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新年の御挨

新年あけましておめでとうございます。

今年が皆様にとっていい年になることを祈ります。そして私も今年は今までにないいい年にしてみせるぞと意気込んでいます。新しい年を迎えるっていいですね、真白なキャンバスに好きなように素敵な絵を描けるようなそんな感覚を持てるからでしょうか。

そんな未来志向の新年の御挨拶のはずなのに、どういう訳か私は、昔も昔、70年前の我が家のお正月の話をさせていただこうと思います。そう歳をとると昔のことの方がよく思い出されてしまうものなのです。それに免じて私の昔話にお付き合いください。

ちょうど70年前、昭和28年の新年を6歳の私は京都に引っ越してきた初めてのお正月として迎えました。私は鳥取市の外れにある漁港、賀露というところで終戦の翌年に生まれ育ちました。

大阪の池田師範(現大阪教育大学)、寝屋川高女(現寝屋川高校)で教職についていた父は病を得て休職していましたが、暇だろうということで在郷軍人会の会長という平和主義者の父にはとても似つかわしくない役についていました。終戦となり、病も癒え、さあ教職の道にもどろうと思った矢先、GHQによる公職追放令でその道は閉ざされ、京都の出版社のお手伝いをするようになりました。母及び姉、兄と生まれてきた私は賀露で生活し、父は京都に単身赴任という形でした。

昭和27年父は出版社を引き継ぎ、新たな出版社を京都市郊外向日町に構えることにし、住居兼用でしたので鳥取にいた私たち4人を呼び寄せてくれて、初めで家族そろって生活することが始まるのです。

5月20日の夜、最寄りの湖山駅から旅立ちます。近所の人や知り合いの人が大勢見送りに来ていて、その人たちと挨拶して涙する母を見て、涙の意味も分からず妙に心細くなり、早く汽車に乗ろうよとせがんだように記憶しています。隣の鳥取駅で急行に乗り換えたのだろうと思いますが、5歳の私はすぐぐっすり寝込みました。

両親や姉兄の出す歓声で目を覚まし、みんなの示す方に目をやるとはるか下に今まで見たこともない渓谷美が広がっていました。渓谷などという概念は全く知らないのですが、鳥取の家の前を流れる小さな川しか知らない子供の私にとって衝撃の光景でした。ああこれが京都に来たということなのだと心に焼き付きました。

ほどなく汽車は二条駅につき、そこで降ります。市電に乗るのです。生まれて初めて電車というものを見、そして乗るのです。四条大宮で市電を降り、新京阪(今の阪急電車)の京都駅(今の四条大宮駅)で初めて本格的電車に乗り込みます。この駅が地下駅なのですね、これも初体験でびっくりします。5つ目の西向日町駅で降り、電車の全貌を見ることができるのですが大感動です。

こうやって昭和27年5月21日より田中家の新しい生活が始まりました。小学6年の姉、小学3年の兄はそれぞれ新しい小学校に転校しましたが、私一人幼稚園にも行かずずっと家で過ごしました。昭和28年のお正月が京都で初めてのお正月ということになります。

母は張り切っておせち料理を作ったようです。大阪育ちの母ですが、京風におせちを作りました。お雑煮も京風でした。甘ったるい白みそ仕立てで、なかには巨大な頭芋が入っていました。白みそのお汁は今まで経験したことのない味だし、何より頭芋は自分の頭ぐらいあるのじゃないかと思うくらいで、いくら箸でつついても減りません。大好きなお赤飯の方を食べたいのに、「縁起物だから頭芋を全部食べてからでないとお赤飯を食べてはいけません」と母の厳命が下ります。もっちゃくするとはまさにこのことだろうともいますが、何とか食べきってお赤飯にたどり着けたと思います。

今思えば父にも母にも、公職追放により強いられた苦しい時代から抜け出す京都での新生活で、初めて迎える新年を京都らしく祝うことが、とりもなおさずその新生活に勝利をもたらすという思いがあったのでしょう。

悪戦苦闘した頭芋入りお雑煮にも父や母の強い決意を見ることができるのだと、70年経って息子は思い出すのです。


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