D級京都観光案内 9 京都西山・大原野の寺社を駆け巡る
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桓武天皇は即位した後まず長岡京に遷都を試みた。長岡京の大極殿、朝堂院跡は向日市阪急西向日駅すぐそばにある。皇后藤原乙牟漏(おとむろ)は奈良の春日大社を勧請し大原野の地に大原野神社を建立した。ところが間もなく31歳で亡くなってしまう。さらに天皇の母もなくし、造営責任者の藤原種継も暗殺され、それが怨霊のせいだと占いに出たため、長岡京をあっさり捨て、平安京へと遷都を敢行した。 しかし怨霊うごめく中、王城を守るために寺社を創設する必要があった。四方八方に守り神の寺社を配置する。山や巨石そのものが神とされ岩倉として崇められたが、西の岩倉が大原野小塩山にある金蔵寺(こんぞうじ)である。 桓武天皇をはじめ平安時代の貴人たちは大原野にしばしば遊びに来たという。したがって大原野の寺社をめぐると平安時代の香りを感じることができるはずである。さあ今日は強行軍である、実際行くとなると2日や3日に分けないととても回れないかもしれないが。 名神大山崎ジャンクションから京都縦貫道に入り亀岡方面を目指す。2つ目の大原野出口を降りる。柿やタケノコの季節は二つ目の信号を通る旧街道沿いの農家が庭先に直売所を設けている。広い駐車場があるふるさと産品直売店もあり、一般の農産物や瑞穂の卵を販売している。ちょっと小規模な道の駅だ。おやつを買っておいてもいいし、お弁当を買ってもいいし、今夜の酒の肴を買っておいてもいい。 旧道沿いにナビを頼りに寺社を目指す。ナビがなければ道路の要所におかれた道案内を頼りに行くことになるが、地図とにらめっこで相当注意しないといけない。さらに金蔵寺には駐車場はあるもののその道中は上級者向けと書いてある。大型車は避けてプリウス程度までにするのが無難だ。自信がなければタクシーか徒歩にしよう。金蔵寺以外のところは自動車がはるかに楽である。 旧道をあっちこっちと曲がりながら勝持寺・花の寺を目指す。両側が竹林という暗いところを突き抜けるとちょっと広い駐車場に行きつく。車を停めて勝持寺に行く手前に、宝菩提院願徳寺がある。花の寺の陰に隠れて全く有名でない寺だが、ここには何と国宝の如意輪観音菩薩半跏像があるのである。拝観料を払うとどうぞ本堂に行って下さいといわれ、重い扉を開け明かりをつけて拝観することができる。半跏像だから広隆寺や中宮寺の弥勒菩薩と同じ姿勢だ。ここの仏は衣の流れが美しく美仏として人気が高いという。 願徳寺のすぐ後ろに花の寺で名高い勝持寺がある。西向日町に住んでいた小中学生の時、春の遠足の定番の一つが花の寺だった。拝観料なぞ払わず、境内でワーワー言いながら弁当を食べた記憶がある。ところが最近はちゃんと拝観料をとるのですね。瑠璃光殿に上がると薬師如来像など重文を一杯拝観でき、お金を納めるだけの値打ちはあると納得した。境内には西行桜と名付けられた桜の老木がある。西行が手植えた桜の木で、有名な歌「願わくは花のもとにて春死なんその如月の望月のころ」のその桜の木かと勝手に思っていたが、それは全く的外れだった。西行は勝持寺で死んだのではないのだから。小学校の時の先生が教えてくれたのをちょっと誤解釈していたんだなあ。西行はこの寺で出家して庵を結び、一本の桜の木をこよなく愛したという。それが西行桜なのだ。 能の「西行桜」は西行が「花見にぞ群れつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがにはありける」(美しさゆえに人を引きつけるのが桜の咎なのだ)と詠んでうつらうつらしているその夢の中に老桜の精が現れ「桜はただ美しく咲くだけで、咎などあろうはずはない」と諭すという筋書きらしい。 西行は出家前は佐藤義清(のりきよ)といい上皇を警護するエリート北面の武士であった。エリートがなぜ出家したか。その原因の一つに鳥羽院の妃・待賢門院との一夜の契りと失恋にあったという。待賢門院の子崇徳上皇は後に保元の乱をおこし敗れて讃岐に流される。怨霊となって都で猛威を振るのが、西行はこれをどう感じていたのだろう。後年明治天皇は崇徳上皇の霊を都に戻し、白峯神宮を創建した。白峯神宮は堀川今出川を少し東に入ったところにあり、かつてこの地には蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅があったことから末社に蹴鞠道の神で精大明神を祀っている。そんなわけで社務所横にはオリンピックやワールドカップをはじめ種々の球技大会に出た選手たちのサイン色紙やボールが奉納されている。ついそちらの方に目が行くが、この神社の祭神は「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあわむとぞおもふ」の歌で有名な崇徳上皇の霊であり、その怨念の強さゆえにわれらを救ってくれる強い霊力があると期待しているのだ。 西行が苦悩の旅を続けなければならなかったその背景には人間の営みの罪深さ、無常さを若くして知り、なんとかその答えを見つけようとしたためだろう。花の寺と美しい呼称がついているが、雨模様のさびしい境内で周りを見渡すと、物見遊山の浮かれた心はなえていくのだ。 ただ秋の紅葉は美しく華やかだ。西行の苦悩なんてちっとも思い出さないくらい美しさに見とれてしまう私なのだ。 次は大原野神社に回ろう。大原野神社は初めに触れたように奈良の春日大社を勧請したものである。だから本殿は春日作りであり、狛犬ではなく狛鹿がいる。猿沢の池に模して鯉沢池が作られている。瀬和井(せがい)の清水と古より愛され歌に詠まれた名水もある。もちろん今見ると往時をしのぶ由もないが。紫式部は中宮彰子、その父道長に従い豪華絢爛の行列で都からこの地に遊びに来たらしい。それもあってかこの大原野神社を氏神と定めこの地、小塩山一帯を愛したという。 この夏休みたまたま福井越前市に行った。主目的は新そばのおろしそばを食べることだったが、ついでに町をうろうろしていると紫式部公園というのがあった。なぜここに紫式部といぶかったが、父藤原為時が国司として越前に赴任した時一緒にやってきたのだと説明書にあって納得した。源氏物語の構想をここで練っていたかもしれませんと説明書は続くがまあ越前市としてはそう言いたいところだろう。越前での初めての冬、近くの山にものすごく積もった雪に驚いて、今頃都でも小塩の山の松にちらちら雪が舞うことでしょうと紫式部は詠んでいる。三方山に囲まれる中であえて小塩山を選んだのはその麓の当社を大切にしていたのでしょうと大原野神社の由緒には書いてある。大原野神社側はそちらを強調したいのだろう。 境内には鯉沢池の畔に春日乃茶屋がある。茶屋といってもいい座敷もあるにはあるが、基本は縁台付の茶店と考えたほうがいい。秋冬ならたぬきうどん(きつねうどんのあんかけ)は案外おいしい。よもぎだんごも素朴な味である。ただ駐車場前の店でもよもぎだんごを売っていて、どっちがおいしいかは十分検討していない。 言い忘れたが花の寺に負けず劣らず桜と紅葉が美しい。 大原野神社の向かい側に正法寺がある。隠れた名刹である。真言宗東寺派の寺で鑑真とともに唐から来朝した智威大徳が修練したことに始まるというから古い寺だ。のちに綱吉の母桂昌院の帰依を受けたことから徳川家の祈願所になったという。重要文化財の観音像もある。桜、蓮、紅葉も美しく、借景式山水庭園の宝生苑には庭石が象、獅子、ウサギ等の動物の形に似ているため「鳥獣の石庭」といわれる。境内には各地から集められた名石があるので「石の寺」ともいわれるという。予想外にいろいろ面白いものが見られる寺だ。 次はいよいよ難所金蔵寺を目指す。何度も言うが観光シーズンには車で行くのは避けるのが無難だ。お金をかけてタクシーを利用するか、片道40分の健脚を利用するかだ。 西岩倉山金蔵寺は奈良時代718年の創建である。あの聖武天皇から勅額を贈られている。さらに華厳経などの経典を書写し各所の名山霊地に埋蔵したが、その埋蔵地の一つが金蔵寺だった。平安遷都をした桓武天皇はそれに倣い経典を埋めたがその際にも金蔵寺が選ばれ西岩倉山の山号を贈ったという。 その後天台宗に改宗され、堂棟、伽藍など一時は49院が立ち並ぶ大寺院であったが、応仁の乱をはじめ幾多の乱により焼失し荒廃していたものを江戸時代に下り信仰心篤い桂昌院が再建した。先ほど訪ねた正法院も桂昌院により立派な寺院になったし、次に行く善峯寺も桂昌院によって再興されている。京都の八百屋の娘さんという出自からこの西山の寺院の荒廃ぶりに特に心を痛めたのだろう。応仁の乱等で荒れ果てた京の都は豊臣秀吉により力強く復興されたのだが、この西山の地にまでは及ばなかった。江戸時代に入り都の庶民の子が徳川将軍の生母となることでしかもその人が仏教をとても大切なものと考える人だったので西山の寺社の復興がなされたのだ。何気なく見ていたお寺のその背景には歴史があったのだと思わずにはいられない。 車で喘ぎ喘ぎにしろ歩いてにでしろ、参道を進んでやっと山門に到着する。山門の両側には「金蔵寺」と提灯がかかり、「洛西三十三観音霊場二番札所」とも書いてある。両側には古い仁王像がある。さらにそこから石段を上り本堂に達する。本堂に安置された十一面千手観音菩薩は奈良時代開祖の隆豊禅師が彫ったものだという。 本堂の背後には愛宕大権現堂がある。かつて愛宕山の勝軍地蔵(甲冑姿で騎乗し、右手に剣を立て、左手に幡を掲げる。武士には勝軍、庶民には火伏の信仰を得る。)が明治3年の神仏分離令後の廃仏毀釈で愛宕神社より金蔵寺に移されたものだ。本堂の左奥には桂昌院廟があり、石塔の下に遺髪が納められている。 その時期には境内の紅葉は美しく、境内からは京都市街内を一望でき、遠く比叡山をも見渡せる。 紅葉の名所とも知られているが、秋のシュウメイギクも美しい。 さて55年前の乙訓中学2年生だった私の春の遠足ではここから更に1時間近くかけて登る小塩山山頂の淳和天皇陵が次の目標地だった。標高642mのこんな高いところになぜ御陵があるのか幼い我々はそんなことには何の興味もなく、ただただ文句も言わずに上ったものだ。山頂では各自持ってきたおやつを食べてもいい。私のおやつは春の遠足の定番夏ミカンだった。今の食べやすいナツカンやハッサクではない、ただただ酸っぱい55年前の夏ミカンだ。でも酸っぱい、嫌だなどという記憶はない、夏ミカンを食べて休憩できたという満足感だけしか思い出されないのである。 そんな55年前の少年だった自分を微笑ましいと思うのか、55年という年月は当然ながら人を変えてしまうのか、作業の合間に御朱印を書いてもらった汗の滲む作務衣姿の若い住職にその遠足に来た話をしながら感じていた。 さあ次は十輪寺、善峯寺を目指すのだが紙面の方がもう一杯なので、それは次号に回すとしよう。 |
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