D級京都観光案内 60 西大路通
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西大路通は京都市中心市街地の西部にあり、南北に走る主要道路の一つである。その名前からはいかにも平安京から存在していたように聞こえるが、平安京では野寺小路と西堀川小路の間ぐらいに位置した。このあたり右京一帯は湿地帯だったため市街地としては一旦衰退し、後年になって、再市街化されていったのだが、一部を除き豊臣秀吉の築いた御土居の外側にあった。明治後半から大正にかけての京都市三大事業(第二琵琶湖疏水の開削、上水道の整備、道路拡築・電気軌道敷設)の一環として、北大路通から十条通に至る西大路通ができたのである。
洛中でなかったということは広大な敷地を持つ有名寺院・神社が多くあることを意味する。道路沿いには北から、金閣寺、敷地神社(わら天神)、平野神社、地蔵院(椿寺)、法輪寺(達磨寺)、西院春日神社、高山寺、若一神社そして吉祥院天満宮がある。さらに今出川通が西大路通と交わるところは北野白梅町であり、ここは嵐電北野線の始発駅である。嵐電沿いには駅名そのものになる有名寺社が並んでいる。等持院、竜安寺、妙心寺、(御室)仁和寺だ。このように西大路通は京都観光の重要拠点だとよくわかる。
歴史が浅く市街化されきっていないという立地は、京都発のユニークな物づくり企業を起こし、発展させるにはむしろ有利であった。西大路三条には島津製作所がある。田中耕一さんのノーベル賞受賞を記念して作られた田中耕一記念質量分析研究所はここにある。五条通を少し下がり西に入ったところに株式会社ロームはある。電子部品メーカーと言ってしまえばそれまでだが独自の集積回路技術を駆使して、成長を続ける会社だ。新設京都会館にロームシアターの名を関したのは記憶に新しい。
西大路八条を下がった東側にワコール本社はある。昭和21年この地でアクセサリー販売業として産声を上げている。西大路通を挟んで向かいには日本新薬がある。オムロンは立石電機が発展改称したものだが、その名前の由来は立石電機の本社が御室近くにあったことによる。
精密小型モーターの開発・製造において世界一のシェアを維持・継続している日本電産は西大路九条から国道171号線を少し大阪寄りに進んだ久世殿城町にある。創業者の永守重信は奇しくも私と同じ乙訓中学校の卒業生で2学年上である。伝記によると洛陽高校工業科に進み、職業大学校電気科を首席で卒業したという。桂高校、京大と進むたかが知れたエリートとは違っていたのだ。
私の個人的見解を優先させていただくと、阪急電鉄西院駅こそ私の住む西向日町と京都市内との接点だった。昭和50年代前半、立命館大学はすでに広小路から現在地の衣笠に移転しており、産業社会学部で物理学の講義を3年間ほど受け持ったその時期には西院駅から地上に上がり市バスに乗って西大路通を北行し衣笠校前で降りて歩いて学舎にたどり着いた記憶がある。
その阪急西院駅のある西大路四条の大きな交差点の北東角に高山寺(こうさんじ)はある。世界遺産である栂尾の高山寺(こうざんじ)とは何のかかわりもなく寺名の読み方も違う。門前には「西院(さい)之河原旧跡 高山寺」の寺標が右に、「淳和院跡」の石碑が左に立っている。
本尊は子授地蔵菩薩で恵心僧都の作と伝えられる。比叡山横川に安置されていたが、ご利益を庶民にも分け与えようと、滋賀県の志賀の里、その後堅田に移された後、地蔵信仰に篤い足利尊氏が四条御前のあたりに高西寺を創建しこの像を迎えたという。子どものなかった足利八代将軍義政の妻富子は、この地蔵に祈り、子を授かった。のちの九代将軍義尚である。その霊験あらたかなことが広まり、人々は群参したという。
ところで足利義政は政治に飽きてしまい、早く引退したいので仏門に入っていた弟の足利義視に還俗して跡を継いでくれと懇願していた。自分には息子がないからお前しかいないと。義視は断り続けていた。義姉の日野富子が何を画策するかわからないと嫌な予感がしていたからだ。
それでも断り切れず、ついに義視は管領細川勝元を後見として還俗し将軍職を継ぐことを決意した。ところが日野富子に子供が生まれたのである。富子は息子を将軍職に就かせることを切望した。もう一人の管領山名宗全を抱き込んだ。細川勝元と山名宗全は将軍家の継承問題だけでなく、有力守護大名の畠山家、斯波家の家督争いでも対立していた。
この対立はついに戦火を交える応仁の乱となり、10年も続き、都を焦土としてしまったのである。結果論になるが、日野富子に子供さえ生まれていなければ応仁の乱は起こらなかっただろう。高西寺の子授け地蔵の御利益がもう少しなかった方が都の民にとってはよかったのかもしれないと思うのはゲスの勘繰りとでもいうべきものだろうか。
閑話休題。その後天正年間、豊臣秀吉が天下を取り、都の防衛のためと洛中をぐるっとめぐる御土居の築造を始めた。たまたま高西寺が御土居の上に当たっていたので、高西寺は西の西院村に移転し、高山寺と改称して現在に至っている。
平安京の佐比大路(さいおおじ 道祖大路とも書かれる)はこのあたりを通る大通りであり、平安朝の初期、淳和天皇がこの地に離宮を作り、御所の西に位置することから西院と呼ばれ、それが佐比大路に当たる所から、サイと発音するようになったという。
このあたりは葬送の地でもあった。子どもも当然葬られ、時には捨て子として放置される子どもにとって恐ろしい場所であった。だから賽の河原と言われ、西院(さい)の河原と呼ばれたのである。空也上人が石の地蔵を作り祀り、子供を守り育んだことから、この寺の地蔵信仰につながっていったのだ。
明治33年、都市計画のため御土居は壊されたが、その後から大小沢山の石の地蔵が掘り出された。西院の河原に祀られていたものを秀吉がすべて埋め込んでいたものだった。明治35年、洛東黒谷の山麓から4mにも及ぶ地蔵菩薩の大石像が当寺に運ばれ、その周囲に御土居から掘り出された350余りの地蔵菩薩の石像が集められたのである。
小さな境内で、本堂の拝観もできない。しかし本堂前にある大きな地蔵尊の石像とその足元にうずたかく積みあげられた大小のお地蔵さんを見ていると、深い歴史が偲ばれるのだった。
高山寺を少し東に行ったところに嵐電の西院(さい)駅はある。これに乗れば、蚕ノ社、太秦広隆寺、帷子ノ辻(かたびらのつじ)、車折神社(くるまざきじんじゃ)、鹿王院そして嵐山まで行ける。降りたところは天龍寺前である。
高山寺から西大路通を北に100mほど行ったところに大文字飴本舗がある。素朴で昔懐かしい飴を売っている。310円の小袋入りを買ったが、べっ甲飴、宇治茶飴、黒豆飴、いちご飴などが入っていて、食べてみるとしつこさのない甘みがあり、後口に妙な味が残らないシンプルな良さを楽しめた。
西大路通の二つ目の西の通りは春日通(佐井通)である。この通りを四条通から100mほど行ったところに西院春日神社はある。大文字飴本舗の真西に位置する。京都十六社朱印めぐりの一つである。淳和院が離宮に移った時、奈良春日大社の神を勧請し、皇室や藤原氏の守護神としたのが由来である。厄除け・病傷快癒の御利益があるとされるが、その象徴的存在として「痘瘡石」が祀られている。そのいわれを当社略記から抜粋してみよう。
「平安時代、淳和天皇皇女・崇子内親王が、「疱瘡」(現在の天然痘)をお患いになられたおり、春日神社にご快復をご祈願されたところ、春日大神様は内親王の身代わりとして、御神前にあった石に疱瘡をお移しになり、内親王がご快復され、以来「疱瘡石」と呼ばれ、病気平癒・災難厄除のご利益があり、歴代天皇・皇族方も大変御信仰されてまいりました。後桜町天皇、光格天皇、仁孝天皇、孝明天皇をはじめ、都禰宮(光格天皇皇女)、敏宮(仁孝天皇皇女)、和宮(孝明天皇皇妹)方などが御祈祷をお受けになりました。」
凄いものだ、言ってみれば身代わり地蔵みたいなものだ。毎月1日、11日、15日のみ一般公開される。
神石「梛石(なぎいし)」もあり、何事も無事戻ってくる、健康回復の御利益があるという。淳和院の礎石も残されて駒札が立っている。一願蛙なるものもある。大きな蛙の石像でその頭には2匹の蛙がへばりついている。その前には石の手水鉢があり、水が満たされている。立札にはこうある。「三蛙は見返るにつながり、縁起のよい蛙です。水をかけて御祈願ください。」
境内社の一つに還来(もどろき)神社はある。旅行などをしたとき無事戻ってくることができるよう旅行安全・還来成就をお願いするところだ。戦時中、出征する兵士はここにお詣りしたという。旅行安全を願うわらじが奉納され柱にかけられている。天皇・皇后両陛下の奉納額も飾られている。それなりに有名な神社なのだ。2019年京都検定1級で出題されただけのことはある。
話は全くそれてしまうが、大原から途中トンネルを過ぎ大津市に入った伊香立途中町にも還来神社はある。ここの宮司の留守を任されている人が私の友人の友人ということで、友人ともども鴨鍋をごちそうになったことを思い出す。その鴨は琵琶湖畔で猟師さんがその朝獲った物であり、境内にたわわに実る柚子を何個かもぎ取ってきたものを絞ってつけ汁にするのだった。ああ、あの味は忘れられないなあ。
話を戻し、例年10月第2土曜・日曜に行われる春日祭は、無病息災・五穀豊穣を祈る秋祭りである。供奉行列、鼓笛隊などの行列、剣鉾や二基の神輿が出て西大路四条の交差点では巴回しが行われるなど、にぎやかで活気あふれる祭りである。
西院春日神社の南西700mのところに西院野宮神社はある。春日神社御旅所西四条斎宮という別名も持つ。伊勢神宮の斎王に選ばれた皇女が2年の潔斎生活の後半1年を過ごす場所が野宮である。ネットで「『源氏物語』原文とその背景を読む」というブログがあり、それを参考にすると、野宮は斎王ごとに新たに定められるから、源氏物語「賢木」に出てくる野宮神社が嵯峨野にあるそれとは断定できないのだという。当社が「賢木」の舞台の野宮神社だったかもと空想してみても許されることらしい。
周囲とは隔絶した鬱蒼とした樹々に囲まれ、石の神明鳥居があり、くぐると決して広くない境内の正面に質素な板屋造りの社殿がある。神社の由緒書には藤原敦忠との恋で有名な雅子内親王が斎王に選ばれ入った野宮はこの地であると記されている。由緒書が藤原敦忠の百人一首「あいみての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」を敢て持ち出すのは、潔斎の地であったことを思うとやり過ぎだとブログ子は嘆いている。その通りだと私も思う。
西大路四条あたりをうろうろしているだけなのにもう紙面は一杯になってしまった。西大路通ではまだまだ案内しないところがあるというのに。次号に回すことにしよう。 |
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