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続D級京都観光案内 4

鷺の森神社の狛犬

前回金戒光明寺への参詣道、春日北通りに2軒の八ツ橋屋さんがありその近くに勝新太郎が愛した河道屋養老という蕎麦屋があると書いたが、今回もまずこの店から紹介しよう。

一乗寺・修学院エリアは観光スポットが集まっている地域である。

 宮本武蔵と吉岡一門の決闘地といわれる一乗寺下がり松が境内にある八大神社、庭園の素晴らしい詩仙堂、蕪村が愛した芭蕉庵がある金福寺、その本寺である圓光寺、奥に行けば狸谷山不動院、これまた美しい庭園の曼殊院、広大な修学院離宮があり、その北に位置する赤山禅院と、よくまあこんな狭い地域に素晴らしい見どころが集まっているものだと感心させられる。

 秋も終わりになると、ここのどこも紅葉が美しいのだ。となると、人は多い。いや多すぎるといってもいい。オーバーツーリズムだ。お前も来てるじゃないかといわれそうだが、つい我儘な愚痴を言ってしまう。修学院離宮に至っては基本予約制であり、ちょっと思い立って見学してみようと思っても入場するのさえ難しい。ほかの名刹も拝観料は半端ではない。

 そんな中で拝観料も無料で、観光客でごった返すこともないのに、ハッとするほどの美しさを見せてくれるところがある。鷺森神社である。

 20231114日、初めて鷺森神社を訪れた。車のナビに導かれて白川通りを東に折れ、道なりに進んでいくと立派な鳥居が見えてきた。この下をくぐり長い参道を行くと駐車場があるのだが、あいにくその日は工事車両が多数停まっていて進入禁止だろうと思い込み迂回してしまった。そうすると駐車場に入れる入口はどこにもなく、やむなく先に進めて曼殊院の拝観を先にすることにした。

 曼殊院の拝観を終えて、勅使門からまっすぐ伸びる曼殊院道を34分歩くと左手に「うるしの常三郎」という漆器屋さんがある。ちょうど箸がほしいところだったので購入する。本当は漆塗りの酒器も買いたかったが、冷酒が3倍もおいしくなり、つい飲み過ぎてしまうので我慢した。店番をする3代目の若主人に鷺森神社への行き方を聞くと、すぐそこの細い分れ道が入り口だと教えてくれた。

 なるほど聞いておかなければうっかり見落としそうな「鷺森神社」という石碑が立っていて、その細道を行くと、誰かの民家の前で直角に曲がり、正面に拝殿が見えてくる。両側には鬱蒼とした森があり、何とも厳かである。小川がありそこに石造りの橋が架かっている。御幸橋といわれ、駒札によると「その昔、修学院離宮正面入り口の音羽川に架設され、後水尾上皇、霊元法皇も行幸のみぎりに通られた名橋です。昭和42年当社本殿改築の際、請願により下賜され、社宝として宮川に架設しております。」とある。この神社が後水尾上皇、霊元上皇と浅からぬ因縁があることをうかがわせる。

 御幸橋を渡り、4段の石段をのぼると神域に入る。正面には柱間が開放されている舞殿(というのだと思うが絵馬堂というのかもしれない)がある。さらに進むと十数段高いところに拝殿・本殿がある。石段を登り切ったところの両側に左右の狛犬がある。

 向かって右の狛犬は口を開けている、阿形である。立派な耳を持っている。そして左足は飾り玉を抑えている。飾り玉は財宝の象徴で、それを自由に操っていることから参る人は財運福運に恵まれるという有難いものなのだ。

 向かって左の狛犬は口を閉じている、吽形である。立派な耳を持っている。左足は飾り玉を押さえてない。でもなんとかわいい、右脚と脇で小さな子狛犬を抱きこんでいるのだ。かわいいのは子狛犬の顔であり、母子の姿である。ところで右脚の遠位部は台座についているようにも見えるのだが、解剖学的にどうなっているのか残念ながら解明できていない。子宝に恵まれる、一族の繁栄の御利益が保証されるようだ。

 拝殿の前面には多数の色とりどりの絵馬がかかっている。普通絵馬をかける場所は別に指定されているものだが、この神社は鷹揚なのである。どうも宮司さんが美的感覚に優れておられ、ご自身も芸術性のある作品を制作されておられるらしい。御朱印をいただいたのだが、3種類の中から選んでくださいという。お寺で何種類もの御朱印をいただけることは珍しくないが、ご本尊以外に何通りもの仏様を祀っていて、それぞれの仏様の御朱印があるからだ。

 鷺森神社の3種類の御朱印は、『鬚咫天王』1行書き、『鬚咫天王』の2行書き、『さぎのもり』である。『鬚咫天王』は『すだてんのう』と読み、祭神『素戔嗚命』のご神号である。素戔嗚尊が祭神である神社は多いが、そのご神号の御朱印を貰ったのはここが初めてだ。ご神号を1行にするか2行にするか、それとも柔らかいひらがなの「さぎのもり」にするかは祭神のありがたさよりも美的観点を重要視しているのだろう。頂いたのは1行書きのもので、なんと絵になっているから凄いものだ。

 由緒書によると、この神社は貞観年間というから平安時代初期に、大原、修学院、一乗寺などの近隣7地区の産土神として今の赤山禅院あたりに創建された。応仁・文明の乱の兵火により社殿は消失し、修学院の山林に移し祀られた。後水尾天皇は幕府との争いに嫌気がさし、譲位して上皇になり、芸術活動や離宮づくりに精を出すようになった。いろいろ離宮も作ったけれど最終的な土地は修学院の地に求め、修学院離宮を完成させたのである。となると鷺森神社の移転先を見つけないといけないので、鷺がたくさん棲息していたという当地を(後水尾上皇の第4皇子)霊元天皇により下賜され、現在に至っている。このあたりの地域の氏神様であり続けている。

 55日の神幸祭では小学3年生男児が、菅笠に紅たすきの着物姿で、手には扇子を持ち、鉦や太鼓の囃しにつれて「さんよれ、さんよれ」のかけ声で氏子区域を巡幸する。さんよれ祭の別名がある。

 本殿の近くには八重垣といってしめ縄がしてある四角い石がある。スサノオノミコトが詠んだ日本最初の和歌「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣つくる その八重垣を」にちなんでいる。スサノオノミコトはヤマタノオロチを退治した後、クシイナダヒメを伴い二人の新居を見つけるべく旅をし、スガの地についたとき雲が沸き立ち、こりゃあ妻を住まわすには一等地だと新居を建てたこと(無事結婚したこと)を祝った歌である。この石をなでると良縁に恵まれると信じられているのだ。

 私たちが最初通れなかった長い参道の両側にはカエデが美しい紅葉を見せてくれる。当然5月頃には青もみじも美しいだろう。参道入口の大きな鳥居の扁額は『鬚咫天王』である。知らないととても解読できない扁額なのである。

 


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