D級京都観光案内 38 南禅寺と琵琶湖疏水
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臨済宗の寺に対して、京都五山というランク付けがある。室町時代より、第1位、天龍寺、第2位、相国寺、第3位、建仁寺、第4位、東福寺、第5位、万寿寺(現在は東福寺塔頭)とされてきた。五山之上とされるのが今日行こうとする南禅寺である。
「五山の上」に列せられたことは、この寺が朝廷・武家とのかかわりが深く、時の権力の補完作用を務めていたことは否定しがたいだろう。武家の篤い信仰を得て「南禅寺の武家面」と言われている。私は宗教というものは弱者の救いであってほしいと望むもので、高橋和巳の「邪宗門」に描かれたような権力と対峙することになる宗教集団に一定の親和性を示すものである。「五山の上」だと自負する南禅寺に対し、ちょっとなあという感情を持つのは、全共闘世代の業のようなものであるかもしれない。
そうは言うもののこの寺は見所一杯なのである。ついつい何度も来てしまうのだが、来るたびに新たな発見をしてついつい感心してしまうのである。
南禅寺の開基は亀山上皇である。もともと当地に離宮禅林寺殿(南禅寺の北にある永観堂の正式名称は禅林寺)を営んでいたが、東福寺第3世無関普門禅師に深く帰依され、離宮を禅寺とされたのである。ただ無関普門はその年に亡くなり、諸堂伽藍を整備・完成したのは二世規菴祖円である。15年かかったという。
仁王門通と白川通が交差する南禅寺前からまっすぐ東に進むと南禅寺中門がある。ここをくぐって境内に入るのだが、中門の左(北)の駐車場の前に重文の勅使門がある。寛永年間、御所の「日の御門」を移築したもので、天皇や勅使の入山の時だけ開かれた。勅使門、三門、法堂(はっとう)そして方丈と一直線に並ぶ。これは禅宗の伽藍配置である。
三門は重文であり、知恩院三門(国宝)、仁和寺二王門(重文)とともに京都三大門と言われる。江戸時代初期、藤堂高虎の寄進によって再建されたものだ。歌舞伎「楼門五三桐」で石川五右衛門が楼上から「絶景かな、絶景かな」と見得を切るので有名だが、その真偽はともかく、われわれも500円払うと、急な階段を上って楼上の人となり、「絶景かな」とたのしむことができる。特別公開でなければ窓越しにしか中を覗けないが、釈迦如来像、十六羅漢像が安置され、狩野探幽の作になる天女と鳳凰の天井画ある。
真東にあるのが法堂だ。特別拝観でないと中に入れないが中央に釈迦如来像、左右に文殊菩薩、普賢菩薩が祀ってある。天井画は今尾景年作の「幡龍図」である。これは扉が閉まっていても格子の隙間から見ることができる。
今尾景年は明治・大正期に活躍した四条派の日本画家である。その別邸は京料理の店「瓢樹」となっている。一度行ってみたい店である。
法堂の東に方丈、方丈庭園がある。大方丈は御所の殿舎を移築したもので、小方丈とともに国宝に指定されている。清涼殿の面影を残し、欄間彫刻、天井、板扉の形式など近世宮廷建築様式を見ることができる。狩野元信、狩野永徳らの124面の襖絵(重文)も見どころである。
方丈広縁に南面して枯山水の庭園がある。巨石の姿から俗に「虎の子渡し」の庭と称せられる。江戸時代作事奉行でもあった小堀遠州の作庭である。
小方丈は大方丈に接続された後方の建物であり、伏見城の小書院を移築したものといわれる。襖絵は狩野探幽の「群虎図」が40面あり、特に「水呑みの虎」は名高い。小方丈にも「六道の庭」などと名前の付いた趣の異なる庭がいくつかあり、珍しい竹垣を見ることができる。南禅寺垣は普通の青竹を並べるがその間間に萩を並べた部分も入れている。竹の持つ力強さと萩の持つ柔らかさがうまく調和しているといわれる。廊下と庭を仕切る形で大筒垣はある。その名の通り太い竹を丸々そのまま連ねて垣にしたもので、中には根っこまでつけているのがあって面白い。
法堂の北側には雲水修行道場である僧堂がある。現在も多数の雲水が刻苦精励坐禅にいそしんでいると案内書にはあるから、観光気分では覗くわけにはいかない。
法堂の反対の南側には、寺院伽藍としては見慣れない赤レンガの建造物がある。水路閣である。ローマ帝国のローマ水道橋に倣い、琵琶湖疏水を南禅寺境内をまたいで流すために疏水工事全体の責任者である田邊朔郎によって作られた。13個のアーチ形の橋脚が水路の方向にもアーチ形に連なっており、インスタ映えすると海外からの観光客には人気のスポットである。
南禅寺の塔頭寺院は12ヶ寺ある。その一部の塔頭だけが特別拝観の時に訪れることができる。法堂から水路閣をくぐって石段を上がったところに南禅院がある。初めに触れた亀山上皇の離宮禅林寺殿の遺跡で南禅寺発祥の地である
応仁の乱後荒廃していたのを桂昌院の寄進により再建された。方丈には南北朝時代作の亀山法皇の木像がある。庭園は京都で唯一の鎌倉時代の作庭で、池中に心字島を浮かべた池泉回遊式庭園である。
南禅院から石段を下り、水路閣をくぐって中門に通じる道に戻る。正因庵という生活臭のある地味な地味な塔頭の前を通り過ぎると、南禅寺塔頭の中でも観光的に1,2を争う天授庵にやってくる。南禅寺開山の無関普門の塔所として建てられた南禅寺の中でも第1級の塔頭である。
大本山の子院をなぜ塔頭というか?これは本山の住持を辞め、小さな庵を結んで亡くなっていった高僧を弟子たちがその塔(墓所)を慕い守ったことによるとの説もある。
後に天授庵は戦国時代の武将で歌人の細川幽斎によって再興される。方丈は禅寺の典型的客殿形式をもち、長谷川等伯の襖絵32面があるが、残念ながら非公開である。方丈前庭(東庭)は幾何学模様のある石畳を持つ枯山水庭園である。小堀遠州の発案という。秋には枯山水の奥に燃えるような紅葉が美しく、JR東海の「そうだ 京都 行こう!」にも登場している。
南庭は池泉回遊式庭園で、杉や松の常緑と紅葉が美しい。池があるだけにいろいろポーズを決めてインスタ映えというので人気のスポットになってしまっている。歩きながら池を巡るが、何度も立ち止まって撮影を待たねばならないのだ。
次に行くべき塔頭は金地院である。天授庵から中門に戻る。真乗院(ここには阪大精神科の3代前の教授の墓がある)を通り過ぎ、南に行くと金地院に着く。拝観料を払ってしばし待つと、案内の人が説明してくれる。
創建は室町時代、鷹峯においてという。慶長年間、徳川家康の信任の厚い以心崇伝により現在地に再興されたという。以心崇伝は「黒衣の宰相」とも言われ、徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受けた。「武家諸法度」の草案を書いたのは崇伝である。
本堂(大方丈)は伏見城の御殿を移築したものと寺伝にはあるが、後年の研究者によると移築の痕は認められず、崇伝が建てたもので、権威づけのために寺伝に書かれたのだろうという。そうは言うもののこの建物は重要文化財に指定されており、狩野尚信など狩野派の障壁画が各部屋を飾っている。
茶席八窓席は小堀遠州作で重要文化財に指定されている。大徳寺孤篷庵忘筌席(ぼうせんせき)、曼殊院八窓軒(はっそうけん)とともに京都三名席と言われる。
方丈南の庭園は、小堀遠州作であり、右手に鶴、左手に亀が配され、「鶴亀の庭」と称され特別名勝に指定される。鶴と亀の間にある5畳にも及ぶ巨石は、隣接する東照宮を遥拝するためのものと言われる。その東照宮は、小堀遠州作で、徳川家康の遺髪と念持仏を祀っている。拝殿の天井には狩野探幽の鳴龍が描かれ、欄間には土佐光起画の「三十六歌仙」が掲げられている。
これ以外の塔頭は基本的に非公開である。境外塔頭である光雲寺は哲学の道の西にあり、東福門院ゆかりの寺である。東福門院は徳川秀忠とお江の娘であり、後水尾天皇の中宮として入内し、幕府と朝廷との潤滑油として頑張った人である。特別公開されるときにはぜひ行っておきたい寺である。
南禅寺前まで戻り、仁王門通を山側の左手に進む。旧東海道を江戸に下る方向だ。道路の向こう側に蹴上発電所が見えてくる。琵琶湖疏水を利用した水路式発電所で、営業用としては日本第1号の水力発電所である。この電力でこれから行くインクラインの動力を賄い、そして日本で初めての電車である京電を走らせることになる。
道は上っていくが左手すなわち今来た南禅寺の方にはさらに傾斜のある坂道がある。そこにどういうわけか三十石舟が置かれている。舟は台車の上に置かれ、台車はレールの上にある。そうこのシステムこそインクライン、傾斜鉄道である。
琵琶湖疏水は琵琶湖の水を京都市内に送る人工水路、すなわち運河である。これにより灌漑、飲料用水、水運、水車の動力の導入により、東京遷都で疲弊しきった京都を再生させようと第3代京都府知事北垣国道が東京工部大学校卒業間なしの田邉朔郎を工事総責任者として抜擢し、5年の歳月をかけてこの大事業を成し遂げたものである。
琵琶湖の水を浜大津辺りから取り込み三井寺の下あたりにトンネルを掘って、山科を通り、蹴上から南禅寺に水を落とし、鴨川に放水するという壮大な事業は、特にトンネル掘削工事で多くの死者を出すという難工事の連続であった。
琵琶湖からやってきた三十石舟は物資を運び蹴上水溜りまでやってくる。落差のある南禅寺水溜まりとの間の三十石舟の往復に考え出された装置がインクラインである。水の落差の利用として最初は(工部大学校卒業論文では)水車動力が考えられていた。田邉朔郎の物凄く偉いところは、アメリカ視察で水力発電の有利性を知るや早速それに転換したことである。衰微した京都が奇跡のように蘇ることができたのはこの水力発電第1号の導入にあると言っても過言ではない。
インクラインのそばをさらに上がるとねじりまんぽという変わった名前のトンネルがある。レンガ積みのアーチ型のトンネルだが、レンガが少しずつ傾きをもって並べられている。上を走るインクラインとこのトンネルが斜めになっているので、構造的に安定させるにはこうして捩じれる方がいいのだそうだ。トンネルの入り口には北垣国道の「雄観奇想」「陽気発処」の石額がある。
トンネルをくぐって疏水公園に行くと若き田邉朔郎像がある。雄観奇想とほめたたえた北垣国道の娘は榎本武揚の媒酌の元、田邉朔郎の妻になった。田邉朔郎は一人銅像に収まる人ではなかった。この難工事で殉職した17名のために明治35年私費で第1疏水殉職者慰霊碑を建立した。
これらのことを知ってか知らでか、インクラインは桜の名所であり、その桜を愛でる人達が引きも切らないのである。確かにここの桜並木は美しい。
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