D級京都観光案内 61

西大路通 2

西大路八条の東北角に若一神社(にゃくいちじんじゃ)はある。石碑「平清盛公西八条殿跡」が境内にあることでもわかるように、ここは平安時代後期栄華を極めた平清盛が、六波羅に造った平家の屋敷群に加えて、風光明媚なるこの地に別邸を造った跡である。

社伝によると、この地に埋もれていた熊野権現の第一王子すなわち若一王子の御神像を平清盛が自ら掘り出し、これを祀り邸の鎮守社としたのが始まりとされる。開運祈願をしていたところ、後に太政大臣にまで昇りつめ、その時感謝の意を込めて、クスノキを清盛自ら植えたという。その由緒からこの神社は開運・出世の願いが叶うと信仰を集めている。

社伝を注意深く読むと、西八条殿は平家都落ちの時に、自らの手で火を放ち、すべて焼け落ちたとある。必然的に邸内にあった若一神社もご神体もろとも焼け落ちてしまったはずである。社伝は続ける。江戸時代になり、日旋老師が、白衣の老神の霊夢をみて、若一王子のご神体を再び掘り出し、この地に再建したといわれる。

光村推古書院発行の「京都・観光文化 時代MAP」は現代地図と(4つの時代の)歴史地図を重ねた新発想の地図というのがうたい文句で、京都通になるための必携図書のようである。その平安時代のところを参考にすると、西八条殿は、石碑より東1㎞ほどの現在梅小路公園のあるあたり東西6町、南北3町の区域を占めていたことが分かる。別邸とはいえ、やはりここにも屋敷群があったのだ。

われわれがよく知っている、白拍子の祇王と仏御前の物語、その舞台になったのがこの西八条殿だったのだ。王・祇女姉妹そして母親の刀自の住む家は清盛によってこの西八条殿の中に与えられていた。清盛が過ごすまあ正殿とでもいうべきところには祇王も常に呼び出されたいたはずだ。そこに私もと売り込みに来た仏御前に心を奪われた清盛は、祇王を追い出して母親のもとに追いやってしまったために、あまりの屈辱と祇王・祇女、そして刀自はここから西北にある嵯峨野の奥の山里に庵を結ぶことになるのだった。

若一神社境内には祇王が西八条殿の障子に書き残しという「萌出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき」の歌碑がある。

平家物語第六巻には、清盛入道が激しい熱病に侵されて(多分、六波羅の屋敷で)亡くなった時、「葬送の夜、不思議の事ありけり。玉を延べ金銀をちりばめ造られし西八条殿、その夜、にはかに焼けにけり。人の家の焼くるは、常の習ひなれども、何者のしわざにやありけん。放火とぞ聞こえし」と記されている。この後すぐ再建されたが、数年後平家都落ちの時に焼き尽くされたのは先に述べた通りである。

若一神社の門前に歩道を挟んである楠社の大クスノキは幹周り約3m、高さ約30mの御神木で、清盛お手植えで、西八条殿の火事の際にも奇跡的に焼け残ったと伝えられる。これも眉唾の話だが、何よりも西八条殿の位置が東に1㎞ほど離れたところにあったのだからこのクスノキは江戸時代の再建時に植えられたと考えるのが妥当だろう。

でも御神木が凄いことには変わりない。その威容もさることながら、うかつに傷つけたりするととんだ祟りが起こるらしい。昭和の道路拡張・市電敷設事業で、邪魔になるのでこのクスノキを切ろうとしたところ、工事関係者に不幸や事故が相次いで起こったことから、西大路通と市電軌道は少し弯曲させることになり、現在に至っている。確かに車を走らせてみると西大路通は八条通のところで西側に膨らんでいることが実感される。これも神様を大切にするいかにも京都らしい風景のようだが、大阪でも似たような風景を見たことがある。扇町通の神山交差点を南に読売新聞本社前に向かう広い道路の真ん中にイチョウの木と鳥居がある龍王大神(りゅうおうおおかみ)社だ。やはりここでも道路拡張工事でこの木を切ろうとしたら工事関係者に次々と災いが起こり、伐採を断念したという都市伝説が残っていた。

若一神社境内には、平清盛石像、本殿の奥に神共水(じんぐすい)という京の銘水の一つがあり、清盛の熱病の体を冷やすのに使ったと伝わる。前にも書いたように、当社は江戸時代に再興されたのだから、清盛がこの水で冷やしてもらったというのはなあ、まあ夢とロマンのある話としておこう。

なお若一神社のある西大路八条から西へ行くと天神川にかかる桂小橋を通り、ついで桂川にかかる桂大橋にやってくる。ここを越えたすぐ南側に麦代餅(むぎてもち)で有名な中村軒がある。その向かいが桂離宮である。

西大路通を南に行くと、西大路通は九条から南東に向きを変え、十条に達するあたりに吉祥院天満宮がある。ここについては「40. 天満宮めぐり」でふれてある。

次に訪れるのは西大路通を北に行き、円町を越えて下立売通を少し東に入ったところにある法輪寺(達磨寺)である。臨済宗妙心寺派の別格地。門前には大きな円柱状の石碑があり「三国随一 起上がり だるまてら 法輪禅寺」とある。嵐山にあり十三参りで有名な寺院も法輪寺であるが、こちらの通称は「嵯峨の虚空蔵さん」である。

達磨寺の方の法輪寺は江戸中期の創建である。昭和8年には少林寺拳法根本道場が開かれている。昭和19年日活太秦撮影所長だった池永浩久が、大日本映画大道会を立ち上げ、自宅に祀っていた映画人の祭壇を後藤伊山住職に託して、祭壇を奉納されたことにからキネマ殿が作られた。日本映画の関係者約140名の位牌が祀られる。稲畑勝太郎、牧野省三、尾上松之助、石原裕次郎、森光子等々懐かしい名前が一杯である。

昭和20年、敗戦の打ちひしがれた中から達磨の七転び八起きの精神で立ち上がろうと市民に呼びかけ達磨堂が建立された。三国随一といわれる大きな起き上がりだるまを中心に周囲に大小8000体もの達磨が祀られている。「衆生堂」には一木造の大達磨像、十六羅漢木像、趣の異なるいろいろな達磨約8000体が安置されている。天井図はこれまた達磨像である。左上の「不倒」という讃は近現代の臨済宗の高僧・山田無文による。

方丈の東側は「十牛の庭」と言われ禅の悟りを表すという。廊下には牛像が置かれている。江戸中期の伝説的書家・隠士、白幽子の墓もある。北白川瓜生山の岩窟に住み数百年も生きたという伝説もある人の墓である。じっくり拝んでおこう。

法輪寺の向かいに赤い門が目立つ寺院がある。竹林寺である。私は法輪寺を訪ねるまではこの寺の存在も名前も知らなかった。気になる赤い門前に、これまた気になる「平野國臣外三十餘氏之墓」という石碑があり、拝観することはなかったが、家に帰って調べたのである。浄土宗西山禅林寺派永観堂の末寺で、鎌倉時代の開創とある。古い寺なのだ。でもこの寺が脚光を浴びることになるのは、明治10年、西ノ京刑場跡から幾多の白骨が掘り出されたことに始まる。姓名を朱書した瓦片も同時に発掘され、これらの白骨が、蛤御門の変のどさくさに六角獄舎で未決のまま斬殺された、平野國臣ほか37名の囚人(その中には池田屋事件発端の、古高俊太郎も含まれる)のものだったと判明したのである。当寺に移葬され、篤く祀られている。

平野國臣は筑前出身の尊王攘夷の志士であり、生野の変で蜂起するも失敗し、六角獄舎に収監されていたのである。運命の数奇さというか、生野の変で途中離脱した攘夷派の志士、北垣国道は後に第3代京都府知事となり、京都の近代化に大きな功績を残したと世間から高い評価を受けている。

西大路通をさらに北に行き、一条通にやってくると、少し東に入ったところに地蔵院通称椿寺がある。通称の通り、五色八重散椿で有名で、このまま東に進むと妖怪ストリートに続いていく。一方、通称竹の寺で知られる地蔵院は西京区松尾にある一休さん及び細川頼之ゆかりの寺である。

さらに北に行き、今出川通の北野白梅町も越え、上立売通りまで行くと、右手に大きな平野神社が見える。平城京から勧請・遷座した神々が祀られ、源氏、平氏、各公家の氏神にもなっている。本殿は春日造の社殿を二つずつ合いの間を入れて連結した珍しい様式で、「比翼春日造」「平野造」といわれる。約50400本の桜があり、さらに夜桜の名所でもある。私が個人的に好きなのは200株も植えられたムラサキシキブが10月になるとその美しい赤紫の実をつけ華やかに踊っているように見えるところなのである。

平野神社の最近の大きな出来事は、平成30年の21号台風により東福門院建立の拝殿が倒壊し、数十本の桜が倒木したことである。宮司の奥さんがハープ奏者であったことから、奥さんが先頭に立ち復興コンサートが催されている。本年令和2年も328日から412日にかけて、平野神社桜コンサートは行われる。

平野神社すぐ南には美味しいパン屋さんBriant(ブリアン)平野店がある。京都はどこを歩いていてもちょっと入ってみたくなるパン屋さんがある。京都がパン消費量日本一というのもむべなるかなである。

西大路通を北に行く。わら天神前の交差点の次の通りを左に入ると「わら天神 敷地神社」という大きな石標があり、さらに大きな石の鳥居があり、その扁額には「わら天神宮」とある。安産の神様として有名で、妊産婦さんのお詣りが多い。安産のお守りをいただくのだが、その中には藁が入っていて、そのわらに節があれば男児誕生、なければ女児誕生というかわいらしい性別占いをするのだ。今ならエコーで妊娠の早いうちから性別は分かってしまうのだが、そうであってもわら天神のお守りは相変わらず人気があるようだ。

祭神は木花開耶姫命(このはなのさくやびめ)で、天神といっても菅原道真公ではない。この地のもともとの天神地祇を祀っていたのが、菅生石部神社(敷地天神)の神を勧請し合祀するようになり、敷地天神の母神の木花開耶姫命を祭神に定めた言われている。天神の由来はここにある。

本殿横には摂社六勝神社がある。伊勢、石清水、賀茂、松尾、稲荷、春日の六社の神々を勧請したもので、試験合格・必勝の神として信仰を集め、入学試験はもとより司法試験、税理士試験等にもご利益があるという。京都検定一級合格のためにはぜひお詣りしておかないといけないようだ。

わら天神交差点の少し北の東側にある笹屋守栄特製の「うぶ餅」はわら天神名物とされ、境内に特設される茶店で食べることができるようだ。だが私が行った日はその茶屋の影も形もなかった。茶屋が出るのは特定の日だけのようだ。毎月戌の日と9の付く日というが、これもネットからの受け売りで定かではない。笹屋守栄のお店も水曜日は定休日のようだ。名物に旨い物なし、されど名物は得難いものである。だから名物を求める私の旅は終わることがないのである。


     
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