るとすぐ前に「ご神水井戸」という屋根付きの立派な井戸がある。この神社の創建時に黒住教開祖黒住宗忠の高弟赤木忠春によって掘られた井戸で、今も滾々と水をたたえ神事に供せられるという。
神井戸から振り向き境内を見ると眼前に桁行18mの立派な拝殿に圧倒されそうだ。拝殿の奥には左に宗忠大明神を祀る本殿、右に天照大御神を祀る神明殿がある。
さあここで京都神楽岡宗忠神社の由緒を見て行こう。江戸中期備前の国今村宮の神職の子として黒住宗忠は生まれた。幼い時から孝行する子といわれていたが、33歳の時疫病で相次いで両親を亡くし、悲嘆にくれる毎日を送るうちに自身も肺結核を患い生きる気力もなくしてしまっていた。最後を覚悟して日の出を拝んでいるとネガティブな考えを持つことこそ親不孝だと感じ、前向きに生きようと決意し、冬至の朝日の昇るのを見ながら一身に祈りをささげているとなんとすべての命の祖神である天照大御神と神人一体化することを感得したという。これにより黒住教が起こり、宗忠は世の中の苦しむ人や助けを求める人のために昼夜を問わず祈り、教え導き、神とあがめられたのだ。
ただこれだけなら備前の一地方だけの宗教にとどまっていただろう。高弟たちが全国へと黒住教を広め、とりわけ失明していた眼を宗忠の祈りと教えにより再び光を取り戻すという霊験を受けた赤木忠春は京都において熱心に布教した。さらに時期は幕末、尊王攘夷運動にも奔走し、天皇や高級公家たちの信任も得るようになっていった。さらには黒住宗忠を神格化するよう働きかけ、朝廷より「宗忠大明神」が下賜された。さらに全神道を統括すると称する吉田神社にも懇願し3年後に吉田神社に隣接するこの神楽岡に宗忠大明神を勧請し、宗忠大明神の生みの親ともいうべき天照大御神も合わせて勧請したのである。孝明天皇の唯一の勅願所にもなり、皇室公家からも暑い信仰を受けたのだ。
なお赤木忠春は大元の黒住教では分派独立の嫌疑を受け破門となっている。うーん、神々の世界なのに何かえらく人間臭いドラマが繰り広げられたのだなと感慨にふけってしまう。
拝殿の左奥に赤木忠春を祀った忠春社がある。この地に宗忠神社を創始することができた功績をたたえるものだが、8年間の盲目が宗忠の訓導により再び光が蘇ったことから、眼病平癒の祈念をすればご利益に預かれるという。
拝殿を右に進むとその奥には白山社がある。この地を鎮護する神として古くよりこの地に鎮座していたと駒札にはある。
さらに右に行くと階段があり鳥居が見える。裏参道である。鳥居をくぐると、駐車場に入らず道なりに進んだらたどり着く道だったのだ。左に進むとすぐ右手に吉田神社大元宮の鳥居が見える。八角形の本殿に、六角の後房を付けた珍しい形をしている。延喜式式内社の全3132座の日本の全ての神様が祀られているというから凄いものだ。
さあ宗忠神社にもどろう。拝殿の前を社務所あたりまで行くと、下方に美しい正参道が見渡せる。両側は桜が多く植えられており、満開になると素晴らしい景色になる。階段に下りる所(階段を登り切った所)に二の鳥居があるが、「宗忠鳥居」といわれる形式の鳥居である。鳥居の形式はいろいろ難しいものがあるが、「鹿島鳥居」に「額束」をつけるなどの少し変形が加わっている鳥居のようだ。
正参道をゆっくり下りていく。大きな一の鳥居が立っている。更に階段を数段下りると、ああ、いるいる備前焼の狛犬が逆立ちしている。ただ顔付きを見ると狛獅子というのがふさわしいと思うのだが。右側の阿像は獅子舞のお面にそっくりだ。見事に逆立ちをして、立派な尻尾を持っている。左側の吽像は、逆立ちが苦しいのかうんと歯を食いしばっているようにも見えなくはない。やはり立派な尻尾を持っている。黒住宗忠が備前の国の出身なので、備前焼の狛犬(獅子)が寄進されたのだろう。黄褐色の備前焼は光を浴びるときらきら光りいかにも精悍である。でも愛らしく参拝者を迎えてくれる。
鳥居のすぐ右隣りに立派な門構えの吉田山荘がある。旧東伏見宮別邸跡が料理旅館になり、その別館にカフェ真古館があるようだ。どちらも完全予約制で、ふらりと訪れた私達なんかは(馬鹿にされたのか)誰も出てきてくれなかった。その門辺りでうろうろしていると、どこかの旅行客が親切にも「宗忠神社はこっちですよ」と写真を撮りまくっていた鳥居の中を指さしてくれていた。
宗忠神社の一の鳥居前をまっすぐ進むと真如堂総門に来る。その途中左手に陽成天皇神楽岡東陵がある。
第57代天皇である陽成天皇は父清和天皇、母(藤原)高子(入内前、在原業平と恋愛関係にあったと『伊勢物語』にはある)で、貞観年間に即位している。この年祇園祭の原型であるといわれる66本の矛を立てた神泉苑での御霊祭が行われている。百人一首には陽成院「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる」がとられている。即位したのは9歳の時であり17歳の若さで退位して太上天皇となった。前年に陽成の乳兄弟・源益が宮中で撲殺される事件があり、それに関係しているのではないかという疑惑から退位せざるを得なかったのではないかといわれている。長命で上皇歴65年は歴代1位である。
陵墓の住所は浄土寺真如町であり、神楽岡ではない。神楽岡は吉田山の別名であり、陵墓がその東にあるので「神楽岡東」と美称しているのだ。確かに天皇陵が「浄土寺」にあるのはちょっとまずいわね。
旧制三高寮歌「逍遥の歌」の1番「紅もゆる丘の上」の「丘」は「神楽岡」であり、1番の最後「月こそ懸かれ吉田山」の「吉田山」そのものでもあるのだ。
朱色の真如堂総門の手前左手に、吒枳尼天(だきにてん 吒は口編に乇で「だ」と読む、荼の字があてられることが多い)の大きな石標がある。真如堂の塔頭・法伝寺である。大きな鳥居をくぐると、絵馬堂がありその両側に狛犬がある。右の阿像は立派な歯とはっきりとした足の爪を持っている。左足には球を押さえている。左の吽像は立派な尻尾を持ちはっきりした爪の右足の下には子狛犬が逆立ちをして遊んでいる。まあなんとも愛くるしい狛犬親子が迎えてくれて、参拝するのが楽しくなる。
「吒枳尼天」の扁額のある鳥居をくぐると本殿がある。由来書によると、鎌倉時代初期、都に疫病が流行り、病にかかった橘某かが御所にある縣井の水を飲み一心に観音菩薩を念じたところ10日で病がいえたという。10日目の夜、井戸の水を汲みに行くと黄金の如意輪観音菩薩が現れ、「この水を飲むものは必ず病がいえるだろう」とお告げがあったという。順徳天皇はこの話を聞き、如意輪観音を御所に祀り、後に別地にお堂を建て法伝寺と名付けられた。その後兵火にあいたびたび移転、徳川家康は吒枳尼天の信仰篤く、天下を納めることになった報恩として百石の祭祀料を納めた。そんな大金を貰ったので如意輪観音の代わりに吒枳尼天がご本尊に昇格したようだ。その後法伝寺は真如堂三重塔の横に移され、そして現在の総門前に落ち着くことになったのだ。
如意輪観音様はどこにおわすのだろう。三重塔と鐘楼堂の間にある「縣井観音堂」にこそ祀られている。病気平癒や女性の難産を救うご利益があるといわれている。
今回私が真如堂でしたかったことは、墓地にある斎藤利三の墓に参拝することだった。東京吉祥寺病院精神科医の西岡暁先生はご自身が明智光秀あるいはその近親の末裔であること(明智光秀が敗走せざるを得なかった勝竜寺城があった一帯は長岡あるいは西岡と呼ばれていた。敗残兵は明智一族であることを隠すために適当に名字を変えている。ゆかりの地名を新しい姓としたのである。西岡先生の先祖もそうしたのだろう。)から、明智光秀の末裔、そして宿敵織田信長の末裔の歴史をお調べになり、それを吉祥寺病院季刊誌「じんだい」の中で「本能寺からお玉ヶ池へ」として連載されている。その中で光秀の末裔と信長の末裔の協働作業が日本の近代医学のそして東京大学医学部の基礎作りをしたことを綿密な史料・系図検索から説いておられる。
その⑰の中で、「真如堂には(光秀の重臣の)斎藤利三の墓所があり、(中略)斎藤利三は山崎の戦いで敗れ、六条河原で処刑されましたが、その首は利三の友人が夜陰に乗じて奪い去ったのです。首を奪ったのは絵師の海北友松(かいほうゆうしょう)と真如堂住職・東陽坊長盛です。彼らが奪い取った利三(の首)を真如堂に葬りました。そして後年、彼ら二人の墓所も(友松のは利三と並んで、東陽坊のは利三の裏に)真如堂に建てられました。」とある。
残念ながら今回これらのお墓に参拝することができなかった。次に訪問する時には是非きちんと参拝しようと思っている。そうして、利三の娘春日局が父の菩提を弔って植えたといわれる「たてかわ桜」も是非見ておこうと思っている。
可愛い狛犬たちを見つける旅はますます広がりを見せてくれるのだった。
|
「エッセイ」に戻る