D級京都観光案内 6 六地蔵めぐり |
京都では8月22日・23日の両日に都の入り口にある6か所の地蔵さんを巡拝して家内安全、無病息災を祈願する「六地蔵めぐり」が行われる。 六つの地蔵尊がある寺は であり、各寺で授与される6種の(6色の)お幡を集めて、入り口に吊るしておくという。 六地蔵の六は六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)に通じる。小野篁は死んで地獄の有様を閻魔王に見せてもらった。阿鼻叫喚の地獄の炎の中に一人の修行僧がいて多くの罪人の身代わりとなって救済していた。篁は驚いてその修行僧に仔細を聞いた。修行僧が語るには、私は地蔵菩薩で、地獄に落ちる多くの人々を救っているが追っつかない、あなたが娑婆に帰って、私に帰依しなさいと。 小野篁は娑婆に帰り一本の桜の木から六体の地蔵菩薩を刻んで、大善寺に祀ったという。時代は下り、保元2年に平清盛が命じて六体を都に通じる街道口に分祀したという。現在のような六地蔵めぐりは江戸時代になってからの風習だといわれている。 死後、極楽浄土に行きたいが我々庶民はいろいろ悪行をしているものだから地獄に落ちる可能性が高い、そこで地獄での救済者地蔵菩薩に救いを求めたくなり、地蔵菩薩を道祖神と融合させて子供の守り神として辻辻に祀るし、地獄とこの世を行き来した小野篁に地蔵菩薩との仲介を願い、小野篁が作ったと称する地蔵菩薩を有難くお参りすることにしたのであろう。 この六地蔵めぐりのいわれを頭に刻み、われらD級京都観光では、こちらの都合の良い日にまず鳥羽地蔵の淨禅寺を目指そう。車で京都南インターでおり、北に進路をとる。 さて京都に来るときはほとんど京都南インターで降りて左折し、北に向かうのだが、そこでいつも気になる店がある。「ラーメンたかばし」と大きな看板がかかっている。いつも混んでいそうなのである。ネットで調べると「50年前に京都で生まれた暖簾です」とある。昭和22年(なんと私より1歳下、わが女房が生まれた68年前ではないか)京都駅の近くのたかばしにラーメン店「第一旭」が誕生し、店名を「たかばし」に変えても頑なにそのラーメンの味を守っているという。一度「たかばし」に寄ってもいいのだが、われわれはソバ派なので、ついついここはスルーしてしまう。 そこから一筋目に鳥羽地蔵は左への案内板が見える。ニトリの少し手前である。左折した後、ナビを頼りに右に曲がったり左に曲がったりすると淨禅寺にたどり着く。駐車場もある。本堂にはご本尊の阿弥陀如来、袈裟御前像が安置されている。地蔵堂には小野篁が彫ったとされる地蔵菩薩像がある。我々が来たのは六地蔵巡りの日ではないから建物を外から眺めるだけだ。境内には袈裟御前の首塚とされる恋塚がある。戀塚淨禅寺と寺標が建っている位恋塚は有名である。 この寺は文覚により開基されたが、文覚は19歳の頃は遠藤盛遠という上皇の警備にあたる北面の武士であった。盛遠は同僚の渡辺佐衛尉源渡の妻袈裟御前に横恋慕しその母を人質にとり自分の思いを遂げようとする。思い悩んだ袈裟御前は「私は夫がある身。夫が亡くなればあなた思いに添いましょう。」と告げ、その夜盛遠は源渡の屋敷に忍び込み寝所に寝ている渡の首を挙げて持ち帰る。ところが月明りでその首を見るとなんと自分の愛した袈裟御前その人のものだった。夫、母と盛遠の間で板挟みとなり悩みぬいた袈裟御前が敢えて自分を殺させるという道を選んだのだ。 猛烈に後悔した盛遠は出家し文覚となり、荒行に励み、神護寺の再興を強訴し、伊豆に流され、同じく伊豆に流されていた源頼朝に平家打倒の蜂起を促すなど歴史の表舞台に登場することになる。 袈裟御前の恋塚は後年多分江戸時代頃に建てられたものだといわれている。 さて話はややこしくなる。もう一つの恋塚が真南に2qほど行ったところにあるその名もずばり戀塚寺があるのだ。寺伝によれば文覚が袈裟御前の菩提を弔うために建てたとある。茅葺の山門があり、恋塚がある。これは少し西側、すなわち文覚の眠る神護寺の方を向いているというが、袈裟御前にとっては有難迷惑じゃないかと思われる。さらに文覚、袈裟御前、源渡の木像も並んでおかれている。土佐光信の袈裟御前の肖像画もあるようだが、拝観には前もって予約する必要があるらしい。寺の参拝用駐車場もないのも注意しておかなければならない。 二つの戀塚寺はともに文覚が建て袈裟御前の恋塚がある。どっちが本家でどっちが真似したんだいと突っ込みを入れたくなるが、食べ物屋ではよくあることだ。松本清張の小説「顔」に出てくる円山公園の「平野屋のいもぼう」を先日初めて食べに行った。ネットで検索すると平野屋本家というのがヒットして、確かに吉川英治、川端康成、松本清張が食べに来たとある。平野屋にはもう2,3回行ったことがあるという妻に連れられ、知恩院の三門前から円山公園に入るすぐのところに平野屋本店があり、妻はここだという。本家と本店では本家の方が格上のような気がするけどなあとちょっと逡巡したが、中からお店の人が出てきてどうぞどうぞと勧められるものだからそのまま入った。メニューを見るとネットで調べていたのと全く同じだったので、そこで安心し、室内室外の様子を楽しみながら、棒鱈とえびいもの絶妙の炊合せを堪能した。棒鱈は十分やわらかくて安っぽい鱈くささがない。えびいもはとろけるようだが適度の歯ごたえもある。何よりも鱈からのうまみが入っている。さすが老舗の味と感動し、さらに吉川英治、川端康成、松本清張らが食べに来たとも書いてあり、「顔」の舞台の店はここだったのだと納得して、店を出た。 祇園石段下に向かって公園内の道を行くと、すぐに平野屋本家の店の前に着く。店のたたずまいは本店より本家風に見えてしまう。前に停まっている店の車の電話番号はまさにネットで調べたその番号だ。本家争いの決着は家に帰ってネットで調べるしかない。まずは祇園石段下の交差点を渡り、いづ重で鯖寿司といなりずしをゲットする。いづ重はいづ卯からのれん分けしてもらった店で、鯖寿司はどちらも昆布をとってから食べる。いづ重の昆布の厚さはいづ卯の半分くらいで、私はとって捨てるのはもったいないのでそのまま食べたり、昆布だけを後から食べたりしている。これが結構おいしいのだ。いなり寿司には麻の実が入っているのが大好きだ。 隣の志津屋(Sizuya)でブドウパン(スライス2枚入り)を買い、知恩院道を祇園の方に入った新町通りにあるいづ萬で東山魚餅を買う。千里阪急の京都コーナーでいづ萬の練り物はあるのだが東山魚餅は置いてないのでこの機会だ。ここのおかみに平野屋の本店と本家はどっちが古いか聞いてみる。「よう知りませんけど、東の方が古いの違いますか」という答えだった。 さて家に帰っていもぼうの平野屋、どっちが古いかネットで調べてみる。京都の人はいもぼうは自宅で作るせいかわざわざ平野屋にまで食べに行く習慣はないみたいだ。観光客にとっては自分の食べた平野屋が由緒正しいと思い込む方が有難いものだからただただ自分の行った平野屋を称賛するばかりだ。本家争いに決着をつける記述にはなかなか巡り会わない。そんな中で次のような書き込みにようやく行き当たった。 「平野屋さんは、どちらも祖は同じなので、どちらが正統という事はありません。歴史的には、本店さんの方でしょうけど。最初は、いもぼう平野屋さんは一軒しかなかったらしいですが、商売が繁盛した為に、店舗を一店舗増やし、いもぼう平野屋西店さんの二店舗となった。いつの間にか、西店さんが本家と名乗るようになったようですが、他人の家の話ですので、理由は知りません。 幸い手元にワラヂヤシティアトラス京都市昭和57年版がある。祇園・円山公園のページを見てみる。知恩院側の円山公園の端に確かに平野屋本店がある。そして少し西に行った今の平野屋本家は平野屋西店とはっきり書いてある。ネットに書いてあることいづ萬のおかみの言っていたことの意味はこういうことだったのだ。 さて劇中劇のように京都観光案内は下鳥羽の戀塚寺からとんでもない方に話は飛んでしまった。次の目的地六地蔵の一つ、桂地蔵に急がないといけない。国道1号線をもう一度北に上がるのだが、その途中に城南宮前の左側におせき餅本舗がある。江戸時代、街道を行く旅人にせきという娘が編み笠の上に餅を並べて売ったのが最初といわれる。餅の上の粒あんが編み笠のような形であり、旅人の旅愁を誘ったとお品書きには書いてある。京都検定的には押さえておかないといけない京菓子の一つなのだ。 またまた道草を食ってしまった、1号線を北にどんどん走って行こう。
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