D級京都観光案内 45

鹿王院、直指庵そして遍照寺

 今日は嵐山・嵯峨野でいかにもD級らしいところへ行ってみよう。最初は鹿王院(ろくおういん)である。京都四条大宮から嵐山まで走るほとんど市街電車と言っていい嵐電の駅名は、駅近くの有名寺社名がそのまま使われている。蚕ノ社(かいこのやしろ)、太秦広隆寺、車折神社(くるまざきじんじゃ)、そして鹿王院である。終点嵐山から二つ手前の駅である。

 ついでに嵐電北野線(北野白梅町から帷子ノ辻まで)の駅名も眺めると、等持院、龍安寺、妙心寺、御室仁和寺と有名寺院のオンパレードである。

 足利義満が延命を祈願して康暦元年(1379年)に春屋妙葩を開山に迎えて創建した宝幢寺の開山塔所が鹿王院である。なお春屋妙葩は夢窓疎石の高弟で、相国寺の実質の開山でもある。京都検定1級では二人とも漢字で書けるようにしておきたい。

 車で行くと門前に数台止めることのできるスペースがある。紅葉の季節でなければ駐車できるだろう。山門をくぐるとすぐ拝観受付のような古びた小屋があるが、無人のことが多く、そのまま長い石畳の参道を本堂に向かう。紅葉の頃はここではっと息をのむ。

受付に当たる所は庫裏である。御朱印もここでもらえる。正面には小さな韋駄天の像がある。ここから拝観が始まるが、まず客殿の廊下を通って行く。足利義満筆による「鹿王院」の扁額がある。山門の扁額「覚雄山」も1歳若い23歳の時の義満の筆による。

廊下の前に広がる鹿王院庭園は、日本で最初の枯山水庭園と言われる。嵐山を借景とし、杉苔に紅葉が映える姿は美しい。樹齢400年の木斛(もっこく)も植えられている。

廊下伝いに本堂(開山堂、仏堂)に行く。運慶作と伝わる本尊・釈迦如来坐像、十大弟子像や足利義満像、普明国師(春屋妙葩)像がある。「応永鈞命絵図(おうえいきんめいえず)」という室町時代に書かれた絵地図があり、天龍寺、臨川寺、宝幢寺を中心に150寺に及ぶ塔頭があり、夢窓疎石を始祖とする嵯峨門派という一大禅林があったことが示されている。このあたり一帯は門前都市群が形成されていたことを知って興味深い。

回廊を通って真四角な造りの舎利殿にいく。入口の扉を開け勝手に入ればいい。内陣中央に須弥壇があり大厨子が載っている。中には鎌倉3代将軍源実朝が宋から取り寄せた釈迦の歯である仏牙舎利(ぶつげしゃり)が納められている。四方には四天王像が守っている。涅槃像もあり、十六羅漢像もある。

回廊を逆に回って受付の庫裏のところまで戻り、御朱印を貰い、長い石畳を山門迄戻る。渡月橋や天龍寺から500mも離れていないのに、観光客でごった返すあの喧騒は何だったのだかと思えるほど、ゆったりと時間は流れた。山門を出て「覚雄山」の扁額を振り返る見ると、こせこせした観光に縛られなかった自分に気づいてちょっと嬉しくなるのである。

先程の古地図に出てきた臨川寺は喧騒の京都市嵐山観光駐車場に接して天龍寺側にある。山門は渡月橋北詰から観光駐車場入り口に向かう中間点辺りにあるが、拝観謝絶と書かれている。前住職がなくなって20年来拝観謝絶である。ただ2年前には一度、遠諱記念特別拝観で拝観が許されたみたいだ。

後醍醐天皇の勅命により夢窓疎石が開山し、晩年をこの寺で過ごし、入寂した。開山堂には夢窓疎石像が安置され、その床下の蓮華型自然石の下に遺骸が納められている。中門には足利義満筆の三会院(さんねいん)の扁額がある。

山門から覗くことだけで中の様子を想像するだけにして、次の目的地北嵯峨にある直指庵を目指す。嵐電嵐山駅より京都バス大覚寺行き約7分で大覚寺バス停につく。そこから北に徒歩7分のところに直指庵はある。紅葉の季節以外なら山門前に23台の車を停めるスペースはあるが、途中きわめて細い道を行かねばならず、車で行くには相当の覚悟がいる。

正保3年(1646年)独照性円が南禅寺から北嵯峨細谷に草庵を結んだのが始まりである。この年は千宗旦が三男江岑宗左に家督を譲り、表千家が誕生した年である。独照性円は禅語の「直指人心(人間が生まれながらに持っている仏性を直接に体得せよ)」の旨を守って、庵を「直指庵」と号した。さらに隠元に黄檗禅を学び、隠元を直指庵に招じたのちは大伽藍を建立するまでになった。その後寺勢は衰えさびれてしまったが、幕末に近衛家の老女村岡局(津崎矩子)が篤姫の養母役をやり、西郷隆盛などの勤王派の志士と交わり、幕府から何度も追放処分を受けた後、故郷の北嵯峨の当寺に入り再興し浄土宗の寺とし、土地の子女の訓育に尽くしたという。

本堂は質素な庵であり、ご本尊を祀る阿弥陀堂、独照性円の墓のある開山堂、村岡局の墓、想い出草観音像がある。庵には「想い出草」ノートがあり訪れた老若男女が思いのたけを書き綴っていて、保存されているノートは5000冊以上に上るという。かつてこの寺は悩める女性の駆け込み寺と言われていた。竹林に囲まれた静かのこの寺は秋にはその素晴らしい紅葉で訪れた人の心を高揚させてくれる。

直指庵の西には嵯峨天皇陵、東には後宇多天皇陵があり、その登り口が大覚寺から歩いてきた道の途中とこれから広沢の池を行く道の途中にある。

直指庵からそのまままっすぐ南に下がると、左手の地区の町名は北嵯峨名古曽町である。そう、そのまままっすぐ下がると大覚寺境内の裏辺りにやってきて、左に進むと史跡・名古曽の滝跡にたどり着く。

大覚寺裏まで来る少し手前に、農家が自分のうちで採れた野菜を並べ直売所を開いている。直指庵に来た時はいつもこの店で野菜を何か買っていた。この間テレビを見ていて驚いた。純朴そうなお嫁さんとおばあさんが、ご主人とおじいさんと一緒に出てきて、地元のおいしいお米と野菜をレポーターに食べさせて感動させるというのをやっていたのだ。そこでは地元野菜の自販機もこの一家が設置していると紹介されていた。

直指庵から下がって広沢の池に向かう道を200mも行くと「地元野菜の自販機」はある。初めて「野菜の自販機」を見た時は吃驚した。田舎に行くと野菜が並んでいて、料金箱にお金を入れる直売所はよく見かける。だから驚くほどのことはないはずなのだが、でも驚いた。グーグルマップには「地元野菜の自販機」にブルーのピンが立っているので、その位置を確認できるし、ピンをクリックすれば野菜の自販機とはどんなものか画像を見ることができる。

ここからどんどん道なりに進むと田園風景の中に広い池が見えて来る。広沢池である。周囲1.3㎞の灌漑用のため池であるが、日本三沢の一つであり、農水省のため池100選に選定されている。

秦氏が嵯峨野一帯を開拓した時にため池を作ったのが始まりともいうし、この近くにある遍照寺の庭池として造られたともいう。

西岸の中央あたりから橋を渡って小さな島、観音島に行くことができる。千手観音の石像と弁財天の祠がある。木像ではなく石像ということで、千手観音像には独特の味があり、そこが人気の秘密なのだろう。

池の周りを南に進み広い道路に出る。ちょうどそのあたりに兒神社(ちごじんじゃ)はある。遍照寺を建立した寛朝僧正(かんちょうそうじょう)の侍児が祀られている。稚児は、寛朝僧正がこの池畔で坐禅されていたとき、いつも傍らに座り僧正に合わせ一心にお祈りをしていたという。その石の椅子が今も置かれている。ちょっと変わった由来の神社だ。

京の冬の風物詩とい言われるのが広沢池の「鯉揚げ」だ。毎年12月初旬、広沢池で養殖されていたコイやフナが、池の水抜きをし、「池ざらい」をしてコイやフナさらにはモロコ、エビを収穫する。それらは池の端近くのいけすに分けて入れられるが、その場で地元の人、遠方からの馴染みの人さらには料理屋さんが買っている。川魚の料理はどうもねと尻込みしたが、帰ってネットで調べると広沢池の川魚は泥臭くないから料理は簡単と書いてあった。

道路わきには広沢池を詠んだ和歌や俳句が書かれていたが、「名月や池をめぐりて夜もすがら 芭蕉」も載っていた。ここは月見の名所だったのだ。

澤乃家はこのあたりにある日本料理の店で、完全予約制である。店は池沿いの道路に面してあるが、食べるところは池の上に突き出した別館になる。2部屋だけあるが、どちらも池に面した太い枠の大きなガラス戸越しに、広沢池、その周囲、向かいの嵯峨富士(遍照寺山)そして池に映る逆さ富士を楽しみながらおいしい料理を食べることができる。

先月号で書いた桂高校で同じ授業を受けた同級生と50年ぶりほどに再会し、旧交を温めているが、その彼がこの近くに長く住んでおり、こんなお店があるよと招待してくれたのである。その日はあいにく雨が降り出した。でも雨に煙る広沢池も趣がある。私は子供の頃から雨によってできる波紋を眺めるのが好きだった。広沢池の水面が細かく波立つ感じはいいものだ。そのうち雨が上がり、霧が晴れるように対岸の藁ぶきの家が浮かび上がってきた。楽しい食事だった。友人の招待だったのでいくらかかったかは知らない。

ここから150mほど南に行ったところに遍照寺はある。この名前を聞いた時、百人一首「天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」の作者僧正遍照が建てたか、ゆかりの寺だろうと思っていた。

全く違っていた。平安時代中期、宇多天皇の孫の寛朝僧正が広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたものだ。創建時は多数の伽藍を有する広大な寺院で、最盛期には、大覚寺、仁和寺と寺域を接していたという。

寛朝僧正は真言密教の秘法を極め、真言宗で初めて大僧正の地位にまで登った人で、数々の法力の伝説がある。曰く、円融天皇の病気を祈祷により直ちに治した、雨乞いの祈願をすると翌日雷鳴轟き大雨が降った、下総の国で平将門の乱平定の祈祷をしたところ直ちに乱は治まったなどなど。平将門の乱の後東国鎮護のため建立されたのが成田山新勝寺である。

ご本尊の十一面観音菩薩立像と不動明王坐像は共に平安中期の作で重文に指定されている。大仏師定朝の父・康尚作とも伝えられる。この寺の素晴らしいことは拝観料を払うと住職みずからが本堂を空けてくれ、さらに扉を開いて内陣の両仏像のすぐそばまで来て参拝することを許してくれ、さらにこれらの仏像のこと寺の由来について説明してくれるのだ。

千年以上も前に作られた仏像がこんなに生き生きと眼前にあるのが驚きだ。国宝ではなく重文なので、この質素なお寺で維持管理できたのだろう。国宝展の時の京都国立博物館の喧騒には辟易した。有名寺院の仏像の前には多くの観光客がいるものだからゆっくりと参拝することなどできはしない。

ところがどうだ、この素晴らしい仏像を見せてくれるこの寺のなんと閑散としていることか。本堂の前には山椒の木が一杯植わっていた。特別移植したわけではなく、次々に広がっていくのですと住職夫人は話していた。もちろん鳥のさえずりも聞こえてくる。我々の求める静かな嵯峨野の原風景、まだそれが残っているよと感じられる今日の旅だった。


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