D級京都観光案内 16

山脇東洋に導かれて三条通り歩きつまみ食い

 

山脇東洋は江戸時代の医学者で、その時代において実証を重んじる医学を目指した。五臓六腑説を検証するため斬首された罪人の腑分けに立ち会い、その観察記録をもとに日本初の解剖書「蔵志」を刊行した。「解体新書」の杉田玄白たちの腑分けの立会に先んずること17年だった。

「日本近代医学のあけぼの 山脇東洋観臓之地」という観臓記念の碑が今回の観光案内のスタートだ。中京区六角通大宮西入ル因幡町にある。阪急大宮駅から大宮通を北に10分ほど歩いた六角通りで西に曲がり、住宅やマンションが建ちならび、通りが神社に突き当たる直前の左側に広い前庭を持った大きな建物があり、その前壁の前に「日本近代医学発祥之地」「勤皇志士平野國臣外数十名終焉之地」という二つの石碑が立っている。

その門を入った左手に大きくて立派な観臓記念の碑が建ち、山脇東洋がこの地で日本最初の観臓を行い、日本近代医学が芽生えるきっかけとなった旨が記されている。そして東洋の偉業をたたえるとともに観臓された屈嘉(くっか)の霊を慰めるともある。

さて観臓が行われたのはなぜ「この地」なのか?「この地」には何があったのか? 江戸時代この地には六角獄舎があった。処刑の日、罪人たちはここから出され市中引き回しの上、紙屋川畔の西土手処刑場で斬首された。首のない屈嘉の死体だけは再び六角獄舎に運び込まれ、待ち受ける東洋たちによって観臓されたのである。

東洋は非情な人ではなかった。観臓から1か月後に東洋の菩提寺でもある誓願寺で屈嘉慰霊の法要を営んでいる。その時屈嘉に与えられた戒名は「利剣夢覚信士」である。「利剣」は斬首を表すが、「夢覚」は「長い医学上の混迷の夢を呼び覚ましてくれた」ことに対する感謝の気持ちでつけられたという。誓願寺にはその慰霊碑があるという、あとで是非そこに寄ってみよう。

「平野國臣終焉の地」の慰霊碑が観臓記念の碑の右横にある。どういう関係があるのだろう? 平野國臣は幕末の勤皇の志士で、天誅組の変にかかわった後、生野銀山を支配する生野代官所を占拠し蜂起しようとした生野の変を主導し、願いかなわず捕縛され六角獄舎に入れられていたのだ。ほどなく長州藩のクーデター未遂である蛤御門の変が起こり、都は火の海となった。このどさくさに紛れて囚人たちが蜂起することを恐れ、奉行所は彼らをすべて未決のまま斬首することを実行したのである。平野國臣はじめ多く勤皇志士が斬首され、その中にはあの池田屋事件の発端となった古高俊太郎も含まれているのである。

生野の変にかかわりながら長州藩に逃れのちに明治政府の有能官吏になった勤皇の志士もいる。第3代京都府知事北垣国道がその人である。琵琶湖疏水事業を完遂させ、東京遷都によりさびれた京都の復興の強力な基礎を作った功労者である。生野の変で捕縛されたかどうかはほんの些細な偶然で決まったのだが、それが二人の人生を全く逆向きに動かし、さらには今の京都があるのもこの些細な偶然があったからなんのだ。

すぐ近くに武信稲荷神社がある。境内はそう広くはない。由緒書によると平安時代初期西三条大臣と言われた藤原良相(よしすけ)によって創祀された古い神社だという。この西三条大臣というのが童謡「一寸法師」の中で「京は三条の大臣殿に抱えられたる」と歌われるその大臣なのだ。

今でこそ静かな住宅街が周りにあるような場所だが、すぐ西に千本通があり、千本通りは平安時代都のメインストリートである朱雀大路であったことを思い出し、大内裏の入り口朱雀門が二条通にあったことも併せ考えると、ここには朝廷の身分の高い人のお屋敷があったのはもっともだと思えてくる。

藤原良相が長として一族の名付けをしていたことからこの神社は名付け・命名にゆかりがあるという。時代は下り、幕末動乱の時に坂本龍馬が恋人おりょうへの伝言に「龍」という字を彫ったという大榎があることから縁結びの絵馬なども売っている。なかなか商売気のある神社だ。この大榎は平重盛が厳島神社から苗木を移植したものだという。

ところでなぜ龍馬はこの大榎を伝言板代わりに使ったのか。おりょうの父は勤皇派の宮家の医師であり、多くの勤皇の志士とともにさっき触れた六角獄舎に収監されていたのだ。多分新撰組などの幕府側の監視の目をかいくぐりながら龍馬はおりょうの父の安否を確認しに行ったのだろう。「龍」と彫った字はおりょうの父のそして龍馬自身の存在証明だったのだろう。二人がそこまでぎりぎりの状況の中で生きていたのかと思うと胸が熱くなる。

先ほど出た北垣国道は勝海舟の死の知らせに接した時に日記にその死を悼むとともに勝海舟の弟子の坂本龍馬とも蝦夷開拓の夢を語り合ったことを記している。坂本龍馬は死しても琵琶湖疏水事業の後押しをしていたのかもしれないなと感慨に耽ってしまう。

書き忘れたが武信稲荷神社の本殿はなかなか凝った造りをしている。是非それも楽しんでもらいたい。

そこから北へ一筋行くと三条通りに突き当たる。ここは京都最大のアーケード商店街と銘打つ三条会商店街が西は千本通から東は堀川通まで800mにわたってある。昭和の香りの店があり、ネットでも評判の最近の店もあり、そぞろ歩きで十分楽しめる通りなのだ。

まず西の端まで行ってみると「黒毛和牛1頭買いで京都ではあまりにも有名な店」というミートショップヒロがある。自慢の肉で作るハンバーガーやお弁当も人気とある。晩御飯用にと思わず何かを買ってしまう。

そこから東へといろんな店を冷やかしながら歩いていく。食堂もある、お惣菜屋もある、花屋もあれば駄菓子屋もある。ちょっと気に入ったところで食事もできるし、ちょっとした酒のあてを買うこともできる。玉屋というのがある。昭和そのものの食堂だが、店頭でパンダの焼き模様をつけた今川焼を売っている。買って食べたがパンダの焼き模様以外は全く普通の昭和の今川焼だった。

天ぷら大橋屋ではグジの天ぷら250円を買ったが、小さなグジの天ぷら1個と薄い野菜天ぷら5個入りだった。グジの天ぷらは生涯初めて食べたものだがうまかった。「京つけもの おくの」では自家製つけものが売りなのだがその中でも聖護院大根は十分発酵して適度に酸っぱくてうまい。二条寺町の「ふくだ」の淀大根とそっくりの味だが、値段は半額なのがうれしい。なお聖護院大根も淀大根も同じ丸大根で生産地が違うだけで名前が違うみたいだ。

そしてしばらく行くと、世界的にも珍しいカカオ豆を現地生産者にも優しいフェアトレードの独自仕入れにより調達、自家焙煎による製法でカカオ本来が持つ濃厚で芳醇な香りと甘みを引き出したハンドメイド・チョコレートで有名なDariK(ダリケー)三条本店がある。ここはテレビでもおなじみになり、そうなると品質は落ちてしまっているのじゃないかと危惧するが、食べてみるとなんじゃこりゃあ、今まで食べていたチョコレートはなんだったんだ、ゴディバもレオニダスも大したことないじゃないか、とこう思うほどおいしいチョコレートが味わえる。今まで若い女の子が多い職場への付け届けはレオニダスと決めていたが、これからはダリケーにしようと心に決めたぐらいだ。

八坂神社の又旅社もある。祇園祭の発祥が神泉苑での祇園御霊会であり、この地が神泉苑のすぐ南に位置することからかつては祇園祭の神輿3基がここで奉安された由緒を持つ。さらに行くと本格中華を京町屋で楽しめる、ランチもディナーも、という魏飯夷堂がある。上海出身の専門点心師が作る名物の小龍包が人気の中華料理専門店で老舗有名味噌屋さんが長年利用していた築100年以上の京町家だから古い看板には「味噌」と大書してある。

堀川通りの終点(始点かも)には祇園ちご餅で有名な三條若狭屋がある。祇園祭で長刀鉾の稚児が八坂神社に供えるのが稚児餅で、「二軒茶屋 中村楼」が代々氏子として献上し、現在は713日から31日まで同店の(円山公園内にある)茶店で食べることができる。それが三條若狭屋ではそれに由来する祇園ちご餅がいつでも買えるのである。

ここから三条通そぞろ歩きはすっ飛ばし、新京極六角の誓願寺まで車で移動しよう。三条通寺町近くのコインパーキングに車を停める。三条寺町角にある矢田寺から、修学旅行生で賑わう新京極通南に行くと誓願寺の入り口に来る。

誓願寺は浄土宗西山深草派の総本山であり、ご本尊は丈六の阿弥陀如来坐像である。重要文化財の毘沙門天立像、誓願寺絵巻は一般公開されていない。清少納言、和泉式部が当寺で帰依したことから女人往生の寺ともいわれる。和泉式部はその後誠心院の初代住職となったが、現在誓願寺の100mほど南に下がったところにその誠心院はあり、和泉式部の墓と伝えられる宝篋印塔がある。

さらに南に下がると寅薬師といわれる西光寺があり、さらに通りの名前にもなっている蛸薬師がある。僧侶の身でありながら病弱な母の求めに応じ生ものの蛸を買ってきたところを人々に見咎められ、やむなく包みを開けたところ蛸は神々しいばかりの光を放つ薬師如来として現れたという言い伝えにちなんでいる。寺にある蛸を撫でれば万病に効くご利益があるという。

さて誓願寺に戻ろう。ここは洛陽六阿弥陀霊場の第六番目の札所(つまり最後の満願となる札所)でもある。また第五十五世安楽庵策伝上人は教訓的でオチのある笑い話を集めた「醒睡笑」を著し、「落語の祖」と称せられている。

誓願寺寺務所に墓地の見学の許可を取っておく。誓願寺本堂入口から新京極通を元来た方に戻り、MOVIX京都のある角を東に行くと墓地の入り口があり「山脇東洋解剖碑所在墓地」と石碑が立っている。ピンポンを押して管理人に山脇東洋のお墓を見学したい旨を伝えると快く墓地内に入れてくれて、親切に山脇東洋夫妻の墓はここですと案内してくれる。墓には屋根が取り付けられており、傍らには駒札が建てられている。その右には以前にあった東洋夫妻の墓もある。

東洋夫妻の墓のすぐ左手には「墓碑整備記念之碑」が建てられ、14名の山脇一門によって観臓された人々の解剖供養塔である。14名の人々はすべて斬首された罪人であり、そのためか14名の戒名にはすべて「剣」という字が入っている。右上もっとも先頭に書かれているのは「利剣夢覚信士」であり、先述の通り、山脇東洋が観臓した罪人「屈嘉」その人である。息子山脇東門は17年後女性罪人の解剖を初めて行ったが、右から3番目の「剣室如幻信女」がその女性の戒名である。

山脇東洋夫妻の墓より入り口に近いところ大きな墓がある。第五十五世策伝上人の墓である。この墓地にはほかにもいろいろな有名人の墓がある。高層のビルに囲まれたこの墓地だけは繁華街の喧騒からは隔絶し、風に吹かれてカタカタ鳴る卒塔婆の音にハッと振り返ってしまい、何か居心地悪くなって他の有名人の墓を探索することもなく、管理人にお礼を言ってくぐり戸を抜け、喧噪の新京極に戻ってほっと一息ついたものである。

三条通を今度は西に歩けば明治から大正にかけて建てられたレトロな建物が立ち並び、古い京都と新しい京都が混在した町並みを楽しめる。東に行っても弥次喜多の銅像に出会えるのだが、三条通り歩きつまみ食いは今日はここまでにしておこう。


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