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D級京都観光案内 64

京都観光落穂ひろい 2

令和2416日、新型コロナウイルス感染拡大に伴い、緊急事態宣言の対象を7都府県から全国に拡大された。京都府も13の「特定警戒都道府県」の一つになった。外出は自粛し、府県の境を越えた不要不急の移動、5月の大型連休中の観光や旅行は極力避けるように要請されている。

こんな時期に「京都観光案内」を書くのは極めて不謹慎である。でも、新型コロナ感染症は必ず終息する。それが2か月後か、半年後か、あるいは1年後かもしれないが必ず終息する。息をひそめて耐えた生活から解放され、大手を振って京都観光ができる日が来るだろう。その日のために最終回を書くことにする。

市比賣神社(いちひめじんじゃ)は河原町五条を一筋下がり西に入ったところにある。平安京で東西の官営の市座、東市・西市の守護神として東市内の七条坊門(現在の七条堀川)に創建されたのが由来で、神大市比賣命(かみおおいちひめのみこと)、宗像三女神など女神だけが祭神という珍しい神社である。このことから「女人守護 市場守護」の神社として信仰を集め、女性の参詣客が多く、中央市場内にも分社がある。

天之真名井(あめのまない)は京都7名水の一つで、歴代天皇や皇子や皇女の産湯に用いられていた。現在も名水として茶会・花展・書展などで用いられている。「五十日百日之祝」(いかももかのいわい)は生後50日目か100日目に、市比賣神社より「五十日餅」「市之餅(いちのもち)」を授かり子供の口に含ませ、健やかな成長を祈るしきたりである。源氏物語にも登場するという。「おとう鈴」というトイレのお守りも授与される。トイレのことをかつて東司(とうす)と呼んだように、「おとう」とはトイレのことである。

当社の所在地は本塩竃町である。平安時代ここには、光源氏のモデルとされる源融の広大な邸宅、河原院があり、陸奥の国塩竈の風景に模して庭園を造り、尼崎から運んだ海水で塩焼きを楽しんだという。住所はその名残である。五条木屋町通下がるに「源融 河原院跡」の石碑と駒札が立っている。

市比賣神社の南西すぐに、元六条御所・長講堂がある。平安時代後期、木曽義仲により法住寺殿を焼き討ちされた後白河法皇が西洞院六条にあった近臣 平業忠(たいらのなりただ)の邸に逃げ込み、後にここを院御所「六条西洞院殿」とした。法皇の持仏堂として建立したのが長講堂である。

京都で最もにぎやかな場所とされる新京極四条に立つ寺院が染殿地蔵を本尊とする染殿院である。新京極通からも四条通からも入ることができる。なかなか子宝に恵まれなかった染殿皇后がこの地蔵さんに17日の願をかけ祈ったところ最終日に懐妊の兆候があり、男の子を出産した。のちの清和天皇である。このことから安産守護の信仰を集め、現在も安産祈願の腹帯が授与されている。国宝「一遍聖絵」によると、一遍上人は時宗を広めるためこの寺で踊念仏を行っている。「時宗開祖 一遍上人 念佛賦算遺跡」の石碑が門前にある。

染殿院の四条通を挟んだ向かい側、四条寺町の南側には八坂神社御旅所すなわち四条御旅所と、それに隣接して、八坂神社境外摂社の冠者殿社(かんじゃでんしゃ)がある。

祇園祭は八坂神社の祭礼で、都大路を行く山鉾巡行が観光の対象として一番脚光を浴びる。しかし祭礼の神事としては八坂神社から出る3基の神輿の氏子町内の巡行である神幸祭(717日)と神輿が氏子町内を渡御して八坂神社にもどる還幸祭(724日)が最も重要なものである。7日間、神輿と神霊が安置される場所が四条御旅所である。

7月17日から24日までの間、誰とも言葉を交わすことなく七夜御旅所にお参りすれば、願いが叶うといわれるのが「無言参り」として祇園花街に伝わる。この期間以外は神様不在だから有名老舗約20店の土産物屋「四条センター」となっている。

冠者殿社の祭神は素戔嗚尊の荒魂である。素戔嗚尊は天照大神に身の潔白を誓約された神様であり、「誓文払い」の祖神として崇められている。「誓文払い」とはブリタニカ大百科によると「陰暦 10 20日に,京都の商人や遊女が冠者殿社に参詣し,商売上の駆け引きで客を欺いた罪を払い神罰を免れるように祈った行事。江戸時代以来の風習で,この日,京都,大坂の商店が安売りを行なったところから,のちには商店の売出し行事となり,京坂だけでなく全国に広がった」とある、何のことはないバーゲンセールのことである。

四条通以北の寺町通、すぐ横の新京極通、さらにすぐ東の裏寺町通にはいろいろなお店が並んでいるが、その中にちょっとディープな社寺が潜んでいる。

錦市場の東端に錦天満宮はある。新京極通に面してあるが、珍しいのは寺町通との間にある大鳥居の笠木が後から建てられた店に貫入していることだ。境内には「錦の名水」がある。「からくりおみくじ」は「人が近づくと、神楽が鳴り出して獅子舞が踊り始め、コインを入れると獅子がおみくじを運んでくれます。総合みくじ・和英文みくじ・和英文花みくじ・恋みくじ・こどもみくじ・よろこびみくじの6種類のおみくじがあります。」と神社の説明にはある。

新京極通を蛸薬師通まで上がり、東に入ったところに逆蓮華(さかれんげ)の阿弥陀で有名な安養寺がある。本尊の阿弥陀如来は台座の蓮の8枚の葉が下向きになっていることからこの名がある。古くから女人往生の寺として多くの女性からの信仰を集めている。

洛陽六阿弥陀巡りは真如堂(うなずきの阿弥陀)、永観堂(見返り阿弥陀)、清水寺阿弥陀堂、安祥院、ここ安養寺と巡り最後に誓願寺に参って結願である。開基は恵心僧都・源信であり、妹の安養尼が住持しこの寺名になった。小さい寺だが、本尊を拝ませてもらうと何かとてもありがたい感じがした。

すぐ東の裏寺町通を蛸薬師通から上がるとすぐ東側に、「妙心寺高野堂 醒ヶ井地蔵尊」の石碑が立っている。山門をくぐると小さな寺院で、御朱印も貰えた。花園に大伽藍を持つ妙心寺とは何の関係もない。

更に少し上がった東側に伊藤若冲ゆかりの寺としてこの数年急に脚光を浴びた寺院、宝蔵院がある。伊藤若冲及び伊藤家の菩提寺で、伊藤家親族の墓がある。若冲作の「髑髏図」「竹に雄鶏図」、若冲の弟・白歳はじめ弟子たち若冲派の作品(ほとんど水墨画)を所蔵している。残念ながら一般公開はされていないが、宝蔵寺「若冲応援団」に年会費1000円で入会すると、寺宝特別公開の時に無料で参拝できるようだ。

「髑髏図」の入った御朱印が色違いで4種類あり、とても人気がある。私は4種類とも買ってしまった。

寺町通の二つ西の通りは麩屋町通で北行一方通行である。三条通少し手前には「炭屋旅館」、御池通の少し手前に「柊屋旅館」「俵屋旅館」と一度は泊まってみたい京都老舗旅館御三家が並んでいる。御池通を越えて押小路通の少し手前東側に白山神社がある。

京都の町の真ん中になぜ白山が出てくるのだろうと訝しく思ったものだが、いわれはこうだった。平安時代末期加賀白山社の衆徒は3基の神輿を担いで内裏に押し入り、われらの願いを聞かざれば神罰が下りるぞと高倉天皇に強訴しようとした。ところが取次の公卿に取り合ってもらえず、それなら仕方ないとえらく弱腰で神輿を担いで引き戻ろうとしたが、麩屋町押小路あたりで神輿が急に前に進まなくなり、衆徒たちは神輿を置き去りにして帰ってしまったという。とんだ罰当たりだが、麸屋町の住民たちは、神輿を野ざらしにしておくこともできず、祠を作り祀ったのがこの神社の始まりである。

江戸時代、最後の女帝、後桜町天皇が歯痛で苦しまれた時、女官が白山神社から持ち帰った神箸と神塩をつけたところ、たちまち歯痛は治ったという。それ以来、歯痛平癒の神として信仰を集めるようになったという。なお御朱印はありませんということだった。

押小路通を西に行き、富小路通と柳馬場通の中間あたりに京都で最古の能楽堂、大江能楽堂がある。明治41年観世流大江家5世又三郎(後に竹雪)が創建したもので、当時の面影をそのままに残している。定期的に能・狂言の公演が行われるほか、カルチャーセンターで能・謡の手ほどきも受けることができる。

押小路通の一つ北の通りは二条通である。二条通には江戸時代から多くの薬問屋があり、薬の町として栄えていた。両替町通と室町通の中間あたり南面して薬祖神祠(やくそじんし)というガラス張りの小さな祠がある。薬業者たちの守り神で、神農さん、大己貴命、小彦名命そしてヒポクラテスが祀られている。大阪道修町の少彦名神社(神農さん)の縮小版というところだ。でも京都ではヒポクラテスも一緒に祀っているところが憎い。

二条通をさらに西に行き、釜座通りを北に上がると「こぬか薬師」、正式には薬師院がある。寺伝によると御本尊の薬師如来は伝教大師最澄が1木から7体の薬師如来を彫ったものの1体で、比叡山根本中堂に安置されているものと同じ由来という。鎌倉時代1230年、疫病が全国に広がった時、住職の夢に薬師如来が現れて、「一切病苦の衆生、我が前に来たらば諸病ことごとく除くべきに、来ぬか、来ぬか」とのお告げがあり、皆病気治癒したので、これ以降、「こぬか薬師」呼ぶとある。京都検定公式テキストによると、美濃の国の威徳堂に安置されていた薬師如来を、織田信長が薬師院に勧請して移された当初、大変な疫病がはやり医者も祈祷師もなす術がなかったが、住職の夢枕に立った薬師如来が上記のお告げをし、皆病気治癒したとある。第11回京都検定2級で出題された。

釜座通を南に下がり、押小路通を一筋西の西洞院通を少し下がった西側に御金神社(みかねじんじゃ)がある。このあたり妙に人通りが多く、特に若い人達が目立つと思っていたら、みなここに参拝に来るのだった。

金色の鳥居が立ち、日本で唯一お金の神さんを祀る神社として知られ、資産運用や証券取引等の成功を願ったり、競輪競馬などでの勝利や、宝くじ等の当選を願う絵馬が大量に奉納されている。絵馬はイチョウの葉の形をしている。

明治時代初期、金光教の布教師だった田中庄吉が美濃一の宮の南宮大社から金山彦命(かなやまひこのみこと)を勧請して祀ったことに始まる。金山彦命はイザナミが火の神カグツチを生んだ際に負った火傷で苦しんでいる時に吐いた嘔吐物から生まれたとされる神で全ての金属を司る神である。金属・鉱山・鉱物・武具・鏡・鋤・鍬や刀剣などの神として信仰されていたが、今は金運向上の神としてもっぱら有難がたがられている。

帰りに押小路通釜座通を少し東に戻ったところに、お茶漬けいわし鈍刀煮 京の六味という小さな店がある。鈍刀煮は細かくほぐしてごはんにかけ、お茶漬けにしていただくのが一番とある。一子相伝の製法でこの店だけで作られている。D級京都観光案内最終回を飾るにはとてもふさわしい逸品である。

長かった連載もこれが最後である。箕面市醫師会報の貴重な誌面を5年半にも渡り占拠することを許していただいた医師会の先生方に感謝しています。

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