D級京都観光案内 63 京都観光落穂ひろい
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D級京都観光案内をほぼまんべんなくやってきた積りである。えっ、あんな有名なところが抜けているのにと思う読者もおられるだろう。私は阪神ファンではないが、巨人・大鵬・卵焼きは受け入れられない、その点では阪神ファンとともに戦う同士である。そうなのだ、弱いところを応援し続ける、それは戦いに他ならない。しかも体制派・権力に対する戦いなのである。権力側につきたい気持ちもちょっとあるが、それはちょっと置いておこう。敗者よ、お前は美しい、悔しいけれどそう叫ぼう。
そんなD級京都観光案内だから、超有名どころに触れなかったのは敢えてそうしたのだ。でも書き漏らしたところが一杯あるのも事実である。
今回はそんなところをきちんと訪ねてみよう。まず一乗寺にある圓光寺である。このあたりには、詩仙堂、一乗寺下がり松と八大神社、金福寺、曼殊院、赤山禅院、それに修学院離宮と名所旧跡、モミジの名所が一杯ある。その中で隠れた紅葉の名所ととして最近脚光を浴びてきているのが圓光寺だ。
京都の寺院としては歴史は浅く、徳川家康が教学のために建てた寺院だ。長く修行道場として営まれ、観光寺院として開放されることはなかったのだ。山門を入ると枯山水「奔龍庭」が広がる。渦を巻き、様様な流れを見せる白砂を雲海に見立て、天空を自在に奔る龍を石組で表した平成の枯山水である。切り立つ石柱は龍の周囲に光る稲妻を表すと言われる。重森三怜の庭によくみられる縦長の石を多く用いたものに比べ、少し落ち着きにかけるきらいがあるが、それも躍動感があると感じることにして平成の枯山水を楽しもう。
中門を抜けると苔と紅葉、敷紅葉の美しい「十牛の庭」がある。例年11月20日前後の数日に限り、早朝7時30分からの特別拝観を1日70名限定で行っている。朝日に輝く素晴らしい紅葉と静かな空間を堪能できる。「圓光寺型」と呼ばれる、縁が広い盃型の手水鉢を用いた水琴窟から澄んだ音色が聞こえる。
庭から裏山に登ると、開基徳川家康の歯を埋葬した東照宮があり、さらに墓地には「金福寺、思わぬ出会い」で触れたように村山たか女の墓がある。この墓地からは洛北一帯が見渡せ、遠く北山や西山の山々も眺望できる。
本堂には運慶作と伝わる本尊の千手観音菩薩坐像があり、瑞雲閣には、徳川家康に送られた日本で最古の木活字である圓光寺版(伏見版)木活字、紙本墨画「雨竹風竹図」六曲屏風一双 円山応挙筆、「松下寿老人図」 渡辺始興筆がある。
そこからずーっと西に行き、高野川、賀茂川も越えた烏丸鞍馬口東入に閑臥庵がある。萬福寺六世住持・千呆(せんがい)の開山になる黄檗宗の尼寺である。通称は「鎮宅さん(ちんたくさん)」。後水尾法皇が貴船の鎮宅霊符神を大宮御所の真北に遷したことが由来で、鎮宅霊符神は方除け・厄除けの神として知られ、鎮宅堂に祀ってある。中国由来の神様である。本堂にはご本尊、釈迦如来が祀られる。
閑臥庵で特筆すべきことは黄檗宗特有の精進料理の普茶料理が、2名以上の予約で食することができることだ。建物(方丈と呼ぶのだろうか)に入ると、廊下には緋毛氈が敷かれ、中庭を見ながら、大きなテーブルと丈夫でゆったりとした大きな執務椅子がある部屋に通される。襖は金色に輝き、紫の縁取りがある。天井にかかる明かりは、黒が基調だが金属製のシャンデリアだ。そこに運ばれる普茶料理は、宇治黄檗山萬福寺前で食べた中国伝来の普茶料理とはずいぶん趣が異なり、京懐石普茶料理と名付けられたのが納得できる、油のしつこさがなく、それでいてしっかりとした味わいで、目で楽しんで美しく、感心させられるものばかりだ。美しい赤紫のランの花のてんぷらも食べるのがもったいないほどだ。抹茶を練り込んだそうめんから作る栗のいが丸々一個を物の見事に揚げて、本物の枝付きの栗の葉とともに出されたのは絶句する。心づかいのある普茶料理を堪能してもう一度庭のたたずまいを見ると、そこにはいろいろ心遣いがなされていることに気づくのだった。
閑臥庵の近くには、すぐ東に上善寺、六地蔵巡りの一つ、鞍馬口地蔵がある。そこを少し南に下がると額縁門で知られる曹洞宗天寧寺、真南に少し行くと上御霊神社がある。
この地域から北に2㎞行くと賀茂川の東には上賀茂神社に代表される上賀茂地域がある。そこから西に位置する賀茂川の西側の地域は西賀茂である。西賀茂にも訪ねてみたい社寺がいくつもある。
きゅうり封じで有名な神光院は東寺、仁和寺とともに京の三弘法の一つである。西賀茂の弘法さんとも呼ばれる真言宗単立寺院である。
空海42歳の時、この地で90日間修行し寺を去る時、庶民との別れを悲しみ自ら刻んだ木像に諸病災厄除を祈願したという。この木像が本尊として本堂に安置されている。厄除け大師と信仰を集めている。不動明王坐像、愛染明王坐像も祀られている。
境内には茶室蓮月庵がある。江戸時代末期の尼僧で歌人・陶芸家の大田垣蓮月が晩年の10年間をこの茶室で隠棲した。大田垣蓮月の歌碑もある。京都検定頻出問題である。
きゅうり封じの正式名称は、「きうり加持修行」というらしく門前にそう大書してある。弘法大師の縁日である7月21日と土用の丑の日に行われる。氏名、病気平癒や家内安全とか願いを書いた紙で包んだキュウリを祈祷してもらい、家に持ち帰り体の悪い部分をそれで撫でた後、庭の土に埋めるそうだ。集合住宅で埋める庭がないときには、境内のきゅうり塚で埋めてもらえる。
きゅうり封じは土用の丑の日、仁和寺の隣にある五智山蓮華寺、鳴滝の三宝寺でも行われている。
神光院から西北すぐのところに五山の送り火の船形が灯される船山がある。船山のふもとに正伝寺がある。
参道入り口に広い駐車場はあるが、本堂まで少し遠いので、車を本堂近くまで乗り入れてもよい。ただ境内を包み込むようにゴルフコースがあるものだから、ゴーカート用の線路が参道を横切っている。踏切注意だと心しておこう。
後醍醐天皇の勅願所であり、足利義満の祈願所で十刹の一つであり、豊臣秀吉、徳川家康の庇護も受けたという歴史ある寺である。本堂(書院)の天井は伏見城の廊下を持ってきた血天井である。襖絵は狩野山楽の傑作「楼閣山水図」(重文)である。
方丈前庭は白砂とサツキ等の刈込だけで構成される枯山水の庭園で、はるかに比叡の霊峰を借景としていている。刈込は右方から左方に7,5,3と配列されており、「獅子の児渡し」の庭と称されている。小堀遠州の作庭である。
正伝寺の参道のふもとまで戻り、すぐ南に、浄土宗西山深草派法雲寺がある。境内には10mの石像の十一面観音菩薩立像があり、比叡山を始め京都市北部を見渡せる。観光寺院ではないので静かなたたずまいである。
法雲寺といえば、中京区河原町二条上るにある法雲寺のほうが観光的には有名である。こちらも浄土宗の寺であるが、縁切りの菊野大明神を祀っていることで参拝客が多いらしい。ご神体は深草少将が小野小町への百夜通いの時に腰掛けたと伝えられる御霊石だ。果たして悪縁を断ち良縁を結べるご利益があるのか、深草少将の故事からは不明だが、そんな深いことは考えない方が賢明なようだ。
西賀茂の法雲寺を少し南に下がったところに、船形の送り火で重要な役割を果たす西方寺がある。創建は第三世天台座主、慈覚大師円仁と伝えられ、9年の入唐生活を終え遣唐船に乗って日本に無事帰ってきたことから、送り火を船形にし、その船は西方浄土を目指すものだからこの寺の名も西方寺にしたのだろう。「入唐求法巡礼行記」は円仁が著した9年間の旅行記である。
西方寺では「船形」の点火の合図となる鐘を鳴らしたり、山麓で読経が行われる。その後、境内のかがり火を囲んで六斎念仏が行われる。
境内の西側には小谷墓地があり、そこには大田垣連月、北大路魯山人の墓がある。
西方寺から少し東に行った西賀茂角社町(すみやしろちょう)に大将軍神社がある。桓武天皇が平安京造成の時、王城鎮護のためため東西南北に建てた大将軍のうちの一つである北の大将軍である。平安時代、延喜式 木工寮(もくりょう)に属した西賀茂瓦屋があり、官衛(かんが)御用の瓦を焼いていた。ここ大将軍神社は、瓦屋寺の鎮守社であったといわれる。発掘調査で出土した遺瓦(神光院に所蔵)は、大内裏跡で発見されたものと同じで、東寺、西寺の瓦も造られたと想定されている。
2020年(令和2年)4月7日新型コロナウィルス感染拡大に伴い政府は緊急事態宣言を出し、対象地域に東京都、大阪府を始め7都府県を指定した。京都府は含まれなかった。こんな時期に紹介するのにふさわしいところは今宮神社である。
今宮神社は、大徳寺の北を少し西に行ったところにあり、疫病退散の神さんとして信仰されている。摂社の疫神社(えきじんしゃ)あるいは疫社(えやみしゃ)の祭礼で4月第2日曜に催される「やすらい祭」は春に蔓延する疫病を鎮めることを目的に行われる。古来、桜の花が散る時に疫病の原因とされた疫神も飛び散るので、疫病の根源を美しい花傘に集めて、疫社に閉じ込めればよいと信じられていたのだ。
春の花で飾られた大きな傘、花傘が氏子町内を練り歩き、この中に入ると役を逃れられると伝えられてきた。赤熊(しゃぐま)と呼ばれる赤毛・黒毛をつけた4人の鬼が鉦や太鼓をたたき、髪の毛を振り乱して踊り、疫神を傘の中に誘導するという。ただ今年は花傘道中はコロナ感染の3密防止の原則で、残念ながら中止となった。
やすらい祭は、由岐神社の「鞍馬の火祭」(10月22日、時代祭と同日)、現在は中断中の太秦広隆寺「牛祭」と合わせて京都三大奇祭といわれている。
今宮神社の境内には「阿保賢さん(あほかしこさん)」という石が置いてある。手のひらで軽く3度たたくと重くて持ち上がらず、願いを込めてやさしく3度なでて持ち上げて、軽く感じたら願いはかなうという世にも不思議な占い石だ。
摂社・織姫神社は西陣織業者が織物の始祖として祀る神社である。西陣の八百屋の娘(一説には西陣織屋の娘)お玉は徳川家光の側室・お万の方に仕え、春日局の目に留まり家光の側室となり、産んだ子が後の5代将軍綱吉だ。将軍の母桂昌院として大きな影響力を持ったが、ふるさと西陣に対しては思い入れも強く、今宮神社にも多くの援助をしている。「玉の輿」にあやかろうと今宮神社を訪れた人は思うのは無理もないことだ。
今宮神社の東門を出たところに、名物「あぶり餅」の店、「かざりや」と「一和」が道を挟んである。江戸時代の旅人になったような気分になれるところがすごいところだ。
次回は洛中で紹介しそびれたところを案内するとしよう。
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