紫式部、小野篁に救われる

 京都堀川通り、南北の通りの中では一番広い通りで片側4車線あったのが紫明通りを北に越えると片側2車線になり、殺風景な島津製作所紫野工場を通り過ぎたところで車を止める。そこが紫式部の墓所の入口である。それはそれは注意深く見つけないと分からない入り口である。そして運が良ければ、すなわち9月半ばから10月だったら、紫式部墓所の石碑の横に紫色のかわいい実を一杯つけたムラサキシキブを見ることができるだろう。

 紫式部の墓それ自体はそんなにすごいものではない。ただその横に小野篁の墓もあることになんでという疑問を抱く。そもそも小野篁ってだあれと思ってしまう。そして二人にはどんな関係があったのだろう。正解は、紫式部は小野篁に救われたので仲良くお墓が隣同士なのである。

 小野篁は平安初期の有能な官吏であり豊かな教養人であった。同じく教養人でもあった嵯峨天皇、それは空海らと並んで三筆の一人であることでもわかるが、篁を引き立てた。ところが好事魔多し。篁36歳の時、藤原常嗣を大使として、遣唐副使として出発するはずだった。出発間際に大使の乗る船が水漏れするということで、常嗣は篁の船に乗り換えた。破損した船に誰が乗るものぞと篁は急病と称して遣唐使の役を断り、「西道謡」という風刺の詩を書いて遣唐使なんてもう時代遅れと言い放った。

 この詩が嵯峨上皇の逆鱗に触れ官位を剥奪され隠岐に流された。当時隠岐に流されるのは死を賜ったのも同然であった。百人一首第11番参議 篁

 わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと
       人には告げよ海人の釣り舟

は隠岐に向かって船出する前に出雲国千酌駅で詠まれたものだ。厳寒の日本海を前にして海上に浮かぶ漁師に呼びかけたが誰も応えるべくもない、でも平然と私はただただ舟遊びをしに行くだけですとプライドを捨てていないのだ。そのせいか、それとも教養人でしかも有能な能吏であることを嵯峨上皇が惜しんだか、その翌々年には許されて帰郷し、さらにその翌年には元の官位に服したのだ。

 奇跡の復活としか言いようがない。本来は処罰が重すぎたのだから適正な回復処置がとられたにすぎないのだが、人々はその奇跡の復活に目を瞠り、ついには篁はただの人ではないという伝説を生むことになる。

 京の都には三大葬送地として、鳥辺野、蓮台野、化野があった。その鳥辺野の入り口松原通に六道珍皇寺はある。六波羅蜜寺のすぐそばである。珍皇寺には小野篁と閻魔大王が祭られている。京都ではお盆の前におしょらい(精霊)さん迎えを87日から10日にかけて行い、珍皇寺に早朝からお参りし、先祖の霊を呼ぶ迎え鐘を撞く習わしがある。そして人々は篁と閻魔様に手を合わせる。これは篁が珍皇寺にある井戸を通じてあの世とこの世を行き来し、夜は閻魔の臣とし昼は宮廷のよき能吏として働いたという伝承によるのである。島流しからの復活、すなわち地獄からの復活は、地獄においても適応できたのだろうという庶民の思いが、篁様は不死鳥のような神様に違いないという思いになったのだろう。

 さて時代は下り、紫式部は地獄をさまよっていた。源氏物語などという愛欲にまみれた小説を書いたという罪でである。いや皇族・貴族の知られたくない真実を書いた、すなわち機密保護法違反をした咎であるという説もあるが定かでない。ただ紫式部が地獄をさまよっていたことだけは間違いない。そこに現れたのが地獄の能吏小野篁である。紫式部さんあなたはどうして、篁様何で私がここにと、話をしたかどうかは怪しいが、篁は紫式部を地獄から救い出したことだけは間違いない。そこで二人は恋に落ちたとなれば面白いのだが、二人の間には100歳以上も年が離れているので、いくら伝承でもそこまではできないだろう。

 紫式部が地獄に落ちるなどそんな辛苦をなめていると知ると、お墓のたたずまいは一変する。盛り上がって苔むしたお墓にもう一度深く深いお祈りをしてしまう。そしてもう一度墓の入り口の紫色のかわいい実がいっぱいついたムラサキシキブを見るとついもう一度手を合してしまうのである。

 もう少し紫を探そう。北大路堀川を左に曲がり、ちょっと行った大徳寺前で右に曲がる。大徳寺駐車場のちょうど前あたりに車を止めると山国屋細見商店の前でもある。そこに入ると大徳寺銘酒「雪紫」がずらりと並んでいる。雪紫の名付け親は大徳寺の高僧であるという。酒飲みにとっては有難い話だ。醸造元は京都市内の唯一の酒蔵佐々木酒造だ(俳優佐々木蔵之介の実家)。もしムラサキシキブの美しい実を見てきた9月なら「冷おろし」がお勧めだ。寒々とした2月に来たなら「あらばしり」を選んでほしい。それ以外の季節なら「大吟醸」にしておけば間違いない。もし2,3月なら酒粕も絶対ゲットしておこう、粕とは思えない絶品だ。

 ついでに大徳寺納豆も買おう。この一休さんが開発したというちょっと酸っぱくてしょっぱい納豆だけで雪紫はいくらでもいける。これでは物足りないという人は北に200mいった小川大徳寺京豆腐で豆腐と厚揚げを買いましょう。まだ物足りない?そういう言う人にはもう一度大徳寺前に戻ってもらいましょう。交差点角にある紫野和久傳で何かおもたせとれんこん菓子 西湖を買うがよい。それならついでにすぐそばの松屋藤兵衛にもよって大徳寺納豆入りのカステラとでもいうべき紫野松風も買いましょう。ただこの辺は車を止めるところがないのが難点だ。

 もう遅くなったので千本通りを通って帰ろう。この通りはかつて平安京ができた当初、朱雀大路という道幅85mのメインストリートが通っていたところだ。その入り口に羅城門があり、その手前の両側に道を挟んで東寺と西寺が立っていたのだが、今は東寺だけが残っている。しかし内裏は東に移転してしまい、このあたりの蓮台野は葬送の地となり、卒塔婆がずらりとならび、その姿から千本通りとなったのだという。となると篁や閻魔さんをまつるお寺がありそうだがそのお参りに行くのには今日はもう遅すぎる。卒塔婆を立てられたりしないよう、京都南インターを目指してどんどん車を走らせよう。


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